夏みかん物語の6
何卒々々々々々々々々々々々々 ・・・・ の巻

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1950年代の夏みかん栽培の様子です。
この当時、夏みかんは竹の橙籠で出荷していました。
ダンボールが導入されるのは1960年代に入ってからです。
橙籠一籠に、夏みかん10貫目(約40㎏)が入ります。
橙籠は、リヤカーやシャリキ(大八車)に積んで、選果・集荷場所まで運んでいました。
夏みかんの摘果が始まる前ころから、市内の籠屋さんで大量に作られていました。

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夏みかん物語の1でご紹介したように、1950年代には、まちじゅうのいたる所が夏みかん畑でした。
かつての武家屋敷地は、ほとんどが夏みかん畑でした。
畑の周囲、つまり敷地の周囲は、夏みかんを風から守る土塀や長屋・長屋門、新しく(といっても明治期ですが)築いた石積み塀、生け垣がめぐらされ、昼でもひっそりとしていたそうです。
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明治30年代、1900年頃の、夏みかん取引を示す資料です。
この頃には、広島や大阪の市場で盛んに取引がなされていました。

「何卒々々々々々々々々々々々々」 早く送って下さいという、市場関係者からの手紙を展示しています。
「岡山や朝鮮からの注文に応えなければならないので」早急に送って下さいというハガキもあります。

昭和初年の新聞に、「大阪市民は3日に1個あて夏みかんを食べている」という記事がありました。
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明治年間の出荷ラベルです。
「長州本場 萩夏蜜柑」の文字が印刷されています。

明治20年代、出荷が始まってすぐに出荷組合が設立されます。
そこで、夏蜜柑の本場は萩であることをアピールすることが協議され、「長州本場 萩夏蜜柑」の文言を、必ずラベルに印刷することが決まります。
ブランド商品のハシリです。
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北海道・東北地方との盛んな取引を示す1950~60年代の資料も展示しています。
出荷台帳には、青森、新潟、鶴岡、稚内、旭川、釧路、などなどの出荷先名、出荷量、積み込んだ鉄道貨車の番号などが記されています。
「6月23日萩駅積み込み、浜釧路6月30日午前7時到着予定、本年の出荷はこれが最終」の文字も見えます。

ある問屋さんの資料では、北海道で強い地震があったという報道を受け、1日に10数通の見舞い状が書かれています。
10数軒の取引先があったということです。
萩全体では、相当数の取引だあったと想像されます。
この問屋さんからは、北海道・東北・関東への出荷が5割以上を占めていたと聞きました。

ということで、夏みかん物語は続く ・・・・・    (清水)
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by hagihaku | 2008-06-03 08:44 | くらしのやかたより
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