夏みかん物語の2
明治9年、1876年に経済栽培が始まった夏みかんです。
しかしそれ以前に、萩城下には、自家消費用に植えられた夏みかんがあったようです。
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原樹とされる夏みかんは、長門市青海島の大日比地区にあります。
天然記念物に指定されています。
1700年代に、海岸に流れ寄った果実の種を育てたものとされます。
どこから流れ出たものかは不明です。

この原樹の種、または実生の苗が、1800年代の初めに萩にもたらされました。
誰がもたらしたかは、諸説あり良くわかっていません。
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前の物語のおさらいです。
明治時代以降、武家屋敷地が夏みかん畑として利用されました。
萩博物館の所在する堀内(旧萩城三の丸、堀の内側の城内)には、江戸時代に重臣たちが住まいしていましたが、地区内には、現在も所々に夏みかんの古木があります。
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明治22年、1889年の調査では、堀内地区に、樹齢15年を超える(つまり1876年の経済栽培開始以前の植樹)夏みかんが、201本(!)数えられています。

写真は、樹齢200年に及ぶと考えられる堀内地区内の夏みかんの古木です。
1800年代の初めに植えられた夏みかんです!

夏みかんは、初夏に花が咲き、冬には黄金色に色づきます。
しかし、この段階では酸が強くて果物として食することはできません。
かつては、この時季の果実を絞って、酢として利用していました。
ある時、誰かが(これも諸説あり)、開花翌年の夏場まで木に残った実を食べ、食べられることが分かり、果物として注目されるようになります。
記録によれば、江戸時代の終わり頃には、果物として食べられていたようです。
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ここで新出資料です。
写真は、江戸時代の堀内地区内の、ある重臣の屋敷図の一部です。
(実は、重臣の屋敷図はほとんど伝わっていないため、当時の武家屋敷を知る上で大変に重要な資料といえます。)
さらにこの屋敷図には、屋敷地内の植栽についての記述もあります。
そこに、注目すべき記述があることを発見!しました。
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右下に書かれた「タイ々(タイタイ)」の文字を確認することができますでしょうか。
これは「橙(ダイダイ)」を意味するものと考えられます。
酢を絞ることを目的とした「酢ダイダイ」か、場合によっては、後に「夏みかん」と呼ばれるようになった「夏ダイダイ」であった可能性があります。

夏みかん(夏ダイダイ)の経済栽培は、良く知られているように、明治9年、1876年以降に小幡高政によって推し進められます。

なぜ、小幡は夏みかん(夏ダイダイ)に注目したのか?
夏みかんは、ある程度、武士達の間でなじみのある果樹ではなかったのか?
素朴な疑問の答えがこの辺りにあるように思えますが、今後の調査を要します。

夏みかん物語はつづく・・・・      (清水)
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by hagihaku | 2008-05-15 12:08 | くらしのやかたより
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