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夏みかん物語の4
吉田松陰は夏みかんを知っていた!! ・・・かもしれない・・・ の巻

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松陰全集、安政4年、1857年1月13日の松陰の日記を載録した頁です。

赤い矢印の部分には、
「橙(ダイダイ)2株を移す(移植する?)。栄太(吉田稔麿)来る。終日自業する。」 と記されています。

松陰が杉家の幽囚室で講義を始めて9ヶ月余、吉田稔麿が入門して1ヶ月余の頃の記述です。
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松陰全集の背面に展示している「明治初年松下村塾付近平面図」です。
明治20年、1887年頃に描かれたと考えられる絵図です。
松下村塾、及び杉家周辺の様子の覚書です。

この中に、大変興味深い書付があることを発見しました。

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この絵図によると、松下村塾や杉家の周辺は畑となっており、多くの樹木が描きこまれています。
これには、絵図の上から、畑に植えられた樹種や、周辺に建てられた家屋について、鉛筆で覚書が書き込まれています。
江戸時代から松本村では柿が特産となっていたようですが、この絵図にも「柿」の記述が多くあります。
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今回、その中の杉家屋敷地内、杉家のすぐ北側に、「夏ミカン」の記述があることを発見したのです!

「夏ミカン」という呼称は明治20年ころからのものです。
ということで、この絵図にある夏みかん樹は、明治9年、1876年以降に経済栽培が始まって以降に植えられたものかもしれません。

しかし注目されるのは、柿樹などの中に、1本だけ夏みかん樹が存在することです。
経済栽培目的とは考えづらい夏みかん樹です。

堀内地区の武家屋敷地には、経済栽培が始まる前に、既に自家消費用の「夏橙」が植えられていたことは、夏みかん物語の2で触れました。

先に記したように、安政4年、1857年に、松陰は「橙」2株を移植したことを日記に記しています。
この「橙」が、「酢橙」であったのか?
それとも後に夏みかんと呼ばれるようになった「夏橙」であったのか?
これ については、今後、さらに資料を掘り起こし検討を進める必要があります。

もしも、移植したとされる「橙」が、この絵図に記されている「夏ミカン」だったとすれば・・・
「吉田松陰は夏みかんを知っていた!」ということになり、
また、その面でも、小幡高政との接点があったということになります。

夏みかん物語はつづく・・・・      (清水)
by hagihaku | 2008-05-20 11:38 | くらしのやかたより
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