日本工業界黎明期の司令塔山尾庸三―「長州ファイブ展」より⑩―
b0076096_1936443.jpg英国密航後、ロンドンからグラスゴーに移り、日中ネピア造船所で働きながら技術を身に付け、夜間学校にも通ったという山尾庸三。転地にあたっては旅費に窮していることを薩摩藩英国密航留学生の町田久成(ひさなり)に相談し、資金援助を受けたというエピソードも伝わっています。この顔写真は珍しい部類に入ると思いますが、30代後半から40代前半、工部大輔(たいふ)在任中のものと推定される当館所蔵の名刺サイズのものです。

現代日本は「大学全入時代」といわれるように、「苦学生」という言葉はほとんど死語のようです。歴史学を専攻する者が特定人物に感情移入をすることは禁物ですが、やはり山尾のように苦労した人はひと味もふた味も違います!ハングリー精神はもはや、いまも読み継がれる『あしたのジョー』や『巨人の星』など、マンガの世界にしか生きていないのでしょうか?

ちょっと脱線しすぎましたが、ネピア造船所で聴覚障害をもつ職人が健常者以上に生き生きと働く姿に感銘を受けた山尾が、日本の聾唖(ろうあ)教育の草分け的役割を担ったという話などを知ると、ますます偉い人だなぁと感心しきっています。

さて前置きが長くなりましたが、今回、実はこの山尾が一番展示で悩んだ人物です。というのも、彼の仕事を端的に紹介できるモノがなかなか見つからないからです。別に映画は関係ないですが、反対にモノさえあったなら、この人を主役にしたかったぐらいです。

その背景には、5人のうち伊藤博文と井上馨は別として、彼はたしかに「生きたる器械」、すなわち技術者になって日本に帰ってきたのですが、井上勝や遠藤謹助のように、ある特定分野一筋に邁進したわけでないことが影響しているのだろうと思われます。逆にいえば山尾は、井上勝や、つぎに紹介する渡辺蒿蔵(こうぞう)などの技術者を、高所から自在に操る司令塔だったというほうがふさわしいのかもしれません。

b0076096_19391360.jpg写真は、渡辺蒿蔵のご子孫から近年当館に寄贈していただいた資料群に入っていた電報です。明治8年(1875)1月、工部大輔の山尾が山口から長崎製作所(のちの長崎造船局)の渡辺に送ったもので、「マンジュマル」(運送船満珠丸?)に関する「キド」(木戸孝允)宛の書状を、大阪府参事の「ウチノウミ」(内海忠勝)に送るようにと指示しています。長崎製作所は工部省に属していましたので、同じ長州出身の山尾が上司で、渡辺が部下だったというわけです。なお渡辺は当時、天野清三郎と称していました。

山尾は明治13年(1880)に工部卿(きょう)に昇進しましたが、政府は財政難のため、工部省と大蔵省の勧業機構を統合・縮小する必要に迫られていました。そこで政府は翌年、農商務省を開設し、官営工場の民間への払い下げを段階的に進めることに決して、これにともない山尾は太政官の参事院議官に転じて財務部長となりました。そして同18年、工部省は内閣制度の発足により廃止されています。

明治3年の設置以来、工部省はわずか15年間存在したにすぎませんが、工学寮(のちの工部大学校、東京大学工学部の前身)の創設を含め、わが国の工業界黎明(れいめい)期に最大の尽力を払ったのが山尾であることはいうまでもありません。近代国家に不可欠な鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信そのほか、基盤産業の整備・発展に対する彼の功績はきわめて偉大であり、「明治の工業立国の父」と呼ばれるゆえんは、まさにここにあるのだろうと私は考えています。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-16 19:52 | 企画展示室より
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