城下町萩のひみつの3 ~ 江戸時代末の三角州低湿地大開発 ~
城下町萩においては、江戸時代の城下町絵図を今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形成された「まち」が大きく改変されなかったことを意味します。
「まち」が大きく改変されなかった理由の一つとして、前回のブログにおいて、明治以降に三角州低湿地が近代化施設の用地とされたことをご紹介しました。
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実は、江戸時代の終わりころにも、三角州低湿地の「大開発」が行われています。
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それは、藩校明倫館(新明倫館)の整備です。
藩校明倫館は、1719年(享保4)に、萩城三の丸に開校します。
これが、文武を奨励するという藩の方針により、幕末の1849年(嘉永2)に、三角州中央の標高の低い農地を造成して拡充再建されます。
新明倫館の敷地の一辺は200mを超えます。、
大変規模の大きな開発でした。
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三角州の中央辺りから北東部にかけて、標高2.0mに満たない低地が広がっていることは以前ご紹介しました。
それらの一帯は、水田やハス田として利用され、大雨の際に出水を調整する遊水池としての役割も果たしてきました。
三角州の中央辺りは、江戸時代の初めころの城下町絵図では、腰のあたりまで埋まってしまう「深田」があったような場所です。
低湿地とも呼べるこれらの場所では、土地や道路の整備に「ある工夫」が必要でした。

今から12年前の2004年(平成16)、江戸時代のその「ある工夫」の跡を、藩校明倫館敷地のすぐ傍で見ることができました。
(上の絵図や写真において円で囲んだ辺りです)

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藩校明倫館(明倫小学校)の敷地に接した側溝と道路の改修工事の写真です。
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パワーショベルで土を掘り下げていくこと約1m、江戸時代の「ある工夫」が現れました。
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地表から深さ1m、圧縮された状態で厚さ約30cm、ビッシリと敷つめられたシダ(羊歯)の層を確認できました。
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敷き詰められたシダは、軟弱な湿地を造成する際に、埋め立てる土が沈下するのを防ぐためのものでした。
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新らしい明倫館を整備する際にも、この工法が採用されました。
三角州周辺より羊歯の類を刈り集めて敷き、その上に菊ガ浜などから土砂を運んで土地を造成したのだそうです。
広大な面積の藩校です。
圧縮されて30㎝の厚さに敷き詰めるとなると、相当な量のシダが必要だったと想像されます。

今でも、藩校明倫館の敷地の地下には、この江戸時代の大造成工事の名残のシダが、地下1.0~1.3m辺りに眠って(埋まって)います。
萩博物館には、以前、藩校敷地内を掘削する工事が行われた際に出土し、資料化したシダ類が保管されています。
(萩市郷土博物館時代に資料化されたものですが、先輩方は良い仕事をしておられます。
 その資料の存在をを知っていたので、2004年の側溝・道路工事の際に、待ち構えて写真を撮ることができたのです、実は・・・)

明倫館敷地から出土したシダ類は、低湿地のを開発を示す資料として、今回の企画展において展示しています。
ぜひ、企画展示室でご覧ください。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-01-22 18:00 | くらしのやかたより
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