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「松下村塾の人びと」①―正木退蔵―
昨年の夏、ちょっとした話題になる企画展がありました。「『宝島』の作者スティーヴンスンがつづる吉田松陰伝」です。

これをご覧になった方ならすぐに内容をご想像いただけるかと思いますが、今回の「松下村塾の人びと」は、正木退蔵の関連資料を展示しています。

とくに企画展でも注目を集めた、英語で書かれた古い書物が目を引きます。

「松下村塾の人びと」①―正木退蔵―_b0076096_13205758.jpg“Familiar Studies of men and Books”(『人物と書物に親しむ』)というタイトルの短編集で、著者はあの『宝島』で有名な英国の大文豪R・L・スティーヴンスン

これにはなんと、世界最初とされる吉田松陰の伝記が収録されているのです。その名もずばり‘Yoshida-Torajiro’(「ヨシダ・トラジロウ」)
ではなぜ、スティーヴンスンが「トラジロウ」を書くことになったのでしょうか?

この裏話がものすごくドラマティックな展開なわけです。

正木退蔵は松下村塾で松陰に学んだ人物で、英国に留学生監督として派遣されていた1878年のある夏の日、エディンバラ大学のジェンキン教授宅で開かれた晩餐会に招かれ、偶然スティーヴンスンに会い、松陰について語ったそうなのです(よしだみどり『烈々たる日本人』)。

歴史に「もし~」というのは禁物ですが、そうはいっても、もし正木がイギリスに行かなかったら…、もしジェンキン教授宅に行っていなかったら…、などと考え出したらキリがありません。

こんな偶然の素敵な出会いからスティーヴンスンが書くことになった「トラジロウ」とは、いかなるものだったのでしょうか?

それは、スティーヴンスン自身がゴスという友人に送った手紙に顕著な形で言い表されています。

「‘Yoshida-Torajiro’, a paper on a Japanese hero who will warm your blood.」
これは、「『ヨシダ・トラジロウ』は生命を生き生きとさせてくれる日本の英雄の話である」という意味です(“The letters of Robert Louis Stevenson”vol.3, Yale University Press, 1994。なお引用文献、日本語訳はよしだみどり氏のご教示による)。

しかもこの時のスティーヴンスンは、理由は長くなるので書きませんが、とにかく命が危ぶまれるほどの瀕死の淵にさまよいながら、この手紙をつづったというのです。

吉田松陰にまつわるエピソードを思い起こせば、生きる勇気と力がみなぎってきた、というスティーヴンスンの熱い思いが伝わってきませんか?!

ちなみに、また宣伝になって申し訳ありませんが、昨年やった展覧会のパンフレットをミュージアムショップで販売中です。詳しい内容をお知りになりたい方は、こちらも合わせてご覧ください。

「松下村塾の人びと」①―正木退蔵―_b0076096_13382665.jpg【正木退蔵略伝】
弘化3年~明治29年(1846~1896)
明治時代の教育者、外交官。安政5年(1858)、13歳の時に松下村塾に入門。その後、大村益次郎に蘭学を学び、三田尻海軍学校で英学を学んだ。明治維新後、英国に留学。のちに海外留学生の監督として再び渡英し、化学や物理学などの教師をお雇い外国人として日本へ斡旋した。帰国後は東京職工学校(東京工業大学)の初代校長となり、外務省に転じてハワイ総領事をつとめた。
(肖像画の写真は東京工業大学提供)
(道迫)
by hagihaku | 2006-11-17 13:22 | 常設展示室より
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