城下町萩のひみつの2 ~ 三角州低湿地の開発 ~
城下町萩においては、江戸時代の城下町絵図を今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形成された「まち」が大きく改変されなかったことを意味します。
それでは何故、「まち」が大きく改変されなかったのでしょうか。
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萩三角州の微妙な高低差を表現した等高線図です。
三角州中央から北東部にかけて、標高が2mに満たないような低地が広がっています。
この一帯は、水田やハス田として利用されてきましたが、大雨の際に出水を調整する遊水池としての役割を持っていました。
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三角州を南方の上空から見下ろした鳥瞰イメージ図です。
赤色で表現されているのは、明治以降に整備された施設や道路などです。
三角州の外に青色で表現されているのは鉄道です。

いかがでしょうか?
緑色で表現された三角州内の標高の低い一帯に、施設や道路が整備されてきたことが見えてきませんでしょうか?

実は、城下町萩においては、水田やハス田を近代化施設の用地としたことで、江戸時代に形作られた「まち」を大きく改変することなく近代化を進めることができたのです。
江戸時代の城下町絵図を地図として使うことができる「ひみつ」の一つが、ここにあります。
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藩校明倫館の敷地に整備された明倫小学校です。
三角州の北側上空から南方、三角州中央辺りを撮影したものです。
昭和10年(1935)に改築される前の撮影で、校舎が敷地の西側(画像右側)にあります。
周囲には、江戸時代と変わらぬ水田やハス田が広がっています。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地の南側道路の整備の様子です。
米屋町下がり筋(明倫小学校西側に接する街路)から御許町筋(旧萩往還)までの改修が竣工するのは、大正15年(1926)のいことです。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地・米屋町下がり筋を南西方より撮影した写真です。
敷地南側の整備されつつある道路が、西側(手前側)の水田・ハス田の方にに延長されつつあります。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地南側の道路は、昭和2年(1927)に玉江橋まで延伸整備されます。
その道路から、敷地の南西隅から南側を撮影したものです。
写真は、道路南側(画像右側)に公民館の建物が見えますので、昭和25年(1950)以降の撮影です。
公民館も、水田やハス田を用地として整備されました。
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大正14年(1925)に新たに建設整備された萩町役場(当時)です。
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新堀川(1687年、三角州中央に設けられた人工の溝川)上空から南方を撮影した写真です。
昭和35年(1960)頃の撮影と考えられます。
画像右側(西側)に明倫小学校の建物4棟が見え、小学校敷地に接して南へと延びる雑賀下がり筋が見えます。
黄色い円で囲んだ所が役場の建物で、周囲にはハス田が認められます。
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江戸時代末の城下町絵図(部分)に町役場(後の市役所)の位置を円で示しました。
水田やハス田などを用地として近代化が図られたことが見えてきます。

・・・つづく・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-01-21 13:07 | くらしのやかたより
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