城下町萩のひみつの11 ~ 目線を変えると見えてくる江戸時代の萩 ~
2016年3月28日(月)、今日もツバメの飛来は確認できませんでした。
(午後、館外に出ていませんので何ともいえませんが・・・)
花冷えの影響でしょうか。
昨年は3月24日の飛来でしたので、ツバメたちは少しノンビリと北上しているようです。
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さて、城下町萩のひみつの11、今回は目線を変えることで、江戸時代の萩城三の丸の様子が見えてくることをご紹介しましょう。
城下町絵図の左上部分(北西部分、外堀の内側の旧萩城三の丸)をご注目下さい。
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昭和27年、1952年の夏みかん畑の分布を示した図です。
以前、武家屋敷地が夏みかん畑として利用され、それが永く維持されたことで、結果として』武家屋敷の敷地割が今に伝えられたことをご紹介しました。
夏みかん色?!で囲んでいるのが、現在、萩博物館の敷地となっている場所で、当時は市民病院でした。
指月中学校と萩高等学校と病院を除き、ほとんどが夏みかん畑です。
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このエリア、城下町絵図を手に歩くと、そこかしこで楽しい発見があります。
ということで、博物館(毛利隠岐家)南の「本町」の通りを西へ、6軒隣!! の福原近江家まで歩いてみましょう。
本町の通りは、萩城三の丸のメインストリートでした。
実はこの本町の通り、明治初年に、道幅が江戸時代の半分になっているのです。
理由は、畑(当初は桑畑、後には夏みかん畑)を拡げるためでした。
本町の通りを取り込む形で畑(敷地)が拡大されたのは、通りの南側でした。
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かつての道路幅が良く分かる場所があります。
熊谷吉拾郎家と柳沢備後家の間の通り、平安古の総門に続く三年橋(三年坂)筋です。
左が熊谷家、右が柳沢家です。
ちなみに、柳沢備後家と国司熊之助家の2軒の敷地が、現在、萩西中学校になっています。
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その三年橋筋の東側、熊谷家の敷地西側を、目線を下げて見てみましょう。
何か見えてきませんか?
今は宅地になっていますが、この辺りも永く夏みかん畑として維持されてきました。
萩城三の丸においては特に、敷地を区画する土塀や長屋が、夏みかんの風よけとして保たれました。
土塀や長屋が無くなった場所には、土塀や長屋の基礎石の上に、敷地内部の石を集めて石積み塀が築かれました。
ここは、江戸時代に築かれた基礎石と、明治以降に築かれた石積み塀が見られる場所です。
そうです、石積み塀の下部に見えるのが江戸時代の基礎石なのです。
整然と積まれた基礎石の端(手前側)は、江戸時代の熊谷家敷地の境を示します。
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いかがでしょうか?
乱雑に積まれた石積み塀は、明治以降、畑が拡大された際に築かれたものです。
本町の道路幅が倍であったことを確認することができます。
目線を変えると、江戸時代の萩城三の丸の様子が見えてきませんか?
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歩みを西に進めましょう。
熊谷家・国司家と山内家の前辺りから、西側の毛利主計家の方を眺めます。
見えてきたのは、毛利主計家(毛利一門、阿川毛利家)の大きな花崗岩を積んだ基礎石です。
櫓(矢倉)のような建物があったのでしょうか。
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矢(クサビ)を使って石を割った矢穴の跡が残る基礎石です。
花崗岩は、萩城本丸背後の指月山の北側で採石されました。
先にご紹介した熊谷家敷地西側の黒っぽい基礎石は、城下北東郊の笠山で産する安山岩(笠山石)です。
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毛利主計家前で、東方、毛利隠岐家(萩博物館)の方を振り返って撮影したものです。
萩城三の丸における花崗岩を用いた基礎石で、最も緻密に積まれたものです。
記録によると、毛利主計家には、二階建ての長屋門が存在したようです。

・・・とここまで屋敷3軒、つづきは次回ということで。
実はこれ、ギャラリートーク後に催行している「萩再発見ツアー」のルートの一部です。
次回のギャラリートークは4月2日(土)の14:00から、萩再発見ツアーは15:00ころからです。

「城下町萩のひみつ」展CMロングバージョン
  ↓ ↓

https://www.youtube.com/watch?v=16p7hlqCDVY&feature=player_detailpage

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-28 20:15 | くらしのやかたより
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