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随想 吉田稔麿(2)
栄太郎(稔麿)好み
 松陰門下、吉田稔麿こと栄太郎の家は十三組中間(槍持ち役)だった。卒族と呼ばれる、最下級の武士である。経済的にも貧しかった。各地から栄太郎が故郷の父母にあてた手紙には金銭にかかわる話が、ずいぶんと出て来る。
 食べ物では鯨肉が好物だったようだ。母と妹の留守中、栄太郎が友達を自宅に連れて来て、鯨肉の味噌煮と飯を気前よく御馳走していたとの逸話が残る(来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』)。
 あるいは安政6年(1859)3月7日、萩から江戸在勤の父にあてた手紙には「何分、金銀をたくわえ申さずては相捌かず、かつまた鯨送り申すべきと存じ奉り候へども、去冬は至って少なく、かつ高く候て、終に送り得ざる、御勘弁遣わさるべく候」とある。鯨の捕獲頭数が少なく、高価で買えなかったと謝っているのだ。
 長州藩では早くから捕鯨が盛んで、日本海でセミクジラを捕った。ところが幕末に近づくや、捕鯨頭数が減少する。背景には、アメリカによる大規模な捕鯨があった。外圧が萩の下級武士の食卓にまで影響しているのだ。栄太郎がそのことに気づいていたとは思えない。しかし、もし知っていたら、
「鯨をアメリカに奪われ、今年も食べれんかった。打ち払うんじゃ!」
と、栄太郎の攘夷論はますます過激になったかもしれない。
 また、栄太郎には観劇の趣味があった。元治元年(1864)5月22日付の父母あての手紙には、京都で歌舞伎を観たと知らせている。観客は「大入り」で、役者は「市川市蔵」と「その親民蔵」。市蔵は三代目(播磨屋)でこの翌年、33歳の若さで没した。民蔵はその実父、二代目尾上多見蔵(音羽屋)のこと。多見蔵は明治以降は東西歌舞伎界の大長老的存在となり、明治19年(1886)、87歳で他界している。栄太郎は多見蔵の白井権八、市蔵の幡随院長兵衛を楽しみ、「両芝居とも大出来にござ候」と賛辞を惜しまない。
 同じ手紙で栄太郎は「追々、四条橋の涼も始まり、賑にぎしくござ候」と述べるが、京都で歌舞伎といえば四条河原の劇場だろう。栄太郎のころ、この地には七軒の劇場(七座)があった。現在はそのひとつ、四条通りに面した南座が残り、松竹が経営する。最近は例の暴行事件のため、市川海老蔵の顔見世興業出演が中止となり、さんざんワイドショーに登場した劇場だ。桃山風の豪壮な建物で、創建は江戸時代はじめというから400年近い歴史を持つ。栄太郎はここで、歌舞伎を楽しんだのかも知れない。任侠モノに興奮して肩を怒らせて京都の街を闊歩する栄太郎の姿が目に浮かぶ。
 歌舞伎だ、涼だのと風流な趣味人としての一面を感じさせるが、この2週間ほど後、栄太郎は池田屋事変で落命する。それが幕末という、動乱の時代を生きる者の宿命なのかも知れない。最後の観劇だった可能性が高い。(一坂太郎)
 
 
by hagihaku | 2011-02-21 10:47 | 高杉晋作資料室より
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