クジラが明治維新の立役者であった?
5月7日(土)、南寄りの風が吹く暖かい朝となりました。
厳しく長かった冬の寒さの影響か、今年は夏みかんの花がまだ開花していません。
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萩博物館企画展「萩・北浦のクジラ文化」展のご紹介を続けます。
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クジラが明治維新の立役者であった?! ことに触れたコーナーです。
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嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船4隻が、江戸湾入口の浦賀に現れます。
世に言うペリー来航で、この後、日本は幕末維新の動乱の時代を迎えます。
実は、このペリー来航とクジラとの間に、深い関わりがあったのです。
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19世紀のアメリカ捕鯨船の操業を描いた絵画です。
当時の捕鯨方法は、帆船を母船として、これに積み込んだ捕鯨ボートでクジラを追跡し、銛や破裂矢をクジラに打ち込んで捕獲するというものでした。
遠く外国領海にまで出漁操業し、母船においてクジラから鯨油を採っていました。
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18世紀から20世紀初め頃の捕鯨船航海日誌をもとに作成された、マッコウクジラ捕獲位置図(提供:(財)日本鯨類研究所)です。
日本列島の太平洋側に印が集中しています。
小笠原・北海道・ハワイを結ぶ海域には、マッコウクジラが多数生息していました。
その海域は、ジャパングラウンドと呼ばれた大捕鯨漁場で、600隻から700隻の捕鯨船が操業していたという研究があります。
ペリー来航の目的の一つは、この捕鯨船へ物資を補給する港を確保することでした。
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同じく、アメリカ捕鯨船の航海日誌から作成したセミクジラ捕獲位置図です。
日本海や北太平洋に印が集中しています。
セミクジラも、マッコウクジラと同様に鯨油が多く得られるクジラでした。
1870年代に石油の採掘・利用が始まるまでは、鯨油が灯火用油や機械潤滑油として用いられていたことから、多数のアメリカ捕鯨船が操業していました。
嘉永7・安政元年(1854)に再度ペリーは来航し、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれます。
そして、下田と函館とが開港されます。
なぜ函館が?という素朴な疑問に、これらの図は答えてくれます。
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安政2年(1855)、長崎県平戸沖の的山大島に流れ寄ったナガスクジラの図(松浦史料博物館蔵)です。
アメリカ捕鯨船の銛がクジラの体に刺さっていたこと、また銛の先端部分にS.CARAVANという船名やJ.Tというイニシャルが刻まれていたことが記録されています。
幕末期の日本海におけるアメリカ捕鯨船活動を示す資料です。
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ちなみに、吉田松陰がペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に乗付けて密航を企てたのは、嘉永7・安政元年(1854)3月27日のことです。
艦隊は、和親条約の細則を定める交渉で、下田沖に停泊していました。
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鯨油を用いたキャンドル・精密機械油・クリーム・洗剤や、クジラヒゲを用いた女性用コルセット・パラソルなどです。
クジラはこれらの製品の原料であり、クジラから採れる鯨油は、一時期、アメリカの近代化を支えたました。
日本近海におけるアメリカ捕鯨船の大挙操業は、巡り巡って日本に開国を促すこととなり、明治維新のきっかけの一つとなりました。
極端な見方かもしれませんが、その意味で、日本近海に多数生息したクジラは、明治維新の立役者であったと言えるのかもしれません。

萩博物館企画展「萩・北浦のクジラ文化」展は、6月19日(日)まで開催しています。
期間中、ギャラリートークも開催致します。
本日5月7日(土)、5月21日(土)、6月4日(土)の、いずれも14:00から約1時間の予定です。
よろしければ、お運び下さいますようご案内致します。 

・・・ということで、続く  (清水)
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by hagihaku | 2011-05-07 11:14 | くらしのやかたより
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