城下町のあゆみ、その4
萩三角州の上に築かれた城下町が、ほぼ完成する頃の城下町絵図です。
b0076096_94239.jpg

3点とも、初公開の資料です。
b0076096_9424135.jpg

1800年代初め頃の城下町絵図です。
b0076096_9433336.jpg

現在も、浮島という地名が伝わる三角州北東部です。
弘法寺という真言宗の寺院がありますが、寺周辺の土地が、前の絵図より広くなっています。
やがて寺周辺の土地は畑として利用され、「弘法寺菜園」と呼ばれるようになりました。
永く、城下への野菜供給地として土地利用がなされました。
ちなみに、白く表現されているのは武家屋敷地です。
区画された敷地の中に見えるのは、その屋敷の主の名前です。
b0076096_9504568.jpg

1850年頃に描かれたと考えられる城下町絵図です。
1800年代初め頃の絵図と比べて見てください。
何か気付かれませんか?
b0076096_95237100.jpg

三角州中央あたりに、広く(大きく)白く描かれた一画にご注目ください。
白い一画は、1849年に落成した藩校の明倫館です。
幕末期、文武を奨励する藩の方針で、拡充整備されました。
b0076096_9543387.jpg

敷地の面積は、1万5千坪を超えます。
それまで藩校明倫館は、旧三の丸(城内)にありましたが、敷地は1千坪弱でした。
それに比べると大変な拡充で、藩の力の注ぎぶりが伝わってきます。
三角州中央に、大規模な造成・開発が可能な低湿地があったからこその拡充整備です。
新しい藩校を整備するにあたって、元からの城下町を壊して再編するようなことは行われませんでした。
b0076096_10105060.jpg

明治維新の後、明治2年(1869)の城下町絵図です。
藩庁は1863年に山口に移っていますので、正確には城下町絵図と呼べないのかもしれません。
b0076096_10123621.jpg

幕末期の長州藩・萩の緊張を伝えるものが描き込まれています。
日本海に面した菊ケ浜に築かれた土塁が確認できます。
城下の老若男女が構築工事にあたり、特に女性の姿が目をひいたことから「女台場」と呼ばれました。
延長約2キロメートル、4個所の台場から成っています。
b0076096_1028717.jpg

特に注目していただきたいのが、絵図右上、松本川河口あたりから東(右方)へ延びる水路です。
安政2年(1855)に開削が竣工した姥倉運河です。
河口部分で狭く浅くなる松本川の水を、いち早く日本海へ流出させることが、建設の大きな目的でした。
洪水の対策です。
1680年代の新堀川、1740年代の大溝(藍場川)、そして1850年代の姥倉運河と、水と戦い、共生してきた三角州上の城下町の歴史が見えてきます。

明治2年(1869)の城下町絵図は、江戸時代を通じ、三角州中央辺りに洪水時に遊水池となるような土地を保ち、一方で人工の溝川によって排水・治水を安定させてきた城下の姿を良く伝えています。

実は、この城下町絵図を、現在でも萩の「まち」では、地図として用いることができます。
なぜなのでしょうか。

それについては、次回以降、少しずつご紹介します。 ・・・ということで、続く・・・  (清水)
[PR]
by hagihaku | 2009-12-13 10:43 | くらしのやかたより
<< 地層はぎとり標本の展示公開 赤鬼なまこに住む「ひょうきん者」 >>