カテゴリ:常設展示室より( 29 )
~萩博物館で大河ドラマ「花燃ゆ」の時代にタイムスリップを!!④~
第3段に引き続き、ブログをご覧くださりありがとうございます。

さっそくですが!!

町並み模型」の中にいる3人の有名人とはだれでしょう??


皆さんも、よ~くご存知のあの人物!!!!!!!!!!



至誠を貫き松下村塾で多くの偉人を育てた吉田松陰(私たち萩出身者は「松陰先生」と呼んでいます)

奇兵隊を創設した村塾の双璧高杉晋作

西郷・大久保と並ぶ「維新の三傑」の木戸孝允(桂 小五郎)

3人なのです!!!!!

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見えてくるでしょうか…?
真ん中に、こちらの方へ向かって歩いてくる人物が。

お城から松下村塾一体のある松本村に帰り、そして江戸へ旅立とうとしている旅姿・・・という設定でつくられた吉田松陰!!

20歳代で“はつらつ”としています!!


続いて、高杉晋作は右側の人物!!

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10代の晋作は、明倫館に稽古に行く所・・・という設定だそうです。

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(高杉晋作旧宅)


最後の桂 小五郎です。

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実は、この道は、桂 小五郎の家の旧宅の近くで、江戸屋横丁が再現されています。

ぜひ、この展示を見た後に、萩博物館近くのホンモノの江戸屋横丁を歩いて見てください!!

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ちなみに!!

桂 小五郎は手前の人物ではなく、
手前から3番目の人物です。



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今回、記事で話したことは、ほんの一部で、模型の中には、まだまだたくさんのおもしろい物語があるのです。

展示室には、NPOガイド班のみなさまがおられますので、この町並み模型を囲んで、いろいろたずねてみると、さらにさらに江戸時代にタイムスリップできるかも!

残り少ない夏、そしてやってくる秋にかけ、萩博物館の模型で大河ドラマ「花燃ゆ」の時代に飛び込み、実際に着物を着て風情あふれる萩のまちを歩けば最高の「」を楽しめるのではないでしょうか??

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by hagihaku | 2015-08-24 08:00 | 常設展示室より
~萩博物館で大河ドラマ「花燃ゆ」の時代にタイムスリップを!!③~
皆さん、こんにちは!!
第2段に引き続き、ご覧くださってありがとうございます。

まずは、第2段でお出しした何体の人間がいて、何軒の建物があるかというクイズの答えの発表です!!
模型の中には、

なんと・・・・・・・・・・

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160体の人物がいるのです。

しかも、よく見ると1人1人いろんな動きをしており、細かく造られています。そして、建物の数は、
なんと・・・・・・・・・・

50軒

しかも、本物の家と同様につくりがすべて異なり、萩博物館が開館する前の町並みとなっているのです。

この様に「町並み模型」は、完成するまで2~3年かかったほど、細かい部分まで手の込んだ展示物となっているんですよ。

では、第2段の話の続きはここまでとして・・・

第3段で予定していた、「町並み模型」の隠された秘密について話を進めていこうと思います。


繰り返すようになりますが、「町並み模型」には、160体もの人間がいます。

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このような事実を聞き、
「江戸時代の暮らしを当時のまま再現しているのだから、160体の人間の中に大河ドラマで登場する人物が歩いていたっておかしくはないのでは?」
と思われる方もいると思います。

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・・・そうなのです!!

この模型の中には、大河ドラマの中で皆さんが大注目してきた3人の人物が、いるのです!!

皆さんは、誰だか分かりますか??

ヒントは、皆さんもよ~くご存知のあの3人です!!!!

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誰なのか気になるとは思いますが、いろんな人を想像してほしいので、今回はこのへんで終わりにします。

次回、皆さんが驚き、思わず実物を見たくなるような、面白い情報をたくさんお伝えしようと思います。
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by hagihaku | 2015-08-23 08:00 | 常設展示室より
~萩博物館で大河ドラマ「花燃ゆ」の時代にタイムスリップを!!②~
皆さん、こんにちは!
第2段では、「」の目線で見ていきましょうか??

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今回は、犬や猫の目線になって見てみましょう。

鳥の目線とは全く違い、地上から見ると町の様子や人々の暮らしが親密に感じ取れる眺めですね。

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萩博物館の東数百mには、模型の元となったホンモノの城下町があります。

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外に出て実際の城下町と比較してみると、おもしろさも倍増しますね!

実は、この「町並み模型」には人間のミニチュアも配置されています。
その1人1人がと~っても細かく造られているんです。

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そこで皆さんに問題です!!
この模型の中には、何体の人間がいるでしょうか?

そして、縮尺70分の1のこの模型に、何軒くらいの建物が建っているでしょうか??

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写真でお分かりのように、この模型は多くの人で賑わっている通称“メインストリート”(殿様が通った「お成り道」)を中心に、風情あふれる静かなわき道など、江戸時代の町の造りを細かく再現しているのです。


また、萩城下町は古地図を片手に今でもめぐることができるほど、江戸時代から現在まで変わらない建物や風景が多く、とても貴重な町並みが維持されています
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まち歩きをはじめる前の予習として、ぜひ、この模型を、中腰になって、犬や猫の目線で眺めてみてください。

すると・・・

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・・・子どもたちが、竹馬にまたがって遊ぶ笑い声や・・

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・・・頭の上に桶を乗せて、魚介類を売る行商人たち(カネリ)の声・・・

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人々の声や、犬の鳴き声や、初夏を感じさせる虫の声などが心の中に心に響きわたってくるはず!!

そして、この模型を見終わったころには、「花燃ゆ」の時代にタイムスリップしたような気分を味わうことができるのです。

第2段は、この辺で終わりにしたいと思います。今日出したクイズの答えは、第3段でお伝えするので、ぜひ確認してみてくださいね。
第3段は、この模型の中に隠された驚くべき秘密についてご紹介します。
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by hagihaku | 2015-08-22 08:00 | 常設展示室より
~萩博物館で大河ドラマ「花燃ゆ」の時代にタイムスリップを!!①~
皆さん、こんにちは!
私は、山口県萩市の萩博物館で平成27年度学芸員実習を受講中のK・Kです。
今回は私が、この萩博ブログを借りて、萩博物館の展示をご紹介します。
さっそくですが、皆さんは、現在放送されている大河ドラマ「花燃ゆ」で映し出された、萩の風情ある街並みに注目したことはありませんか??
そして、「あの時代に行ってみたいな~」とか「タイムスリップができたらいいのにな~」
と思ったことはありませんか?

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今回、私が紹介するのはそんなあなたにぴったりの展示物、萩城下町の「町並み模型」です。
このブログで「町並み模型」の知られざる魅力と秘密をめいっぱいお伝えしていきます。
最後まで読めば、あなたもきっと今すぐに萩博物館に来て、本物を見たくなるはずです!!

まずは皆さんに萩城下町「町並み模型」の概要を知ってもらおうと思います!

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町並み模型」は、1850~60年ごろの城下の画を再現した模型です。
萩博物館の歴史展示室(常設展示)の中の“今に息づく萩のまち”というテーマのもとで展示されています。
萩城下町には多くの建物が江戸時代から建っており、その多くが大切に保存されてきました。
その城下町を70倍にした9800㎜×14000㎜の模型です。

しかし、何年も前の建物をすべて保存することはやはり難しく、明治や昭和に建て直された場所もあります。
この「町並み模型」は、萩博物館でしか見ることができない、江戸時代当時の完璧な状態を映し出した貴重な展示物なのです!

見る角度や視線を変えるだけで、1850~1860年代の幕末期の萩の町並みや人々の暮らしをあらゆる面から再発見することができるんです!!

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例えば、上の写真は、空を飛ぶ鳥になったつもりで模型を見たときの写真です。
鳥になれば土地の使い方や、大規模な商人地の特徴を捉えながら町の様子を眺めることができますね。

今回は、上から見る「町並み模型」の魅力をご紹介しました。
江戸時代の町並みや風景を、鳥の目線で見ることは、なかなかできませんよね?


この「町並み模型」をぜひ上から覗いて見てください!!
今や世界遺産に登録された萩城下町の当時の町並みが今も変わることなく、よく残っていることが分かってもらえるのではないでしょうか?

最後に・・・
町並み模型」は、鸞輿巡幸図という江戸時代終わりごろの安政5年(1858)頃に、萩藩の絵師、大庭学僊(がくせん)によって、祭礼御神幸行列が御輿などを奉じて集まってくるという想定で描かれた絵図を参考にしています。そして、現存する多くの江戸時代の建物の調査成果をもとに、当時の城下町を再現されました。
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萩博物館に「町並み模型」を見に訪れた際は、ぜひ鸞輿巡幸図の絵図や絵図に関するクイズも常設されているので注目してみてくださいね。

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クイズをすると、楽しみながら当時の城下町について詳しくなれますよ!!

では、第1段はここまでにしようと思います。

次回第2段では、「」の目線になってこの「町並み模型」を見ることができるのかを楽しみにしていてくださいね!!
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by hagihaku | 2015-08-21 08:00 | 常設展示室より
特別公開「吉田松陰と兵学門人妻木弥次郎・寿之進父子」
当館では明日より、表記のとおり特別公開展示を行います。

「吉田松陰と兵学門人妻木弥次郎・寿之進父子」
詳細については上記をクリックして当館の公式ホームページへ。

この特別公開では、当館が今年度新しく収集した歴史資料のなかでもとりわけ注目すべき資料を展示いたします。

展示資料は、今年2月、東京都在住の妻木達一様より寄贈された計50件の資料の一部です(ほかに1件寄託資料もあります)。

展示では、山鹿流兵学を媒介に吉田松陰と固い師弟関係を結んだ妻木弥次郎・寿之進父子を紹介します。

妻木家は江戸時代中期に吉田家と縁戚関係を結び、幕末には弥次郎・寿之進父子が松陰より山鹿流兵学を学びました。

妻木家の家宝とされた松陰自筆の教訓書(※)は必見の資料です。
※展示資料番号8:松陰が妻木寿之進に与えた教訓書(吉田松陰筆「妻木寿之進に与ふる書」)

そのほか貴重な資料を通じ、松陰の指導方針の一端をぜひご覧いただきたいと存じます。

会期は5月29日までとなっております。

ご高覧をよろしくお願い申し上げます。

○妻木弥次郎【つまき やじろう】(1825~1863)
名は忠順、字は士保。明倫館における松陰の山鹿流兵学高弟で、松陰の諸国遊歴中および脱藩後にいたるまで、藩校明倫館の兵学教場の維持に努めました。

○妻木寿之進【つまき ひさのしん】(1846~1890)
名は忠篤、字は君甫、のちに狷介(けんすけ)と改称。松陰の山鹿流兵学門人で、12歳の安政4年(1857)8月、松下村塾に入門。維新後は地方官を歴任、明治19年(1886)岡山県書記官となり、第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)の設置に尽力しました。


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by hagihaku | 2011-03-25 16:54 | 常設展示室より
「長州砲」がイギリスから里帰り!
わたしは昨日から今日にかけて、マスコミ各社から問い合わせの集中砲火を浴びています。

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(英国王立大砲博物館蔵)

なんと、「長州砲」がイギリスから「里帰り」することになってしまったんです。

今朝の新聞には、6月から萩博物館で展示されます、というような記事が載っていました。ですが、まだ具体的には展示プランが固まっているわけでもなく、これから大騒動になりそうです。

よって、詳しい内容については、もろもろの事項が決定しだい、また改めてお知らせをさせていただきます。

ちなみにわたしは、今日の午前中、いきなりNHKさんからインタビューをと求められ、展示替えの恥ずかしい作業着姿で皆さんのご面前に出てしまう羽目になってしまいました。油断してました。

ともあれ、今日の夕方6時からのニュースで、このたび「長州砲」が「里帰り」する意義や「長州砲」の特徴などについてご説明いたしますので、お時間がある方はご覧ください。

とにかく、幕末の萩でこんなのをつくっていたんだ、ということで、萩市民の皆さんにぜひ、実物を確かめていただきたいと思います。


(道迫)
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by hagihaku | 2008-04-10 13:06 | 常設展示室より
博物館の中にもサクラが!
わたしは昨日、市内有数のサクラの名所、指月公園に行ってきました。

大勢の花見客で、こんなに萩に人がいたのかと正直驚きました。

さて、わが萩博の館内でもささやかながら、現在は展示で、サクラの雰囲気をお楽しみいただけるようになっています。


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常設展示室のこのケースには、殿様の立派な甲冑が展示してありますが、その右となりをご覧ください。


b0076096_9302971.jpgこのような掛け軸が展示してあります。

b0076096_9305465.jpg下側の絵のほうをご注目ください。

みごとなサクラが咲いています。なかなかの技量ですが、いったい誰が描いたのでしょう?

じつは、絵の作者は8代藩主毛利治親〈はるちか〉の6男で、のちに上総国鶴牧〈つるまき〉藩水野家の養子となり、水野忠篤〈ただたか〉と称した殿様です。

この殿様には、こんな絵心もあったんですね。



b0076096_931771.jpgそして絵の上に、賛〈さん〉と呼ばれる和歌を書いたのは、9代藩主斉房〈なりふさ〉の正室、貞操院〈ていそういん〉です。

「咲わたる はなの盛りは 雲もなく さくらひとつに 三芳野の山」

この方は、有栖川宮〈ありすがわのみや〉家に生まれたお姫様で、もとは〈ゆき〉と称したそうです。



この前、季節の香りをと思い、チョウチョにまつわる展示品をご紹介しました。

指月公園で本物の花見を楽しむのも格別ですが、萩博で優雅なサクラの絵を鑑賞するのも、また一興かと思います。

これらは今後しばらく展示いたしますが、残念ながら作品保護のため、また違う展示品に取り替えざるをえません。

展示担当の樋口副館長に代わり、紹介させていただきました。


(道迫)
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by hagihaku | 2008-04-06 10:08 | 常設展示室より
祝!郡司鋳造所跡の出土品が県文化財に指定
b0076096_19145283.jpg萩博物館の常設展示室に、土でできた巨大なドーナツのような物体が展示されています。空洞になった部分の直径は、なんと60センチもあります。いったいこれは、なんなのでしょう?

じつはこの物体、このほど、山口県の有形文化財に指定されることになった、たいへん由緒ある資料なのです。

去る3月17日、山口県文化財保護審議会は、萩市椿東に所在する郡司鋳造所跡の鋳造関連出土品を、山口県有形文化財(考古資料)に指定するよう、県教育委員会に答申しました。今年度中にも正式に指定される見通しで、これにより県指定の有形文化財の総数は、347件となります。

郡司鋳造所跡は、江戸時代の鋳物工房の跡地です。ここでは、萩藩(長州藩)の代表的な鋳物師であった郡司家が、生活や農耕にかかわる用具から梵鐘、大砲にいたるまで、様々な金属製品を鋳造していました。

出土品は、平成12年(2000)から翌年にかけて、山口県埋蔵文化財センターが発掘調査を行ったさいに見つかったものです。内訳は、鍋・犂先〈すきさき〉・大砲などの鋳型及び関連品類359点、溶解炉及び関連品類43点、鋳造製品の鉄製犂先3点、合計405点です。これらは、すべて山口県埋蔵文化財センターに所蔵されるものです。

なかでも注目を集めている出土品が、幕末、長州藩が実戦に使用したと考えられる洋式大砲の鋳型です。長州藩は、圧倒的な軍事力を有する欧米列強に対抗することを目的に、郡司家に対し、3メートルをゆうに超す長大なカノン砲の鋳造を命じました。

つまり、土でできたドーナツのような物体は、カノン砲の鋳型だったというわけです。

郡司家がつくったカノン砲は、下関の砲台に据え付けられたあと、元治元年(1864)の下関戦争で、長州藩が英・仏・蘭・米の四国連合艦隊に敗れたため、各国に持ち帰られたと考えられています。残念ながら、これらのカノン砲は現存していませんが、出土した鋳型は、当時の伝統的な鋳造技術を今日に伝える貴重な資料となっています。

また全国的に見ても、江戸時代の大砲鋳型の出土例は、佐賀藩の反射炉跡から出土した鋳型が知られる程度で、きわめて希少とされています。

b0076096_1915223.jpgなお現在は、山口県埋蔵文化財センターのご協力により、萩博物館の常設展示室に、洋式大砲(カノン砲)及び砲弾の鋳型4点が展示されています。常時見学が可能ですので、江戸時代の萩の鋳物職人が、大砲を和式から洋式へ改めるために懸命に努力奮闘した軌跡を、ぜひご覧ください。


幕末長州藩の大砲鋳造技術に関する論文を発表しました!

(道迫)
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by hagihaku | 2008-03-26 19:04 | 常設展示室より
常設展示室も春らしくなりました!
萩は今日、暴風雨のため、屋外に出るのがこわいぐらいたいへんな状況です。
この雨も、きっと春の訪れを告げてくれているのでしょうけれど…。

さて、ここ数日のあいだに、常設展示室の展示品をいくつか入れ替えましたので、さっそくお知らせいたします。とくに今回は、そのなかから春らしいものを、わたしの担当部分から一つ選んでみました。

b0076096_1835858.jpgこれは硯箱ですが、ただのスズリバコではありませんっ!

これを収納してある木箱のフタには、「忠正公御物 御硯箱」と書いてあります。

ということは、「忠正公」こと毛利敬親の所用品であったわけです。ご承知のとおり、敬親は13代目の萩藩(長州藩)の藩主です。

b0076096_18352411.jpgさらによくこの硯箱をみると、蒔絵〈まきえ〉があしらってあるのですが、フタのちょうど真ん中あたりにチョウチョが描かれています。

「蝶」といえば春の季語、というわけで、これが今回展示替えしたなかで、わたしのおすすめの一品だというわけです。

ちなみにムクノキさーん、このチョウチョ、なんていう名前かわかります~?


b0076096_1843092.jpgあと、毛利敬親の肖像画もこちらに入れ替わりました。

けっこうすごい形相で、こちらをにらみつけるような感じですが、このお方、「そうせい公」のあだ名でよく呼ばれますよね。でも、わたしが思うに、おそらくこの殿様はそうとう心の広い人だったのに違いありません。松陰先生もこの人のおかげで勉強が続けられたのだし…。

と、書けば話題は尽きませんが、今日はこのぐらいでおしまいにさせていただきます。

なお樋口副館長も、もっと春を感じさせる展示品をチョイスしてくださっています。こちらもお楽しみに。

明日から飛び石連休になりますが、ぜひ一足先に、春の気分を味わいに、萩博へどうぞおいでませ~!

(道迫)
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by hagihaku | 2008-03-19 18:24 | 常設展示室より
「松陰先生」のお手紙(其の壱)
「親(した)しく大兄(たいけい)の面諭(めんゆ)を受くるが如(ごと)し」
(松陰の手紙より)

ひさびさの松陰書簡モノとなりますが、常設展示の改修(リニューアル)後、吉田松陰の手紙については情報がまったく出せていませんでした。スミマセンでした。

先日、手紙を取り替えましたので、以下にみどころをご紹介いたします。

ちなみに今回より、新たに「『松陰先生』のお手紙」と銘打つことにいたします。

まず、展示の趣旨は以下のようなものです。

間近でのぞいてみよう!「松陰先生」のお手紙(展示パネルより)
江戸時代の終わりころに生きた松陰は、生涯にたくさんの手紙(書簡)を書きました。萩博物館では、その貴重な手紙を約60通も保管しています。ところで松陰は、なぜ手紙をたくさん書いたのでしょう。それは、離れた人と連絡を取り合うのに一番良い方法だったからではないかと考えられます。そして、これらの手紙が現在まで大切に保管されてきたおかげで、私たちは、松陰が当時どのように生きていたかを知ることができるのです。あなたも、「松陰先生」が家族に送った生の手紙を読んでみませんか?

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さて、今回ご紹介する手紙は、野山獄につながれている25歳の松陰が、二歳上の兄、杉梅太郎(のちの民治)と往復したものです。松陰は安政元年(1854)10月24日、萩の野山獄に投じられますが、10日ほどたった11月5日、兄から受け取った手紙の余白や行間、さらには裏側にまで、びっしりと返答を書き、その日のうちに実家の兄へ送り返しました。わざとそういうふうにしたのか、それとも獄中のため新しい紙が手に入らなかったのか、いまでは知るよしもありませんが、ともかくも松陰は細い字であれこれつづります。

とくに注目すべきは、書簡の冒頭部分です。

兄は冒頭で、松陰の「二十一回猛士の説」(内容はのちほど説明します)は素晴らしいが、家族が罰せられると困るので秘密にするようにと忠告します。松陰はこれに対し、兄にじかに会って注意されているようだと返事しました。松陰の茶目っ気あふれる、たいへんほほ笑ましいくだりですが、そのほかにも兄は、獄中で過ごす松陰の食べ物や身の回りを気遣うなど、兄弟の絆がうかがえる興味深い史料です。

b0076096_17411026.jpg右側の写真が書簡の冒頭になります。

少し大きい字で書かれた本文が兄梅太郎の往信、細字で行間に書かれたのが松陰の返信になります。

じっさい、兄と松陰とのあいだでどのようなやりとりがあったのか、すこし引用してみましょう。
兄:梅太郎
二十一回猛士の説、喜ぶべし、愛すべし。志を蓄へ気を并(あわ)する、尤(もっと)も妙。然れども今より十八回の猛あらばたまり申さず、多言するなかれ、多言するなかれ。汝の此の言、幕裁緩なりとも、藩議獄に下す所以なり。多言するなかれ、必ず族せられん。

弟:松陰
詢(まこと)に然り然り、潜みて伏すと雖(いえど)も亦孔(はなは)だ是れ昭(あきらか)なり。親しく大兄の面諭を受くるが如し。

このほか、小豆や肉を送るので食べなさいだとか、読書がはかどらないだろうから本を送るだとか、とにかく兄はこまめに弟の世話をやきます。松陰が歴史上に名を残せたのは、兄のおかげだといっても過言ではないでしょう。

説明しよう!「二十一回猛士の説」とは?
松陰は密航失敗後、野山獄中で「二十一回猛士」という号を用いるようになります。その理由を、自ら次のように説明しています。松陰は、ある夜見た夢の中で、神から「二十一回猛士」と書いた札を与えられました。そこで目を覚まし、「杉」の名字にも「吉田」の名字にも、「二十一」の象(かたち)があることに気づきます。さらに、自分の通称「寅次郎」が「虎」に通じ、虎の徳が「猛」であると悟ります。こうして松陰は、虎の勇猛を手本としなければ、どうして武士であることができようかと自分を奮い立たせました。そして松陰は、これまでに3回の「猛」を実行したので、21回の「猛」まで、あと18回実行すると決意したのです。

ちなみに3回の「猛」とは…
①嘉永4年12月、藩の過所(身分証明書)を持たずに東北遊歴に出たこと(脱藩亡命)
②嘉永6年、士籍を奪われた身ながら、藩主に「将及私言」という意見書を提出したこと
③安政元年3月、下田からアメリカへの渡航を図ろうとしたこと(海外密航未遂)

「『松陰先生』のお手紙」コーナーは、史料保存の面を考慮しつつ、皆さんに最適の条件でなまの本物をご覧いただけるよう、徐々に進化してゆきます。展示替えにあわせ、ブログも不定期に更新してゆきますので、いつになるかはっきりとは申し上げられませんが、次回もご期待ください。

(道迫)
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by hagihaku | 2008-01-31 17:58 | 常設展示室より