城下町萩のひみつの4 ~ 夏みかんが守った城下町 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができます。
江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかった理由の一つに、明治時代に始まった夏みかんの経済栽培があります。
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1952年、昭和27年の夏みかん畑の分布図です。
萩三角州とその周辺に、かなりの面積の夏みかん畑を認めることができます。
この分布図と以下とを見比べてみて下さい。
何か見えてくることがありませんでしょうか?
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上の写真は、1945年、昭和20年7月5日に米軍によって撮影された萩三角州の航空写真です。
上の分布図で夏みかん畑となっている場所に、夏みかんの葉が黒く写っています。
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江戸時代終わりころの城下町絵図です。
いかがでしょうか?
絵図で白く表現された場所の多くが、夏みかん畑になっていることが見えてきませんでしょうか。
この白く表現されているのは、武家屋敷地や藩の施設です。

1876年、明治9年に、禄を失った武士の救済のために夏みかんの果樹としての経済栽培が始まります。
その際に、畑として利用されたのが広い武家屋敷地でした。
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栽培が始まって10年を経過した頃より、夏みかんは市場に出回り始めます。
当初は、夏みかん5個と米1升が等価というような高値で取引をされたそうです。
そして明治30~40年代には、当時の萩町の年間予算の8倍もの生産額を誇ったこともあるそうです。
江向のKさんによれば、夏みかんの樹が3本あれば子供を上の学校に進学させることができたそうです。
夏みかんは萩の「まち」と人とを支えました。

〈参考〉
 5個7銭の夏みかんが守った城下町

 『大日本農会報』 133号によると、明治20年(1887)の夏みかんの値は1000個14円(1個1銭4厘)。
 「東京深川正米相場」によると、明治16~20年(1883~1887)の米価が1石5円71~94銭(1升5銭7厘~9厘)、明治21~25年(1888~1892)の米価が1石6円66~82銭(1升6銭6厘~8厘)。
 夏みかん5個(約7銭) ≒ 米 1升(5銭~7銭)
 
 年によって変動はあるが、当初、夏みかん5個程度が、米1升と同じ値という高値で取引されたことによ り、夏みかん畑になった武家屋敷地が永く維持された。



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国鉄のディスカバージャパンキャンペーンのポスターです。
城下町の土塀からこぼれる夏みかんが紹介されています。
「ひかりは西へ」、「新幹線岡山開業」とありますので、夏みかん経済栽培開始から96年後の1972年のポスターです。

夏みかんの栽培は永く続き、武家屋敷地が、屋敷を区画する土塀や長屋などとともに畑として維持されました。
夏みかんは、結果として、江戸時代に形作られた「まち」を大きな改変から守ったのです。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-01-30 15:59 | くらしのやかたより
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