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随想 吉田稔麿(19)
 吉田稔麿は藩主の将軍あて嘆願書を持って、江戸に行くため藩から「用心金」として三十両を与えられた。ところが京都滞留になった。そこで元治元年(1864)5月17日、用心金を紙に包んで封をして、旧知の京都商人塩屋兵助に預けた。
 包み紙の表書きは「江戸行用心金三拾両」とし、自分で持っていたら使ってしまいそうなので、知己塩屋に預け、他日江戸行きのさいには出してもらうという意味のことを、あれこれと書きつけている。さらに次のような添え状も封入し、自分に対する戒めとした。
「此の金の儀は江戸行きの上、御内用払いの廉へ遣わすべき筋に付、滞京中は遣い申す事相成らず候。况んや江戸の御勘渡已に京師滞留、四、五日の内に遣い果し候を耳、慎しむべくのみ。
 江戸行き止みに相成候はば、返上つかまつるべき事。
     年 丸
此の度、京師長滞留に決し候上は、京師にて頂戴致すべき事」
 かれは、金三十両を自分で持つことに、よほど自信がなかったらしい。誘惑には、いささか弱かったようである。
 ところが6月5日の池田屋事変で稔麿は没したため、塩屋兵助は預かっていた金三十両の封を切らず、そのまま父清内に送り届けた。清内はこれを藩の方に返納する。
 藩政府は稔麿も塩屋も清内も、みな清廉の者だと喜ぶ。そして7月11日、返納された「金三拾両」を稔麿の祭祀料として、あらためて清内に贈った。そのさいの「覚」には「稔丸兼ねての正廉謹厚の節操、死後に至り相顕われ、奇特の事に候」との褒言葉が並ぶ。
 明治9年(1876)10月14・15日、二日にわたり、京都霊山において招魂祭が養正社による私祭として行われることとなった。養正社は同年、内閣顧問木戸孝允と京都府権知事槙村正直が中心となり作った組織だ。祭られる対象は「戊午(安政5年・1858)以来、其の身多年 王事に憂労して終に非命に死」んだ者たちで、中には十三周忌となる稔麿も入っていた。祭事当日はかれらの「遺墨遺物」も展示されることになったが、稔麿のそれは三十両の包み紙と自筆の添え状、藩からの「覚」の三点を一組にして貼り交ぜた、畳一枚ほどもある大幅であった。祭典3日前、この軸の大きな余白部分に、長州出身の国重正文(のち東京国学院長)が「ああ、これ吾が旧知故吉田年丸の手沢封題にあらずや」に始まる解題を書き、最後に品川弥二郎が次の追悼歌を添えた。
「おもひきや十とせあまりもなからへて 涙ながらに筆とらむとは  やじ拝草」
 稔麿の少々拙い小さな字に比べ、品川のそれは自信に満ちた堂々としたものだ。このストーリー性のある軸は、現在京都大学附属図書館尊攘堂史料中にある。軸の表紙には品川が「亡友吉田稔麿へ毛利家よりの賞詞並びに同人遺墨」と、書く。
 なお、稔麿の初七日に塩屋では稔麿の遺墨を出し、僧侶に読経させている。遺墨は故人の魂がこもった、特別なものとして扱われたのだ。
 (一坂太郎)
by hagihaku | 2011-08-09 18:31 | 高杉晋作資料室より
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