人気ブログランキング | 話題のタグを見る
随想 吉田稔麿(13)
出奔の理由
 吉田栄太郎(稔麿)の生涯のうち最大の謎と言えるのが、万延元年(一八六〇)十月、兵庫警備の陣中から突然出奔(脱藩、欠落)したことだろう。それから栄太郎は丹羽や出雲、あるいは岡山などを経て江戸に赴き、旗本妻木田宮に仕えたりした。確たる証拠は残っていないが、長州藩が黙認していたことは容易に察しがつく。密命を与えられ、諜報活動を行ったようだ。それを裏付けるかのように二年後の文久二年(一八六二)七月、京都で世子毛利定広に謝罪して、簡単に帰藩が許されている。
 もし、無断でこんな勝手な事をしたら無事では済むまい。栄太郎の師吉田松陰が、かつて脱藩して東北地方に赴いたさいは士籍を奪われ、浪人にさせられた。それと比べると栄太郎の罪は更に重いはずだが、罰せられるどころか、一年後には士雇に列せられるという栄達まで遂げている。
 そのあたりの、何か靄(もや)に包まれたような史実を探ってみたいと思うのだが、これは流石に難しい。栄太郎という人物を歴史の中に位置付け、評価する最大のポイントはここにあると考えている。
 さて、兵庫から姿を消すさい、孝行息子の栄太郎はどのように両親に説明したのだろうか。実は直接、手紙は出していない。信頼していた母方の叔父里村文左衛門(文衛)に十月二日付の手紙で知らせたのみである。
 この手紙の内容が、ちょっと面白い。
 出奔前のある夜、栄太郎は酷い嘔吐下痢に苦しまされた。そのさい栄太郎は日頃から崇拝していた八幡宮に懸命に祈ったところ、不思議にも翌朝には全快。栄太郎はもし治ったら、全国百社の八幡宮に参りますと誓った。神との約束を果たすため、栄太郎は旅に出るのだという。「社数多に付、彼是二年かかり申すべく、その上当節は関東辺りへは卒爾に参り難く勢いござ候」と知らせる。
 さらに「私ケ様相成り候上は、さぞさぞ父母当惑とひそかに掛念つかまつり候」と両親を気遣い、叔父さんから「御智略を以てしかるべく御弁説」して欲しいと頼むのだ。本当の理由は言えなかったのだろう。この後、栄太郎の出奔は萩で評判となり、父の清内も迷惑したらしい。
 それにしても、出奔の理由が全国八幡宮参りだと、周囲の者は本気で信じたのだろうか。だとすれば、随分純朴な人たちである。
「さすがは栄太郎、若いのに信心深い感心なやつっちゃ」
 と言ったかは知らない。
 なお、栄太郎が神社仏閣を好んだのは事実のようで、元治元年(一八六四)三月二十一日、両親あての手紙には「この間より、石山寺開帳につき参り滞留」とある。近江石山寺の本尊如意輪観音菩薩半跏像は、三十三年に一度拝めるだけの秘仏だ。わざわざ拝観に行ったというのは、栄太郎の何か別の一面を見たような気がする。(一坂太郎)
by hagihaku | 2011-04-22 17:25 | 高杉晋作資料室より
<< 萩博物館のGW 随想 吉田稔麿(12) >>