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夏みかん物語の3
小幡高政と吉田松陰には接点がある!の巻

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夏みかんの経済栽培を推進した小幡高政は、文化14年、1817年の生まれです。
したがって、明治9年、1876年の栽培開始の時には、数えの60歳ということになります。
大変有能な藩吏で、萩町奉行役や江戸留守居役を務め、朝廷や幕府との関係調整などにもあたった人物です。
そして、江戸留守居役を務めている時に、吉田松陰の死罪申し渡しに、藩を代表して立ち会った人物でもあります。

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明治維新の後、小幡高政は政府に出仕します。
小倉県の権令(現在の副知事)を辞職して帰郷、間もなく、士族救済のための「耐久社」という団体を、実兄の祖式氏などと設立します。
そこで、夏みかんの果樹としての経済的な価値に着目し、苗の育成や配布を行い、夏みかん栽培の定着と産業化に取り組みます。

小幡は大変経済に明るかった人のようで、後に、第百十国立銀行の創立にかかわり、69歳で2代目の頭取に就任します。
明治の初年、萩では、士族救済のために、まず養蚕に取り組みます。
そのような中で、また経済的にも逼迫している中で、果実出荷までに10年程度を要する夏みかんの有効性に、小幡は注目し栽培に取り組みます。

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当初は、その試みをあざける人が多かったようです。

小幡は、今で言うところのリサーチをしていたのでしょうか。
出荷が可能になるまでの間、どのように食いつなぎ耐えようと考えたのでしょうか。
他に、即効性の方策を考えていなかったのでしょうか。
何万本という苗木を接木で育てて配るわけですが、そのような技術を、だれが持っていたのでしょうか。
素朴な疑問をおぼえます。

写真の手前は、吉田松陰全集の中の、安政元年、1854年12月3日、妹の千代あての手紙を掲載している頁です。
「11月27日の日付のある手紙と、九ねぶ(クネブ、九年母=ミカンに似た柑橘)、三かん(ミカン)、かつをぶしが昨晩届いた」と書き送っています。

吉田松陰は夏みかんを知っていた!かもしれない・・・という物語を、次回いたしませうか。
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小幡高政旧宅地(後に田中義一別邸)は、平安古鍵曲の近くにあります。
現在、柑橘公園になっています。

明日より夏みかん祭りです。

18日(日)は、浜崎地区(重要伝統的建造物群保存地区)のまちと家々が開放される「浜崎お宝博物館」が予定されています。

天気予報は晴れ!!
お運びお待ちしております。

夏みかん物語はつづく・・・    (清水)
by hagihaku | 2008-05-16 21:03 | くらしのやかたより
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