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随想 吉田稔麿(16)
幼なじみの利介
 萩の松本村に住む吉田栄太郎(稔麿)が九歳のころ、嘉永2年(1849)3月、近所に引っ越して来た一家がある。利助とその両親だ。利助は栄太郎と同い年だった。のち初代総理大臣となった「従一位大勲位公爵伊藤博文」である。
 利助は萩の生まれではない。瀬戸内に近い熊毛郡束荷村に住む、林と称する農家の生まれだ。父十蔵は故郷の村ても金銭トラブルを何度か起こした。そのため村に居られなくなり、いろいろあって萩の下級武士伊藤直右衛門に仕えていたのだ。
 同年齢の二人は、すぐに一緒に遊ぶようになった。
 利助は別に病弱ではなかったが、顔が青白かった。だから他の子供たちから「利助の瓢箪、青瓢箪、お酒を飲んで赤うなれ」とからかわれていた(『伊藤博文伝』)。利助は自分よりも腕力が強い、栄太郎に押さえつけられることがあった。青瓢箪とはいえ利助も負けん気が強いから、またやって来る。そしてまた負けて帰って行った。しかし利助が笛を吹いて歩けば、栄太郎は後ろから調子をとってついて行ったという(『松陰先生と吉田稔麿』)。栄太郎は読み終わった書籍を、利助に与えるなど親切だったらしい(『藤公美談』)。あるいは利助の最初の妻(入江九一の妹)を世話したのは、栄太郎の母イクだった。利助はすぐにこの妻を離縁したので、イクは彼女が自殺するのではないかと心配しながら入江に連れて帰ったという話が残る。
 その後も二人の交遊は史料で確認出来るが、文久3年(1863)5月、利助こと「伊藤俊輔」が井上聞多らとイギリス密航留学するさい、栄太郎がどのような反応を示したかが分からないのが残念だ。栄太郎がちゃんと、聞かされていたのかも分からない。「そういやあ、最近俊輔を見かけんのう。行方不明?どこ行っちょるんじゃ」と、首を傾げていたかは知らない。一方俊輔が「あいつは攘夷、攘夷っちゅうてうるさいからのう、エゲレス密航はちょっと黙っちょこう。まぁ栄太もこん前、わしに内緒で出奔しよったけえのう、お互いさまじゃ」と思っていたかも知らない。
 元治元年(1864)6月5日、24歳の栄太郎は京都で死んだ。24歳の伊藤が帰国したのはその月である。伊藤が竹馬の友の死をどこで聞き、何を思ったかはこれも史料が残されていない。しかし、それから四十五年長く生きた伊藤は政治家として日本を独立した近代国家へと見事に脱皮させた。地下の栄太郎も「利助、ようやった」とうなずいていたに違いない。
 子供のころ、利助は栄太郎の家に遊びに来ては、庭にある大きな松の樹に登っていたと伝えられる。ゆえにこの松は後年、「大臣松」と呼ばれた。大臣松は栄太郎旧宅とともに昭和50年代半ばまで残っていたが、いまは切り倒されて跡形も無い。写真で見ると立派な枝振りの松だ。
 というわけで、今年は吉田稔麿同様、伊藤博文も生誕170年という記念すべき年にあたる。以前、私は彦根のひこにゃんに対抗し、萩のゆるキャラを作らねばという激しい使命感に燃えていたことがある。ちょうどその年(平成21年)が伊藤博文没後100年で、私は記念展の主査をやっていた関係から、博文漬けの毎日を送っていた(今年は栄太郎漬け)。そのさい、伊藤の顔写真をじ~っと眺めていたら思い浮かんだゆるキャラがここに紹介する「ヒロボン」だ。
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ぜひに!と提案したところ、満場一致で却下されたのは残念でならない。いまでは廃棄物になりかけている(一坂太郎)
 
by hagihaku | 2011-06-13 10:57 | 高杉晋作資料室より
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