カテゴリ:企画展示室より( 112 )
「鬼の目にも涙とやら…」by井上勝―「長州ファイブ展」より⑧―
b0076096_17125392.jpgいまや「鉄道の父」というコピーがすっかり定着した感のある井上勝。文久3年(1863)の英国密航の時点では、養子に入っていたため野村弥吉と称していました。一説には、実父の井上与四郎(勝行)が、もし密航がばれたら養子先に累がおよんで申し訳が立たない、と野村家に相談して井上家に復籍させ、帰国後に井上勝と名乗ったとされています。

それと井上、いや野村弥吉が、相当のノンベエだったことも皆さんけっこうご存知ですよね。これもまた一説によれば、ロンドン滞在中も飲んではだれかれかまわず食ってかかったことで、付いたあだ名が「ノムラン(呑乱)」だったそうな(笑)。

ともかく、これらの説の出典は、上田廣著『鉄道事始め―井上勝伝―』(井上勝伝復刻委員会、1993年)なのですが、いかんせん原典があいまいですので、あくまでそうだったのかも…、というぐらいの気持ちで読んだほうがよさそうですよ(写真の出典は『子爵井上勝君小傳』井上子爵銅像建設同志會、1915年)。

b0076096_17201444.jpgさて前置きが長くなりましたが、井上が気性の激しい性格だったというのは本当のようで、実は現在「長州ファイブ展」で展示している彼の書簡からも、そのことがはっきりと読みとれます。

これは明治32年(1899)9月10日、井上が東京から萩の杉民治(もと梅太郎、吉田松陰の兄)に送ったものです。冒頭では、久しぶりに萩に帰省したにもかかわらず、杉らに面会することなく東京に帰ったためひどく怒られたようで、たいへんなご無礼をしたと詫びをつづっています。

そのあとを読むと、萩滞在中に東光寺にお参りして「承泣(しょうきゅう)暫時(ざんじ)なりしは自然の情なるか、鬼の目にも涙とやら」というくだりが出てきます。つまり、藩主毛利家の墓所等々を前に、感極まってしばらく号泣したというのです。自分を指して「鬼の目にも涙」というなど、喜怒哀楽の激しかった一面がよく伝わってきます。

明治と改元されてすでに32年の歳月が流れ、往事を振り返って感涙にむせぶ井上の姿をほうふつとさせる実に生々しいこの書簡。井上のこの時の心中を察するに、日本の鉄道界発展のために全身全霊を捧げてきたわが身の来し方にも、深い感慨を覚えていたのかもしれませんね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-05 17:17 | 企画展示室より
東洋美術の保存につとめた井上馨―「長州ファイブ展」より⑦―
萩は今日まで夏祭りですから、余勢を駆ってついでにもう一本!行っちゃいましょう。

b0076096_18472479.jpg円山応挙の「雪中鴨図」(個人蔵)を8月1日から展示公開していますが、皆さんもうご覧いただけましたか?

くどいようですが、これは井上馨がかつて所蔵していたもので、今日に至るまでほとんど世に出ることのなかった作品です。残念ながら、いつ、どうやって彼が手に入れたかについてはわかっておりません。

写真が小さくてわかりにくいですが、目のパチクリした鴨の後ろ側に、実はもう一羽、首を背のほうにすぼめたのも描かれています。とにかく絵画的には実物を鑑賞していただくのが一番ですが、なぜあの井上馨が…と担当者の私自身、当初は不思議に感じていました。

というのも、井上といえばすぐに有名な「鹿鳴館」(ろくめいかん)が思い浮かぶからです。具体的には、「鹿鳴館外交」と世に喧伝されたように、明治12年(1879)に外務卿(がいむきょう)となって以来、同18年の初代外務大臣就任を経て同20年に辞職するまで、一貫して急進的な欧化主義政策を進めた人物、という先入観が影響しているのかもしれません。

ところが、そのように見なされがちな井上が日本や中国の美術作品を積極的に収集した背景には、明治初頭の古物破壊の風潮や、美術品の海外流出に対する強い危機感があったというのです。しかも井上は鑑賞眼に優れていたといわれ、長崎県知事在任中から書画・彫刻・陶磁器・漆器・銅器などを幅広く収集したそうです。

たしかに『世外井上公伝』所載の収集品リストをみると、日本は周文、雪舟、狩野探幽(たんゆう)、土佐光起(みつおき)、中国は「馬夏」と並称される馬遠(ばえん)・夏珪(かけい)、戴文進(たいぶんしん)などなど、日中画壇を代表する画家たちの作品がゴロゴロあったようです。当時としては無類の古美術品収集家だったといえるでしょう。

これまで井上については、人間の営みの基本である衣食住を急激に和式から洋風に変えようとしたイメージから、頭のてっぺんから足のつま先まで、すべて西洋一色に染まった人物であるかのように思っていました。しかし、こうして東洋の伝統美術保存に対する強い思いがあったことを知ると、日本人としてちょっと嬉しくなってしまいました。要するに井上は、単なる西洋かぶれではなかったんですね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-03 18:53 | 企画展示室より
「皆さん御免!ダダを言うても」by井上馨―「長州ファイブ展」より⑥―
b0076096_17155184.jpg茶道の嗜みをお持ちの方ならすぐにおわかりいただけると思いますが、かつては袱紗(ふくさ)とよばれる儀礼用の四角い絹布がよく使われました。風呂敷(ふろしき)同様、現代生活ではあまり馴染みのないものですが、今回紹介する袱紗はただの袱紗ではありません。なんと井上馨が、自筆で歌を書き入れたものなのです。

これは、62歳の井上が還暦(かんれき)を記念して知人の中西寿平に贈った袱紗です。富士に松竹梅というめでたい図柄があしらわれた品のよい縮緬(ちりめん)地に、「今日よりは元の赤子に還(かえ)りけり皆さん御免だだを言うても」と墨書しています。中西の縁者から旧郷土博物館時代に寄贈していただいたもので、「井上馨還暦所懐歌染袱紗」という表題で保管しています。

ところで井上の還暦は、数え年で61歳になる明治28年(1895)のはずですが、忙しかったためかこの年は機会を逃したようで、翌29年4月に山口で、同30年5月に東京の本邸でそれぞれ祝宴を開いています。袱紗には「六十二歳 馨」と署名していますので、明治29年(1896)の作であることがわかります。b0076096_1716498.jpg

そこで、井上が書いた歌をよくよく読んでみると、これは洒落や風刺をきかせた滑稽な短歌、すなわち狂歌(きょうか)、または戯言歌(ざれごとうた)とよぶべきものです。生まれた年の干支(えと)と同じ干支の年がくることを還暦といいますが、井上は「今日からもとの赤子に戻るので、みなさん、わがままいうけど許してね」と伝えたかったのでしょう(笑)。

ちなみに明治新政府の発足まもないころ、大蔵省でともに困難に立ち向かった大隈重信は、後年、「井上氏は一たび起てば獅子の荒れた如く、前後左右を顧慮せずに進むから、能(よ)く人と衝突し、又人から誤解されて敵を作ることもあった」と回顧しています(『世外井上公伝』)。伊藤博文を含め、東京築地にあった大隈の私邸によく集ったことから「築地梁山泊」(つきじりょうざんぱく)と称された者同士ならではのコメントで、井上の押しの強い人柄がよく言い表されています。

この強引な性格が目立ちすぎるせいか、とかく財界での汚職事件ばかりが取り沙汰されることの多い井上馨。しかし、前回も触れた「長州三尊」中、書画骨董の鑑賞と狂歌においては伊藤・山県をはるかに凌いだといわれるように、今回紹介したような茶目っ気たっぷりの狂歌から想像すると、とてもユーモアに富んだ人だったんでしょうね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-03 17:23 | 企画展示室より
8/5「長州ファイブ展」ギャラリートーク時間帯変更について
現在開催中の「長州ファイブ展」については、毎週土曜日の13時30分からギャラリートーク(当館学芸員・研究員による展示解説)を行っております。

8月5日(土曜日)については、公式行事等の諸事情により、まことに勝手ながら時間帯を1時間繰り下げ、14時30分から開始させていただきます。

急な変更で、お客様にはご迷惑をおかけしてたいへん申し訳ございません。ご希望される方には心よりお詫び申し上げますとともに、よろしくご了承くださいますようお願い申し上げます。

当日担当の道迫(どうさこ)からお知らせさせていただきました。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-03 09:14 | 企画展示室より
こちらも達筆、井上馨―「長州ファイブ展」より⑤―
今回の展示を通じて担当者の私自身、「意外」と言っては本人に失礼ですが、「井上馨もなかなか立派な字を書く人だなぁ」と再認識している今日このごろです。

b0076096_19161943.jpg井上は、戦前に作られた『世外井上公伝』という大部の伝記では文学方面にあまり縁がなかったと評されています。「長州三尊」とよばれる3人のうち、伊藤博文が詩に、山県有朋が歌に長けていたなかで、井上は2人に一歩譲るというのです。たしかに、井上の創作は詩が約150篇、歌が約100首ということで、当時の代表的な教養人と比べると量的には少ないほうかもしれません。

ところが、井上の次の詩を読むと、とても感性豊かな詩人だったことがおわかりいただけるはずです。

山深涼氣洗心胸 山深くして涼気(りょうき)心胸(しんきょう)を洗ふ
行入函關秋色濃 行きて函関に入れば秋色濃(こま)やかなり
獨立湖邊試晩望 独り湖辺に立ちて晩望(ばんぼう)を試むれば
水心清處浮芙蓉 水心(すいしん)清き処(ところ)に芙蓉(ふよう)浮く

「山が深く涼やかな空気が私の胸の内を洗ってくれる。行って箱根の関へ入ってみると、秋の景色が洗練されて味わい深い。一人湖のほとりに立って夜の景色を眺めてみれば、水面中央の澄んだところに富士山が浮かんでいる」と解釈することができます。

加えて文字もかなりうまいです。井上は幕末の志士時代に、藩主毛利敬親や世子元徳に小姓役として仕えていたほどですから、これぐらいは書けて当たり前だったのかもしれませんね。


井上は明治14年(1881)前後、激務がたたって頭痛を覚えるようになり、しばしば静養のためといって東京近県に出かけたようです。この詩はそのころに行った箱根での作と思われますが、とても清々しい内容から「本当に頭痛だったの?」と疑わしく思うのは、きっと私だけではないでしょう(笑)。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-07-31 19:31 | 企画展示室より
井上馨旧蔵の円山応挙筆「雪中鴨図」を初公開!―「長州ファイブ展」より(番外編)―
b0076096_19244947.jpgシリーズ番外編でホットなニュースをお届けします。8月1日から「長州ファイブ展」の井上馨コーナーにて、なんとかの有名な円山応挙の作品「雪中鴨図」を初公開することが決まりました。ご覧ください、このなんとも愛くるしい目をした鴨の絵を。

「でもなんで応挙が?!」とお思いの方も多いでしょうが、この作品は現在、とある個人の方がご所蔵されるもので、もとの所蔵者が井上馨だったのです。しかもそのことは、この作品に添付されている贈呈状によって、きちんと裏付けがとれるのです。ご所蔵者いわく、本作品が一般に公開されるのは今回が初めてとのことです。

なお井上馨がどうして応挙の作品を持っていたのか等々については後日改めてご紹介いたします。

当館の副館長が送った熱いラブコールがご所蔵者に受け容れられ、急きょ決まったこの展示。応挙作品だけでなく、井上馨自筆の漢詩、長州出身の杉孫七郎自筆の漢詩(井上馨銅像除幕式の際の作)をあわせ、計3点の秘蔵品のお貸し出しを快くご許可くださいました。この場を借りて御礼申し上げます。

こうしてさらに彩りが加えられることになった「長州ファイブ展」。展覧会をやるといつものことですが、後期になればギャラリートークもヒートアップしてきます。暑い季節ですが、この機会にぜひ涼しい展示室で、心が豊かになる楽しいひと時をお過ごしください。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-07-26 19:34 | 企画展示室より
伊藤博文の英文筆記―「長州ファイブ展」より④―
このシリーズでは、なるべく珍しい展示品を選んでご紹介しているつもりですが、今日とり上げる伊藤博文の書簡は、また一味違った趣をかもし出してくれています。

b0076096_18463845.jpgいわゆる明治人の書簡としてはごく普通に、巻紙(まきがみ)に墨で書かれたものですが、巻物を開いて読み進んでいくと突然、鉛筆で書かれた部分が現れます。しかも墨で書いた部分は、当然タテ書きで右側から左側へと進みますが、鉛筆の部分はヨコ書きになっています。よく見ると、そこはなんと英文なのです。さすがに筆では、英語は書けなかったのでしょうね。

この書簡は、伊藤が明治22年(1889)7月17日に、娘婿の末松謙澄(すえまつ・けんちょう)に送ったものです(個人蔵、当館寄託)。調べてみると、当時ベルリンに留学していた養子の勇吉(ゆうきち)が肺病にかかったため、急きょ帰国させることになったという英文の電報を伊藤が受け取り、転記して末松に報せたものであることがわかりました。

b0076096_18482299.jpg手元に届いた英文の電報を、第三者へ伝えるためにただ書き写したものであるとはいえ、伊藤が書いた英文のつづり自体はそう数が残っていないのではないかと思います。現に伊藤は、英字新聞を普通に読んでいたぐらいですので、このぐらいのことは朝飯前だったのでしょうが、それにしてもスラスラっと、ああ羨ましい…。

長くなりますのでもう止めますが、「国際通」として知られた伊藤の面目躍如たる姿をあらわした書簡であることはいうまでもありません。そのほか実は井上馨も、号の「世外」でこの書簡に登場しており、興味は尽きません。おそらく学界でもほとんど知られていない書簡と思われますので、今年度末の博物館研究報告の材料にでもしようかと考えているところです。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-07-24 19:02 | 企画展示室より
「書の達人」でもあった伊藤博文―「長州ファイブ展」より③―
「長州ファイブ展」では、伊藤博文の各期における筆跡を、その当時の顔写真をかたわらで見ながらじっくり鑑賞できるように展示しています。

b0076096_1972087.jpgひときわ目を引くのが、明治18年(1885)7月、明治天皇の行幸に随行して山口を訪れた際に作った五言絶句の漢詩です(個人蔵、当館寄託)。天皇の行在所(仮宮)となった毛利家野田邸のたいへん美しい情景をほうふつとさせる内容となっています。

小園人不到 小園に人到(いた)らず
撫景感何深 景を撫(ぶ)して感何(いず)れか深き
鳥影花香處 鳥影花香の処(ところ)
悠然天地心 悠然(ゆうぜん)たり天地の心

「誰も来ることのない小さな庭園の景色をめでていると、感慨の何と深まってくることか。ここには鳥の姿と花の香りがあるだけだが、ゆったりと天地の心を感ずることができる」と解釈することができます。か細い字を書いているように見えますが、実物は天地240センチもある大幅(表具込み)で、一字ずつ筆の運びに勢いが感じられます。

伊藤は、少年時代に通った久保五郎左衛門の塾で「席書(せきがき)」(書道展)が開かれると、いつも一等賞をとっていたそうです。小さい時から「書の達人」でもあったんですね。


ちなみに伊藤はこの約5ヵ月後の12月、内閣制度が発足して初代総理大臣になっています。なんだかこの詩を読んでいると、飛ぶ鳥を落とす勢いで政界のトップに上り詰めた彼の心情が、たっぶりと込められているような気がしてきませんか?

(道迫)
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by hagihaku | 2006-07-21 19:17 | 企画展示室より
手紙にみる伊藤博文の名の変遷―「長州ファイブ展」より②―
b0076096_17421214.jpg
皆さんのなかで、幕末維新期に関する書物を読んでいるときに「なんでこの人はこんなにコロコロと名前を変えているのだろう?」とか、「もー、この人、いったいどれが正しい名前なの?」とかで、困った方はいらっしゃいませんか。

「維新の三傑」の木戸孝允が、幕末期に「桂小五郎」と称していたことぐらいは皆さんご存知かと思いますが、実は伊藤博文は、「幕末の改名王」と言っていいほどたくさん名前を持っている人物なのです。

幸い、当館が所蔵する伊藤博文の手紙(書簡)に、その一端をうかがい知ることのできるものがありますので、今回の展示でもご紹介しています。ちなみに写真は23歳の文久3年(1863)江戸で撮影されたものです(『伊藤博文伝』より)。

b0076096_1754993.jpgまず文久2年(1862)正月に書いた手紙には「俊輔生」と署名しています(寺島忠三郎宛か?)。このころから使い始めた通称で、「博文」という諱(いみな)、「春畝(しゅんぽ)」という雅号とともに、高杉晋作が考えたといわれるものです。→


b0076096_17553539.jpgつぎに慶応3年(1867)2月に書いた手紙には「宇一拝白」と署名しています(杉梅太郎宛)。このころの長州藩では、幕府からの目をそらすため、藩主から改名を命じられた藩士が多く、伊藤は慶応2年(1866)正月に「林宇一」と改名するよう命じられました。父の十蔵が伊藤家の養子になる前、「林」姓だったことが関係しているものと思われます。→

あと手紙ではないですが、高杉家に伝わった「第一游撃軍姓名簿」では「花山春太郎」と変名しています。ちなみに総督の高杉は、「谷梅之助」と変名しています。この史料は、高杉が下関で挙兵したあと、慶応元年(1865)正月に記されたものです。

長くなるので手紙の内容まではご紹介しきれませんが、上記のように生の史料を通じて伊藤博文の改名や変名を知ることができるのも、今回の展示ならではと思います。

なお、もっと伊藤のほかの名前をお知りになりたい方には、「伊藤公資料館電脳頁」というホームページをオススメいたします。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-07-12 17:56 | 企画展示室より
松陰と俊輔をつなぐ一本の脇差―「長州ファイブ展」より①―
7月1日からのオープンが目前に迫った「長州ファイブ展」。「何が展示されるの?」といったご質問にお答えすべく、ここで一つご紹介します。

b0076096_19192863.jpg当館に1本の脇差(わきざし)があります。実はこの脇差、あの吉田松陰が所持していたという伝承があるのです。つい半年ほど前までは松陰遺墨展示館で公開されていたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

しかもこの脇差、松陰が海外密航を試みた際に持っていたというのです。ただしあくまでも「言い伝え」ですので、本当かどうかはわかりませんし、また今後、その真偽がはっきりすることはないだろうと思います。

ところが、ここから先の話が面白いところで、伝承によれば「のちに伊藤俊輔(博文)が入手し、神戸の実業家を経てカナダ人に贈られた。昭和63年(1988)日加両国親善の証として松陰生誕地に戻したいというカナダ人の強い希望から、萩市に寄贈された」というのです。

たしかに脇差そのものについては、真偽のほどがわからないため「たいしたことないじゃないか」と言われても仕方がありません。また松陰の脇差が俊輔に渡ったというのも、エピソードとしてはできすぎのような気もします。

とはいえ、海外密航を果たせなかった師と、9年後にそれを実現した弟子とをつなぐアイテムという意味ではとても興味深いものがあります。「海外密航の遺伝子」とでもいうべきものが、二人の間で継承されていたのかもしれませんね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-06-29 19:21 | 企画展示室より