カテゴリ:高杉晋作資料室より( 33 )
結成150年記念テーマ展「奇兵隊の群像」奇兵隊2代総督・河上弥市(変名=南 八郎)の史料が萩初公開
奇兵隊2代総督・河上弥市(変名=南 八郎)の史料を明日4月25日(木)から6月30日(日)まで展示します。
文久3年(1863)10月、但馬生野で挙兵するも敗れ、21歳の短い生涯を閉じた河上弥市(萩城下金谷出身)の史料が初めて故郷萩で公開されます。
○挙兵した河上が歌を書きなぐり妙見社に奉じた高札(兵庫県山口護国神社蔵)
「議論より実を行へなまけ武士 国の大事を余所に見る馬鹿」
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○河上弥市肖像(同上)
○河上弥市歌書(佐藤恭氏蔵)
○沢宣嘉画「石清水八幡宮御真影」(春風文庫蔵)
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by hagihaku | 2013-04-24 14:42 | 高杉晋作資料室より
晋作、著袴の式
 先日、秋篠宮ご夫妻の長男悠仁(ひさひと)さま(5歳)の「着袴(ちゃっこ)の儀」と「深曽木(ふかそぎ)の儀」が、東京・元赤坂の赤坂東邸で行われたとの新聞報道を読んだ。着袴の儀は皇室の子供が5歳になったさい行う、初めて袴を着ける儀式で、一般の七五三にあたるとされる。
 実は高杉晋作も、萩城掘内にある春日神社で、「著袴の式」を行ったという。
 春日神社は大同2年(807)、大和春日社(現在の春日大社)より勧請されたと伝えられる。春日神は、藤原氏(中臣氏)の守護神である四神の総称だ。大和から勧請された春日神社は、全国に一千社を数えるとされる。萩の春日神社は慶長12年(1607)、毛利輝元により現在地に移された。
 幼少のころの晋作と、大変ゆかりの深い神社で、そのことにつき村田峰次郎『高杉晋作』(大正3年)には次のような記述がある。
「高杉の崇敬する所の産土神は、堀内の大馬場南詰にある春日神社なり。萩五社の第一宮にして、城下総鎮守と称せらる(中略)城下の士族にして子を生めば、皆必ず春日神社を守護神と祷る習制なれば、高杉も誕生の後百日目に百日参(ももかまいり)と唱へ、老婆の手に倚りて、その殿宇に参詣し、神前に拝したり。神職は祝詞を読み、神楽を奏し、終に麒麟児の頭上に神酒を灑ぎて、将来の安全幸福を祈れり。また高杉が七歳の誕生日には、士族男児の著袴式を挙ぐるため、幼稚なる高杉は始めて社●(ころもへんに下)を著し、大小刀を佩きて、春日神社の広前に参拝せり。神職は例に習ひて儀典を行ひ、只管高杉のために、立身成効の祈願を誓ひぬ」
 著者の村田は村田清風の孫で、長州藩士の子として生まれ、子供のころには父大津唯雪の同志だった高杉晋作にも会っている。晋作クラスの萩の武士の子が、どのような通過儀礼を経て成長するかは熟知していただろうから、この一文は信頼に値するだろう。
 『萩市史』3巻(昭和62年)によれば春日神社は「安永2年(1773)萩城内の火災により社殿炎上、翌三年重就公再建し今日に至る」とあるから、幼少期の晋作が参った当時の姿で残っていると考えていいだろう。いまも毛利の家紋が社殿に付けられ、格式の高さを感じさせる。
(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-11-08 18:45 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(20)
150年前の稔麿ファン
 吉田稔麿(栄太郎)はみずから志願して江戸に赴き、険悪になりつつあった幕府・長州藩間を周旋したが、大した成果はあげられなかった。元治元年(1864)3月、江戸から京都に入った稔麿は、それまでの顛末を「東風不競密話」と題し、まとめている。この「東風不競密話」は、昭和13年(1938)に出た来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』に全文が活字となって所収された。
 その中に、「駒込就光寺の和尚正義を好む。しばしば年丸(稔麿)が事抔(など)噂する由、いまだあわず」との記述がある。稔麿本人が言うには、江戸駒込の寺の住職が「稔麿ファン」だったというのだ。おそらく住職は、稔麿と信頼関係を結んでいた旗本妻木向休(田宮)あたりから、稔麿の噂を聞いていたのだろう。長州藩の攘夷活動に対する理解者だったのかも知れない。一体どんな人物だったのか。
 面白い話なので駒込に住む稔麿ファンの村上さんに尋ねてみたのだが、「就光寺」という寺は幕末当時も現在も、駒込には無いという。不思議に思っていたところ「龍光寺」ならあるという。そこで来栖の活字本ではなく、稔麿自筆の原本(毛利博物館蔵)に当たったところ、やはり「龍光寺」であった。来栖の誤読か誤植であろう。ただ、「就」か「龍」か、本当に紛らわしいくずし字なのは確かで、誤って読んだとしても仕方ないという気はした。
 村上さんはその後、文京区本駒込の天沢山龍光寺(臨済宗)を訪れ、ご住職からいろいろとお話を聞かせてもらったそうである。同寺は江戸前期、伊勢(鈴鹿)龍光寺の別院として創建され、丸亀藩主京極家・唐津藩主小笠原家の菩提寺になった。「稔麿ファン」と考えられるのは11代目の住職僊芳士周禅師なのだが、かれは文久2年(1862)7月6日、他界している。ここからがいささかミステリアスなのだが、二人いた若い弟子はなぜか寺を継がずに還俗。寺は明治元年(1868)まで閉じられることになる。稔麿は龍光寺の実状を知らぬまま、先のように記したのだろうが、その時「稔麿ファン」の住職はこの世にはいなかったのだ。
 同寺には稔麿にかんする話は、残念ながら伝わっていない。現在のご住職は「新史実」として、興味を示されていたとのことである。こうして150年振りに「就光寺」の部分は、稔麿が書いたとおり「龍光寺」に訂正された。そして、稔麿の思いは村上さんによって、150年ぶりに龍光寺に届けられた。このような、地味な、しかし大切な歴史の絆を感じると、ちょっと温かい気持ちになる。「それ、それ、龍光寺っちゃ。僕のファンに対して150年もの間、失礼しちょった」と、稔麿があの世で呟いているかは知らない。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-08-28 09:30 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(19)
 吉田稔麿は藩主の将軍あて嘆願書を持って、江戸に行くため藩から「用心金」として三十両を与えられた。ところが京都滞留になった。そこで元治元年(1864)5月17日、用心金を紙に包んで封をして、旧知の京都商人塩屋兵助に預けた。
 包み紙の表書きは「江戸行用心金三拾両」とし、自分で持っていたら使ってしまいそうなので、知己塩屋に預け、他日江戸行きのさいには出してもらうという意味のことを、あれこれと書きつけている。さらに次のような添え状も封入し、自分に対する戒めとした。
「此の金の儀は江戸行きの上、御内用払いの廉へ遣わすべき筋に付、滞京中は遣い申す事相成らず候。况んや江戸の御勘渡已に京師滞留、四、五日の内に遣い果し候を耳、慎しむべくのみ。
 江戸行き止みに相成候はば、返上つかまつるべき事。
     年 丸
此の度、京師長滞留に決し候上は、京師にて頂戴致すべき事」
 かれは、金三十両を自分で持つことに、よほど自信がなかったらしい。誘惑には、いささか弱かったようである。
 ところが6月5日の池田屋事変で稔麿は没したため、塩屋兵助は預かっていた金三十両の封を切らず、そのまま父清内に送り届けた。清内はこれを藩の方に返納する。
 藩政府は稔麿も塩屋も清内も、みな清廉の者だと喜ぶ。そして7月11日、返納された「金三拾両」を稔麿の祭祀料として、あらためて清内に贈った。そのさいの「覚」には「稔丸兼ねての正廉謹厚の節操、死後に至り相顕われ、奇特の事に候」との褒言葉が並ぶ。
 明治9年(1876)10月14・15日、二日にわたり、京都霊山において招魂祭が養正社による私祭として行われることとなった。養正社は同年、内閣顧問木戸孝允と京都府権知事槙村正直が中心となり作った組織だ。祭られる対象は「戊午(安政5年・1858)以来、其の身多年 王事に憂労して終に非命に死」んだ者たちで、中には十三周忌となる稔麿も入っていた。祭事当日はかれらの「遺墨遺物」も展示されることになったが、稔麿のそれは三十両の包み紙と自筆の添え状、藩からの「覚」の三点を一組にして貼り交ぜた、畳一枚ほどもある大幅であった。祭典3日前、この軸の大きな余白部分に、長州出身の国重正文(のち東京国学院長)が「ああ、これ吾が旧知故吉田年丸の手沢封題にあらずや」に始まる解題を書き、最後に品川弥二郎が次の追悼歌を添えた。
「おもひきや十とせあまりもなからへて 涙ながらに筆とらむとは  やじ拝草」
 稔麿の少々拙い小さな字に比べ、品川のそれは自信に満ちた堂々としたものだ。このストーリー性のある軸は、現在京都大学附属図書館尊攘堂史料中にある。軸の表紙には品川が「亡友吉田稔麿へ毛利家よりの賞詞並びに同人遺墨」と、書く。
 なお、稔麿の初七日に塩屋では稔麿の遺墨を出し、僧侶に読経させている。遺墨は故人の魂がこもった、特別なものとして扱われたのだ。
 (一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-08-09 18:31 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(18)
栄太郎の幼児性
 特集展示「吉田稔麿の生涯」は8月1日から第2期に入る(11月末まで)。このたびは松陰の死後、脱藩した栄太郎(稔麿)が江戸へ出て、旗本妻木家に仕え、同家を去るまでを史料で見ていただこうと思う。
 栄太郎の魅力のひとつは、手紙の面白さだと思うが、私がもっとも気に入っている文久2年(1862)3月15日付、母イクあてを、今回展示する予定だ。常陸鹿島郡の妻木家領地に主人の名代(代理)として赴いた栄太郎のレポートが、これまでも何回か紹介しているが実に面白い。
 「此の間田舎へ参り候ては、御名代ゆえ御代官も庄屋も村役人も私の心持ち通りにはたらき」云々というやつだ。領主の代理だから、役人や領民たちが栄太郎にぺこぺこする。それを「誠に面白き事にて実に涙のこぼれ候様にうれしく」「武士の本意にござ候」などと、得意げに母に知らせている。
 この他にも栄太郎の母あての手紙には、
「妻木の殿さんに可愛がられとるよ」「旗本になれるかもしれん」「江戸城にも出入りできるんじゃ」「岡山藩からも仕官の声がかかったんじゃ」
 等々と、これでもかと言うほど、自慢話が散りばめられている。
 ちいさな男の子が、はじめて何かが出来るようになった時、真っ先に母親に見せようとする。そして、褒めてもらおうとする。
 栄太郎の母あての手紙を読んでいると、この男は20歳を過ぎても、そうした幼児性を強く持っていたことが分かる。筆跡も子供のようで、お世辞にも達筆、美筆ではない。それは私自身の記憶と重なり、面はゆいような、微笑ましいような不思議な気分にさせられる。なんかふに~っとした感じの(抽象的表現で申し訳無いが)一面があった男ではなかったか。
 それを受けた母が、大切に保存したからこそ、栄太郎の手紙は今日まで伝わっているのだ。そうした思いも展示で感じていただければ幸いである。
「稔丸は私にやさしくしてくれました。母様が下駄の緒をしっかり立てて下さったから、大変歩き好く、少しも疲れざったと、三田尻から手紙を遣りました」(林茂香『幼時の見聞』)
 24歳の一人息子を失い、なお20年余りも萩の地で生きねばならなかった母の言葉が心に沁みる。
               (一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-07-15 18:06 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(17)
幻想博物館
 十年以上前になるが、雑誌に「松浦松洞(松陰門下生の絵師、文久2年自刃)」についての短い文章を書いたところ、老紳士から連絡をいただいた。かれが戦前、外地に住んでいたさい、近所に松洞の子孫という方がおられ、記事を読み懐かしく思い出したのだという。「その家には、松洞の甲冑がありましてなあ、あれは終戦のどさくさで、どこかに行ってしまったんでしょうねえ」などと話しておられた。以来、「松洞の甲冑」というのが気になっている。萩の魚商の子として生まれた松洞は、おのれの才覚で陪臣という下級武士の身分を手に入れた。憧れの武家社会の末端に身を置いた松洞は、どのような気持ちで甲冑を所持したのだろうか。松洞の思いが偲ばれる。ぜひ拝見してみたいものだが、現物はおろか、写真ですら残っているという話は聞かない。
 このように、ある時までは存在していた「幻」の史料を並べてゆくのが、私の頭の中にある幻想博物館だ。今回はその幻想コレクションの中から、何点か紹介してゆこう。
 目玉のひとつが、「高杉晋作揮毫の旗」である。「奇兵隊の旗」といえば現在、小隊司令旗といった実用的な旗しか残っていない。だが、奇兵隊士金子文輔の日記文久3年7月14日の条に、高杉晋作が阿弥陀寺の陣営において「長門有志先鋒隊」「長門有士奇兵隊」の旗を二旒、揮毫したという記事があるのだ。奇兵隊総督を任ぜられ、闘志に燃える晋作の、勢いあふれる筆跡が素晴らしい。
 今年生誕170年を迎える吉田稔麿関係で言えば、文久3年7月、士雇に昇格したさい、山口で挨拶廻りの時に配った「名札(名刺)」がある。これは同じ日に昇格した、白石正一郎(下関商人)の日記による。他に吉田松陰や高杉晋作の「名刺」も並ぶ。「なるほど、かれらはこうした手書きの名刺を作り配っていたのか、現代とあまり変わらないな」といった入館者の声が聞こえてくる。
 その隣には、九尺ばかりの白木綿に、「天授丸」の三文字を大書した旗がある。「きったねえ字だなあ、子供の字みたいだ」と、入館者は吐き捨てるように言う。たしかに勢いばかりで、お世辞にも上手な字とは言えないが、実は稔麿の筆跡である。文久3年7月、下関の奇兵隊陣営に居候していた稔麿は、ある日数名の隊士を集めて硯で墨をすらせた。そして大きな筆を二、三本束ね、自分でこの文字を書いたのである。それから稔麿は20名ほどの隊士を選び、二艘の船に乗せ、この旗を立てて北九州に渡って行く。外国船を砲撃しない小倉藩に、背後から圧力をかける目的だったらしい。同じころ勅使の使者の訪問を受けた小倉藩は「攘夷を断行します」と、不本意ながら誓約させられる。この旗の効果が、どの程度あったのかは分からない。
 繰り返すようだが、以上はあくまでも「幻」の史料だ。おそらく今後も出現することはないだろう。しかし記録上で残るだけで、まず、実在はしていないと思っていた史料が、実在していた例もある。高杉晋作が文久元年3月、藩主世子小姓役に就任したさい書いた挨拶状(吹聴状)などは、そのひとつだ。いまだに「奇跡」としか思えない、史料との出会いである。詳しい経緯などは拙著『高杉晋作秘話』(平成10年)に、「幻の吹聴状」の題で書いておいたので、興味のある方はご一読いただければ幸いである。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-06-29 11:52 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(16)
幼なじみの利介
 萩の松本村に住む吉田栄太郎(稔麿)が九歳のころ、嘉永2年(1849)3月、近所に引っ越して来た一家がある。利助とその両親だ。利助は栄太郎と同い年だった。のち初代総理大臣となった「従一位大勲位公爵伊藤博文」である。
 利助は萩の生まれではない。瀬戸内に近い熊毛郡束荷村に住む、林と称する農家の生まれだ。父十蔵は故郷の村ても金銭トラブルを何度か起こした。そのため村に居られなくなり、いろいろあって萩の下級武士伊藤直右衛門に仕えていたのだ。
 同年齢の二人は、すぐに一緒に遊ぶようになった。
 利助は別に病弱ではなかったが、顔が青白かった。だから他の子供たちから「利助の瓢箪、青瓢箪、お酒を飲んで赤うなれ」とからかわれていた(『伊藤博文伝』)。利助は自分よりも腕力が強い、栄太郎に押さえつけられることがあった。青瓢箪とはいえ利助も負けん気が強いから、またやって来る。そしてまた負けて帰って行った。しかし利助が笛を吹いて歩けば、栄太郎は後ろから調子をとってついて行ったという(『松陰先生と吉田稔麿』)。栄太郎は読み終わった書籍を、利助に与えるなど親切だったらしい(『藤公美談』)。あるいは利助の最初の妻(入江九一の妹)を世話したのは、栄太郎の母イクだった。利助はすぐにこの妻を離縁したので、イクは彼女が自殺するのではないかと心配しながら入江に連れて帰ったという話が残る。
 その後も二人の交遊は史料で確認出来るが、文久3年(1863)5月、利助こと「伊藤俊輔」が井上聞多らとイギリス密航留学するさい、栄太郎がどのような反応を示したかが分からないのが残念だ。栄太郎がちゃんと、聞かされていたのかも分からない。「そういやあ、最近俊輔を見かけんのう。行方不明?どこ行っちょるんじゃ」と、首を傾げていたかは知らない。一方俊輔が「あいつは攘夷、攘夷っちゅうてうるさいからのう、エゲレス密航はちょっと黙っちょこう。まぁ栄太もこん前、わしに内緒で出奔しよったけえのう、お互いさまじゃ」と思っていたかも知らない。
 元治元年(1864)6月5日、24歳の栄太郎は京都で死んだ。24歳の伊藤が帰国したのはその月である。伊藤が竹馬の友の死をどこで聞き、何を思ったかはこれも史料が残されていない。しかし、それから四十五年長く生きた伊藤は政治家として日本を独立した近代国家へと見事に脱皮させた。地下の栄太郎も「利助、ようやった」とうなずいていたに違いない。
 子供のころ、利助は栄太郎の家に遊びに来ては、庭にある大きな松の樹に登っていたと伝えられる。ゆえにこの松は後年、「大臣松」と呼ばれた。大臣松は栄太郎旧宅とともに昭和50年代半ばまで残っていたが、いまは切り倒されて跡形も無い。写真で見ると立派な枝振りの松だ。
 というわけで、今年は吉田稔麿同様、伊藤博文も生誕170年という記念すべき年にあたる。以前、私は彦根のひこにゃんに対抗し、萩のゆるキャラを作らねばという激しい使命感に燃えていたことがある。ちょうどその年(平成21年)が伊藤博文没後100年で、私は記念展の主査をやっていた関係から、博文漬けの毎日を送っていた(今年は栄太郎漬け)。そのさい、伊藤の顔写真をじ~っと眺めていたら思い浮かんだゆるキャラがここに紹介する「ヒロボン」だ。
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ぜひに!と提案したところ、満場一致で却下されたのは残念でならない。いまでは廃棄物になりかけている(一坂太郎)
 
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by hagihaku | 2011-06-13 10:57 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(15)
吉田稔麿の命日
6月5日は池田屋事変で亡くなった吉田稔麿(栄太郎)の命日です。そこで、4日、5日と各1回ギャラリートークを行います。
先日、稔麿にそっくりだったという従弟の子の晩年の写真を見せて頂く機会がありました。それらをもとに描いてみた稔麿の肖像画です。
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(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-06-04 14:05 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(14)
岡山藩と栄太郎
 万延元年(一八六〇)十月、兵庫警護中に突じょ脱藩した吉田栄太郎(のち稔麿)は山陰各地、下関、上関などを転々としたのち、備前岡山に赴いた。岡山藩池田家は外様で、石高は三十一万五千石。栄太郎は文久元年(一八六一)二月ころまで、ひと月かふた月くらいは、この地で生活したと考えられる。
 それから栄太郎は近畿地方を経て江戸に向かった。江戸到着は三月十五日で、岩間水之丞と変名して岡山藩邸(備前屋敷)に潜伏する。同行者は岡元太郎の父だ。この岡という人物の経歴が、なかなか興味深い。
 岡は岡山藩士といっても、藩主池田家に直接仕えてはないない。藩の重役土肥典膳の家来、陪臣である。同志と共に文久三年二月には京都で足利三将軍木像の首を晒し、元治元年七月には岡山に入った新選組の密偵を暗殺したりした。こうして幕府から追われる身になった岡は、長州藩士渡辺玄包の京都宅に匿われる。しかし慶応元年(一八六五)二月、土佐浪士三名と遊説中に農民とトラブルになり、美作土居で自刃。三十歳。
 なぜ、岡山藩はここまで長州の栄太郎とかかわったのか。
 実は、この藩には長州藩と気脈を通じようとする、過激な勤王派、攘夷派が存在していたようなのだ。その中心人物のひとりが、岡が仕えた番頭(ばんがしら)の土肥典膳である。
 文久二年、第八代岡山藩主池田慶政は天皇から上洛の命を受けたにもかかわらず、病気を口実に動かなかった。そのさい土肥らのグループは藩主の意を無視して上洛し、国事周旋方として活動する。
 さらに土肥らは慶政の態度が優柔不断だと非難し、藩の将来のため隠居せよと訴えた。さらに土肥は土倉淡路(家老)・日置猪右衛門(家老)と共に、次の藩主として、長州藩毛利家から養子を迎えるべきだと主張する。他に薩摩藩島津家・土佐藩山内家からとする派もあり、激しく対立した。その結果、文久三年二月に慶政が隠居させられ、水戸藩より九郎麿(慶喜の弟)が迎えられ、元服して第九代藩主池田茂政(もちまさ)となる(荒木祐臣『備前藩幕末維新史談』)。
 天皇の意向に従わないからと、家臣が殿様をクビにするのだ。以前なら考えられぬことである。そして、それを可能にしたのは、藩の枠を越えた横のつながりだった。長州と水戸や薩摩の提携はよく知られるが、岡山との関係もまた、栄太郎によって水面下で築かれつつあったのかも知れない。
 岡山藩邸で約ひと月潜伏した後、栄太郎は大塚にあった幕臣柴田東五郎(薩摩出身)の屋敷に移ってゆく。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-05-06 18:27 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(13)
出奔の理由
 吉田栄太郎(稔麿)の生涯のうち最大の謎と言えるのが、万延元年(一八六〇)十月、兵庫警備の陣中から突然出奔(脱藩、欠落)したことだろう。それから栄太郎は丹羽や出雲、あるいは岡山などを経て江戸に赴き、旗本妻木田宮に仕えたりした。確たる証拠は残っていないが、長州藩が黙認していたことは容易に察しがつく。密命を与えられ、諜報活動を行ったようだ。それを裏付けるかのように二年後の文久二年(一八六二)七月、京都で世子毛利定広に謝罪して、簡単に帰藩が許されている。
 もし、無断でこんな勝手な事をしたら無事では済むまい。栄太郎の師吉田松陰が、かつて脱藩して東北地方に赴いたさいは士籍を奪われ、浪人にさせられた。それと比べると栄太郎の罪は更に重いはずだが、罰せられるどころか、一年後には士雇に列せられるという栄達まで遂げている。
 そのあたりの、何か靄(もや)に包まれたような史実を探ってみたいと思うのだが、これは流石に難しい。栄太郎という人物を歴史の中に位置付け、評価する最大のポイントはここにあると考えている。
 さて、兵庫から姿を消すさい、孝行息子の栄太郎はどのように両親に説明したのだろうか。実は直接、手紙は出していない。信頼していた母方の叔父里村文左衛門(文衛)に十月二日付の手紙で知らせたのみである。
 この手紙の内容が、ちょっと面白い。
 出奔前のある夜、栄太郎は酷い嘔吐下痢に苦しまされた。そのさい栄太郎は日頃から崇拝していた八幡宮に懸命に祈ったところ、不思議にも翌朝には全快。栄太郎はもし治ったら、全国百社の八幡宮に参りますと誓った。神との約束を果たすため、栄太郎は旅に出るのだという。「社数多に付、彼是二年かかり申すべく、その上当節は関東辺りへは卒爾に参り難く勢いござ候」と知らせる。
 さらに「私ケ様相成り候上は、さぞさぞ父母当惑とひそかに掛念つかまつり候」と両親を気遣い、叔父さんから「御智略を以てしかるべく御弁説」して欲しいと頼むのだ。本当の理由は言えなかったのだろう。この後、栄太郎の出奔は萩で評判となり、父の清内も迷惑したらしい。
 それにしても、出奔の理由が全国八幡宮参りだと、周囲の者は本気で信じたのだろうか。だとすれば、随分純朴な人たちである。
「さすがは栄太郎、若いのに信心深い感心なやつっちゃ」
 と言ったかは知らない。
 なお、栄太郎が神社仏閣を好んだのは事実のようで、元治元年(一八六四)三月二十一日、両親あての手紙には「この間より、石山寺開帳につき参り滞留」とある。近江石山寺の本尊如意輪観音菩薩半跏像は、三十三年に一度拝めるだけの秘仏だ。わざわざ拝観に行ったというのは、栄太郎の何か別の一面を見たような気がする。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-04-22 17:25 | 高杉晋作資料室より