1月4日、萩では雪が舞っています。
正月三が日間、寒さの中たくさんのご来館ありがとうございました。 コマーシャル100年展で萩・再発見のつづきです。 明治10年代終わり頃から、大阪商船の汽船が定期的に萩浜崎港に寄港するようになったことは、以前ご紹介しました。 この汽船や他の回漕店の船によって、萩地域の産物が京阪神地域に送られ、逆に、京阪神地域に集まった産物や工業製品などが萩にもたらされました。 展示中の浜崎町商家旧蔵の引き札には、定期航路に面した地域の問屋や商店のものが多く認められます。 これは、大阪商船定期航路の発着地である鳥取県境港の問屋の引き札です。 髪にリボンを結ぶ女性やインコが描かれています。 北国肥料とは、北海道産のニシン搾め滓でしょうか。 上から、広島、玉島(現倉敷市)、丸亀、神戸と、瀬戸内海に面した寄港地の問屋引き札です。 海産物や素麺・蝋燭などを扱う問屋との関係がうかがえる資料です。 大漁のエビスさん、ニコニコ顔で帳面をつける大黒さん、盛装した貴人の乗る馬車、満載の千石船と汽船といった、引く札らしい図柄です。 岡山、兵庫(神戸)、大阪の柑橘類を扱う問屋の引き札も認められます。 萩では、明治9年(1876)に全国に先駆けて夏みかんの経済栽培が始まりました。 明治20年(1897)頃より京阪神方面に出荷されるようになりますが、夏みかん3個から5個と米1升とが同じ値という高値で取引されることもありました。 この引き札がもたらされた明治時代の終わり頃には、萩の旧城下の空き地は、ほとんどが夏みかん畑として利用されていたといいます。 その生産額は、当時の萩町の年間予算の8倍にものぼりました。 萩の経済は夏みかんによって支えられ、「煙突を見ない」「煙を見ない」近代化が進められました。 ・・・ つづく ・・・ (清水)
by hagihaku
| 2013-01-04 12:42
| くらしのやかたより
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