城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されていないことを意味します。 「まち」が大きく改変されなかった理由=ひみつの一つとして、萩三角州を形成する阿武川の上流に建設整備されたダムの恩恵に触れます。 このブログで何度かご紹介した萩三角州内の微妙な高低差を示す等高線図です。 三角州中央辺りから北東部辺りにかけて、標高が2mに満たないような低地が広がっています。 1960年、昭和35年頃に撮影された萩三角州中央あたりの航空写真です。 水田やハス田などの広い農地が目をひきます。 この農地が、江戸時代から、大雨の出水を調整する遊水池として機能してきたことは以前にも触れました。 1960年頃にこれが維持されているということは、依然として、洪水の憂いがあったということを示しています。 1972年、昭和47年の大雨に折に、三角州中央あたり、江向雑賀下がり筋で撮影された出水状況です。 写真左側が藩校明倫館の敷地です。 この辺りから新堀川にかけては、しばしば水に浸かっていたとされます。 同じ年の撮影で、場所は三角州中央からやや北東の土原(ひじわら)です。 遠くに電電公社の鉄塔を認めることができます。 この辺りは、今でも時々出水が道路にあふれることがあります。 これも同じ年の撮影で、場所は三角州の外、椿地区の雑式町(ぞうしきちょう)です。 胸まで浸かるような出水の中、消防団員が、綱を伝って孤立した住宅に移動するところが撮影されています。 椿地区でも毎年のように出水に見舞われていたということです。 そのような状況を大きく変えたのが、1975年、(昭和50年)に完成した阿武川ダムの整備でした。 ダム建設のため、旧川上村、旧福栄村では、204戸、207世帯の方々が離村を余儀なくされました。 しかしそのお蔭により、下流域では洪水の憂いが少なくなり、安心安全がもたらされました。 1972年、昭和47年に城下町東郊の田床山から撮影された萩三角州の俯瞰写真です。 三角州の中央辺りに農地が広がっているのを確認することができます。 2015年撮影の三角州中央辺りの俯瞰写真です。 洪水の憂いが少なくなった低地が、商業施設やその広大な駐車場、アパートなどの住宅、バイパス道路の用地として利用されていきました。 1972年撮影の萩三角州東外、椿東無田ヶ原地区の俯瞰写真です。 「無田」の地名が示すように、水田が広がっています。 2015年撮影の俯瞰写真です。 ここでも低地が、商業施設や住宅、バイパス道路や工場の用地として利用されました。 いかがでしょうか。 ダムが整備されたことにより、城下町の低地においては、随分と洪水の憂いが少なくなりました。 そして低地は、商業施設や住宅、道路の用地として利用が進むこととなりました。 それは、「まち」を壊して新しいものを作り上げるという開発ではありませんでした。 そうです。 ダムの恩恵により、結果として、江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかったのです。 城下町のひみつに迫る萩博物館企画展 「城下町萩のひみつ」 展、好評(?)開催中! ・・・ つづく ・・・ (清水)
by hagihaku
| 2016-02-26 20:00
| くらしのやかたより
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