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晋作、著袴の式
 先日、秋篠宮ご夫妻の長男悠仁(ひさひと)さま(5歳)の「着袴(ちゃっこ)の儀」と「深曽木(ふかそぎ)の儀」が、東京・元赤坂の赤坂東邸で行われたとの新聞報道を読んだ。着袴の儀は皇室の子供が5歳になったさい行う、初めて袴を着ける儀式で、一般の七五三にあたるとされる。
 実は高杉晋作も、萩城掘内にある春日神社で、「著袴の式」を行ったという。
 春日神社は大同2年(807)、大和春日社(現在の春日大社)より勧請されたと伝えられる。春日神は、藤原氏(中臣氏)の守護神である四神の総称だ。大和から勧請された春日神社は、全国に一千社を数えるとされる。萩の春日神社は慶長12年(1607)、毛利輝元により現在地に移された。
 幼少のころの晋作と、大変ゆかりの深い神社で、そのことにつき村田峰次郎『高杉晋作』(大正3年)には次のような記述がある。
「高杉の崇敬する所の産土神は、堀内の大馬場南詰にある春日神社なり。萩五社の第一宮にして、城下総鎮守と称せらる(中略)城下の士族にして子を生めば、皆必ず春日神社を守護神と祷る習制なれば、高杉も誕生の後百日目に百日参(ももかまいり)と唱へ、老婆の手に倚りて、その殿宇に参詣し、神前に拝したり。神職は祝詞を読み、神楽を奏し、終に麒麟児の頭上に神酒を灑ぎて、将来の安全幸福を祈れり。また高杉が七歳の誕生日には、士族男児の著袴式を挙ぐるため、幼稚なる高杉は始めて社●(ころもへんに下)を著し、大小刀を佩きて、春日神社の広前に参拝せり。神職は例に習ひて儀典を行ひ、只管高杉のために、立身成効の祈願を誓ひぬ」
 著者の村田は村田清風の孫で、長州藩士の子として生まれ、子供のころには父大津唯雪の同志だった高杉晋作にも会っている。晋作クラスの萩の武士の子が、どのような通過儀礼を経て成長するかは熟知していただろうから、この一文は信頼に値するだろう。
 『萩市史』3巻(昭和62年)によれば春日神社は「安永2年(1773)萩城内の火災により社殿炎上、翌三年重就公再建し今日に至る」とあるから、幼少期の晋作が参った当時の姿で残っていると考えていいだろう。いまも毛利の家紋が社殿に付けられ、格式の高さを感じさせる。
(一坂太郎)
by hagihaku | 2011-11-08 18:45 | 高杉晋作資料室より
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