江戸時代中ごろに制作された、県下最大級の城下町絵図です。
素朴な疑問ですが、当時の人たちは、一般的に、高空から見た三角州の姿をイメージできたのでしょうか。 三角州を囲む周辺の山は、せいぜい標高が300メートルです。 現在、私たちは地図を見慣れていて当たり前ですが、鳥の視点で自分達の住む世界を把握できていたことに驚きます。 この絵図で、ぜひ確認していただきたいのは、三角州の突端(右下)から北西方向に延びる青い線です。 1740年代に開削完工した人工の溝川、大溝です。 三角州突端近くの大溝です。 大川(阿武川・松本川)から取り込んだ水は、生活用水、農業用水、防火用水として利用されました。 川船による物資運搬にも利用され、川の上流域から運び出された薪炭などが城下にもたらされました。 大溝は、三角州中央辺りで新堀川と合流します。 延長は約2.5キロメートルあります。 これが設けられたことにより、三角州南部から中央部にかけての排水・治水が安定し、利用できる土地も拡大します。 この頃には、三角州の形も、現在見ることができるものに近い形に発達してきます。 1680年代竣工の新堀川、1740年代竣工の大溝は、三角州内の排水・治水の安定に大きく寄与し、そのことは、三角州上の城下町の発展にも大きく寄与しています。 三角州北東部に存在した入江状の沼地・湿地も、次第に土地が拡大しています。 「浮き島」と呼ばれる土原地区の弘法寺周辺は、この絵図が制作された頃には、まさに浮島状態であったことが分かります。 とにかく大きな城下町絵図です。 誰が、どのような目的で、このような絵図を作成したのでしょうか。 素朴な疑問を覚えます。 実はこの絵図、藩の役所で保管していたと考えられています。 武家屋敷地には、家の主の名前が書かれた紙が貼り付けてあります。 それが何枚も重ねてあり、主が代わると貼り替えていたことが見て取れます。 現在の住宅地図のように、何の誰兵衛が何処に住まいしていたかを、役所の方で把握する絵図であった可能性があります。 藩の施設(本丸や詰め丸、三の丸への出入り口である三ヶ所の総門、三の丸の浜丁の通りに面した藩の役所建物などなど)も詳しく描かれています。 様々な情報を引き出すことができる資料です。 ぜひ、一度ご覧になってください。 萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展において、好評展示中です。 ということで、「城下町のあゆみ」はつづく ・・・ (清水)
by hagihaku
| 2009-12-07 12:10
| くらしのやかたより
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