カテゴリ:くらしのやかたより( 235 )
城下町萩のひみつ12 ~ 目線を変えると見えてくる江戸時代の萩の2 ~
2016年3月30日(水)、城下町萩では気温が20℃を超えました。
昨日より、南寄りの風が吹いていましたが・・・ツバメが帰ってきました。
昨年が3月24日でしたから、少し遅い春到来です。
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城下町萩を再発見するツアー(小旅行)は、毛利隠岐家(萩博物館)から3軒西隣まで歩みを進めていました。
さらに西に進みましょう。
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以前もご紹介しましたが、旧萩城三の丸(堀内地区)では、1970年頃まで、広大な武家屋敷地が夏みかん畑として利用されていました。
そして、屋敷地を区画する土塀や長屋、明治以降に敷地内部の石を寄せた石積み塀などが、夏みかんの風よけとして維持されました。
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土塀や長屋、石積み塀の、江戸時代に築かれた基礎石部分の石材に注目した分布図です。
ワークショップに参加した小学生の調査成果をもとにまとめたものです。
(実は、小学生の大発見物語りがあるのですが、それはあらためてまた・・)

夏みかん畑が維持されたからこそ、萩城三の丸全域で、江戸時代に築かれた基礎石が確認できます。
ちなみに、赤色で表現されているのが花崗岩の基礎石で、濃い青色で表現されているのが安山岩(笠山石)の基礎石です。
毛利隠岐家(博物館)が接する本町の通りの南側では、明治初年に畑が通り側に拡げられたため、基礎石が確認されていません。
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毛利主計・国司熊之助・毛利筑前・益田伊豆のそれぞれの屋敷地に接する四つ角です。
益田家の敷地東側の長い長い土塀です。
途中、出入り口は全く無く、敷地は後町の通りまであります。
敷地の奥行は約120m!
本町の通りに面しては白っぽい花崗岩の基礎石、屋敷側面には黒っぽい安山岩の基礎石が見えます。
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益田伊豆家の前、西側に目を転じ、そして目線を下げてみました。
益田家の表側です。
基礎石にご注目下さい。
何か見えてきませんか?
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萩博物館敷地南側、本町の通りに面した長屋門です。
江戸時代には、益田家にも、同様の長屋門が存在しました。
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基礎石が認めらず、石材が不規則につまれている部分は、かつての長屋門の出入り口と考えられます。
現在も敷地の出入り口として門が設けられていますが、江戸時代には、もっと大きな開口部が存在したことが見えてきます。
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いかがでしょうか?
目線を変えてみると、萩城三の丸における重臣の屋敷の様子が見えてきませんでしょうか?
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西へ歩みを進めます。
益田伊豆家と毛利出雲家の屋敷の境あたりです。
いかがでしょうか?
もう、お分かりですね。
赤土の土塀と石積み塀が接している所が敷地の境ではありません。
そうです、基礎石の高さが変わっている所が敷地の境なのです。
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毛利出雲家の前です。
現在は、新たに宿泊施設や宅地へ出入りする道が設けられてはいますが、ここでも、目線を変えると広い広い江戸時代に存在した長屋門の開口部が見えてきます。
ぜひ、実際に城下町絵図を手に歩き、発見してみて下さい。
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次は、四つ角から2軒目の毛利出雲家と3軒目の福原近江家との境を確認します。
夏みかん畑の分布図では畑の中に敷地境を確認できますが、2軒目の毛利伊豆家は随分と広かったようです。
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ヒントは、福原家の基礎石が、濃い青色で表現された安山岩ということ。
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写真では分かりづらいかもしれませんが、基礎石の石材の違いにご注目下さい。
少し高い所から見ると、敷地の奥の方へ、敷地を区画する崩れかけた土塀が続いるのを確認できます。
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指定文化財になっている福原家の門です。
毛利隠岐家の6軒西隣?! です。
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東方、毛利隠岐家(萩博物館)の方を振り返った写真です。
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福原家・毛利家・益田家と本町の通りを隔てて対面する萩高等学校です。
宍戸孫四郎家と毛利筑前家の2軒の敷地が、現在、高等学校の敷地となっています。
毛利藩の重臣たちの屋敷が、いかに広大であったかを実感できます。
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長々と失礼しました。
おつきあいありがとうございます。

ギャラリートークの後に催行している萩再発見ツアーの一部を歩きました。
夏みかん畑が維持され、結果として武家屋敷の敷地割が良く伝えられたからこその発見があります。

城下町萩のひみつ展の会期は、4月7日(木)までです。
ギャラリートーク・萩再発見ツアーは、4月2日(土)14;00からです。
よろしければお運び下さい。

 ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=16p7hlqCDVY

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-30 20:23 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの11 ~ 目線を変えると見えてくる江戸時代の萩 ~
2016年3月28日(月)、今日もツバメの飛来は確認できませんでした。
(午後、館外に出ていませんので何ともいえませんが・・・)
花冷えの影響でしょうか。
昨年は3月24日の飛来でしたので、ツバメたちは少しノンビリと北上しているようです。
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さて、城下町萩のひみつの11、今回は目線を変えることで、江戸時代の萩城三の丸の様子が見えてくることをご紹介しましょう。
城下町絵図の左上部分(北西部分、外堀の内側の旧萩城三の丸)をご注目下さい。
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昭和27年、1952年の夏みかん畑の分布を示した図です。
以前、武家屋敷地が夏みかん畑として利用され、それが永く維持されたことで、結果として』武家屋敷の敷地割が今に伝えられたことをご紹介しました。
夏みかん色?!で囲んでいるのが、現在、萩博物館の敷地となっている場所で、当時は市民病院でした。
指月中学校と萩高等学校と病院を除き、ほとんどが夏みかん畑です。
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このエリア、城下町絵図を手に歩くと、そこかしこで楽しい発見があります。
ということで、博物館(毛利隠岐家)南の「本町」の通りを西へ、6軒隣!! の福原近江家まで歩いてみましょう。
本町の通りは、萩城三の丸のメインストリートでした。
実はこの本町の通り、明治初年に、道幅が江戸時代の半分になっているのです。
理由は、畑(当初は桑畑、後には夏みかん畑)を拡げるためでした。
本町の通りを取り込む形で畑(敷地)が拡大されたのは、通りの南側でした。
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かつての道路幅が良く分かる場所があります。
熊谷吉拾郎家と柳沢備後家の間の通り、平安古の総門に続く三年橋(三年坂)筋です。
左が熊谷家、右が柳沢家です。
ちなみに、柳沢備後家と国司熊之助家の2軒の敷地が、現在、萩西中学校になっています。
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その三年橋筋の東側、熊谷家の敷地西側を、目線を下げて見てみましょう。
何か見えてきませんか?
今は宅地になっていますが、この辺りも永く夏みかん畑として維持されてきました。
萩城三の丸においては特に、敷地を区画する土塀や長屋が、夏みかんの風よけとして保たれました。
土塀や長屋が無くなった場所には、土塀や長屋の基礎石の上に、敷地内部の石を集めて石積み塀が築かれました。
ここは、江戸時代に築かれた基礎石と、明治以降に築かれた石積み塀が見られる場所です。
そうです、石積み塀の下部に見えるのが江戸時代の基礎石なのです。
整然と積まれた基礎石の端(手前側)は、江戸時代の熊谷家敷地の境を示します。
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いかがでしょうか?
乱雑に積まれた石積み塀は、明治以降、畑が拡大された際に築かれたものです。
本町の道路幅が倍であったことを確認することができます。
目線を変えると、江戸時代の萩城三の丸の様子が見えてきませんか?
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歩みを西に進めましょう。
熊谷家・国司家と山内家の前辺りから、西側の毛利主計家の方を眺めます。
見えてきたのは、毛利主計家(毛利一門、阿川毛利家)の大きな花崗岩を積んだ基礎石です。
櫓(矢倉)のような建物があったのでしょうか。
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矢(クサビ)を使って石を割った矢穴の跡が残る基礎石です。
花崗岩は、萩城本丸背後の指月山の北側で採石されました。
先にご紹介した熊谷家敷地西側の黒っぽい基礎石は、城下北東郊の笠山で産する安山岩(笠山石)です。
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毛利主計家前で、東方、毛利隠岐家(萩博物館)の方を振り返って撮影したものです。
萩城三の丸における花崗岩を用いた基礎石で、最も緻密に積まれたものです。
記録によると、毛利主計家には、二階建ての長屋門が存在したようです。

・・・とここまで屋敷3軒、つづきは次回ということで。
実はこれ、ギャラリートーク後に催行している「萩再発見ツアー」のルートの一部です。
次回のギャラリートークは4月2日(土)の14:00から、萩再発見ツアーは15:00ころからです。

「城下町萩のひみつ」展CMロングバージョン
  ↓ ↓

https://www.youtube.com/watch?v=16p7hlqCDVY&feature=player_detailpage

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-28 20:15 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつ の10 ~ 南明寺のイトザクラと同行札 ~
2016年3月17日(木)、萩は良い天気となりました。
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城下南郊に南明寺(なんみょうじ)という天台宗の寺院があります。
江戸時代より城下の人々が開花を心待ちにしたイトザクラがあることで知られています。
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本日の南明寺境内のイトザクラです。
他の桜に比べて開花が早いことから、
「南明寺の糸桜、散っちゃあ 行っちゃあ 見ぃちゃあ あっても、咲いちゃあ 行っちゃあ 見ぃちゃあ ない」
(方言で、散ってから行って見る人はあるが、咲いているのを行って見る人はいない、の意)
と歌われたとされます。
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今年は少し開花が遅いようですが、今日の陽気で、一気に花が開くかもしれません。
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江戸時代に編まれた『八江萩名所図画』の中の「南明寺花見の図」です。
城下の人々が花見を楽しむ様子が木版画で表現されています。
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イトザクラのある境内を抜けて、山道を登ったところに南明寺観音堂があります。
城下の人たちが、江戸時代の早い時期(遅くとも元禄期)から、「七観音詣で」で参詣した城下の七か所の観音寺院・庵堂の一つです。
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観音堂部分を拡大したものですが、屋根の内側、壁面をご注目いただけますでしょうか。
何か野球のホームベース状のものが表現してあります。
下の写真は、やはり「七観音」の一つである市内後小畑の福聚院です。
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多数の札を認めることができます。
この札を、便宜的に「同行札」(どうぎょうふだ)と呼んでいます。
かつて城下やその周辺の地域では、町内や集落の年齢の近い若い人たちが、同行と呼ばれる講のような組織を組んで、近畿地方の西国三十三観音霊場を巡っていました。
その霊場巡りから帰った人たちが、無事の帰還を感謝して、観音様を祀る堂庵に奉納したのがこの「同行札」です。
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天保11年(1840)の年号が記された同行札です。
城下の港町である浜崎町の同行が奉納したものです。
同行による西国観音霊場巡りは、成年となるための通過儀礼のような要素を持っていました。
交通の発達していない時分に、50日以上をかけて巡礼した話を伺ったことがあります。
苦楽を共にした人たちの間には、終生続く固い絆が生まれたとされます。
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今回の企画展「城下町萩のひみつ」においては、その「同行札」を展示しています。
同行による西国観音霊場巡りは、全国的には、江戸時代中ごろに始まり定着したとされます。
城下町萩では、その初期である宝暦年間(1750年頃)より巡礼に赴いていたことが、伝えられた「同行札」から確認できます。
確認できた最も新しい札は昭和36年(1961)のもので、伝承によれば、昭和40年頃までは同行による巡礼は続いたとされます。
同行の絆は、今でも地域のなりわいや行事など様々な側面で発揮されているそうです。

江戸時代起源の歴史文化が、城下町萩には息づいています。
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博物館「前」駐車場の片隅のアンズの花です。
昨年、ツバメの飛来を確認したのは3月24日のことでした。
もうすぐそこまで春が来ています。

萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展は、4月7日(木)までです。
お運びお待ちしております。
     ↓↓
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=16p7hlqCDVY>

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-03-17 15:18 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの9 ~誇りによって守られた「まち」~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形づくられた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します。

今回のブログでは、城下町に住まいしてきた人たちの「誇り」が、この「まち」を守ったということについてご紹介します。

その前に、萩博物館企画展へ皆さんを誘うイメージ映像を制作しましたので、よろしければご覧ください。
  ↓ ↓ 
企画展 城下町萩のひみつ

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1924年、大正13年に、萩反射炉が国の指定文化財となります。
その指定直前か直後のの撮影と考えられる反射炉の古写真です。
その前々年、1922年、大正11年に松下村塾・吉田松陰旧宅が国指定史跡に指定されます。

明治維新後50年余を経た1920年ころより、萩の「まち」においては、歴史上の出来事やそれに関わった人物が再認識されるようになります。
そして、人物の旧宅や城下町起源の史跡などが文化財として指定され、保全が図られるようになります。
それは、自らにとって誇りとすべきものを再発見し、その価値を共有し、そして継承していというく活動でもありました。
早い時期からのこの取組みがあったからこそ、豊かな城下町の歴史文化が今に息づくこととなります。
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鉄道(後の山陰本線)は、反射炉のすぐ傍に敷設されました。
1929年、昭和4年には東萩駅-奈古駅間が開通しましたが、その直後頃の撮影と考えられる写真です。

1929年には、明倫館水練池・明倫館碑・有備館がともに国指定の史跡に指定されます。
1932年、昭和7年には、木戸孝允旧宅・伊藤博文旧宅が、国指定の史跡に指定されます。
この年、萩町が市制を施行して萩市となりました。

「長州新聞」1930年(昭和5)7月1日号には、市制施行を訴える林町長の意見が掲載されています。
その中で、林町長は、市制施行に向けて萩町民の賛同を得るために、
(1)史跡名勝に富むことを活かした遊覧の都市建設、
(2)交通網整備にあわせて天然資源を活かした加工工業の都市建設、
(3)人材を輩出した歴史環境を活かした教育地としての都市建設 を訴えています。

「観光立市」への意識が示されていて興味を覚えます。
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市制施行3周年記念の萩史蹟産業大博覧会開催を報せる絵葉書です。

1935年、昭和10年4月、萩市土原グラウンド(現在の萩東中学校地)において、萩実業会主催の萩史蹟産業大博覧会が開催されました。
この博覧会は、萩の史跡を紹介し、それらを保全活用しつつ萩市経済を活性化させることを目的としていました。
会場には、日産コンツェルンの日産館をはじめ、産業本館・史蹟観光館・朝鮮館などのパビリオンが設置され、入場者の関心をひきました。
また、博覧会に併せて、明倫小学校では防長勤王資料館が開催されるなど、種々の行事で市内は賑わいました。

城下町に住む人たちにとっての誇り=歴史的な資源が大いに注目を集めました。

長くなるため割愛しますが、明治維新後50年頃から100年頃までの間の文化財指定や保存にかかわる出来事を通覧すると、実に多くの「誇りを継承する活動」が行われていたことが見えてきます。
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1970年、昭和45年に始まった国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンのポスターです。
紹介されているのは萩の古いお寺(観音院)の苔むした瓦です。
「古き良き時代の名残り」というコピーが添えられています。
「なつかしい日本のふるさと」として注目を集めた萩には、歴史や伝統的な文化に触れることを求める多くの人が訪れました。

明治維新後50年を前にした1916年、大正5年に、阿武郡教育会に史蹟保存会が設立されます。
以降、様々なタイミングで史跡などの歴史的資源を保存する活動が展開されます。
明治維新100年(1968年)を前にした1965年、昭和40年には、城下町萩の歴史文化の掘り起しや「史都萩」の継承を目的に、「史都萩を愛する会」が発足します。
1967年、昭和42年には会報は創刊されますが、その創刊号に興味深い巻頭言が寄せられています。
以下、長くなりますが、その一部をご紹介します。

「あいさつ」(抄録)  林良雄 (史都萩を愛する会 会長)

(前略)

 萩市の歴史的遺産は、殆んど全く萩市民が意識的に保存に努めて残したものではなく、自然に残ったものであります。そして、明治維新百年を迎えた今日は、あたかも江戸時代の建築の建て替え期にあたるものも多く、また一方、生活近代化への欲求も強く、建替え、改築、改造が盛んに行われ一つの危機を迎えております。
 すなわち、自然的保存はその限界に達し、今日以後、史都の姿を保存しようとすれば自然的保存から、人為的意識的保存に切り換えなければその目的を達することができないようになったのではないかと考えられます。そしてこれは困難な仕事ですが、しかし不可能ではありますまい。
 史都萩のたたずまいは、往昔の萩城下住人が造り残してくれた遺産ではありますが、これを家庭に例えれば、祖先の残した家宝に相当するものでもあります。その家宝に相当するものの模様変えや処分が、これまであまりに軽々しく行われた感じがありますし、現在もなお行われているといえましょう。しかも、この家宝に相当する史都のたたずまいは、今や貴重な観光資源として脚光を浴びてまいりました。

(中略)

 史都の保存が危機にあい、転換期にさしかかっても、これを守るための方法の要は唯一つ、全市民の総意総力を一つに併せることであると信じます。
 私は、本会の発足にあたり、会員皆様と共に、今日の郷土萩の姿を美しく、良く守るとともに、五百年千年後の子孫が喜んでくれるような、史都萩の姿を残すために、本会の会員がますます増加し、その活動が発展するよう祈ってやまないと同時に、市内外の史都萩を愛する多数各位のご声援、ご鞭撻を心からお願いいたします。


いかがでしょうか。

「城下町に住む人たちが、当たり前のこととして継承してきた自らの「誇り」が、これからは、意識しないと保たれない」といった危機感が示されています。
今から50年前の指摘です。
自らの誇りを大切にするこの意識があったからこそ、城下町の豊かな歴史文化が、今に息づいているのではないでしょうか。

ご参考までに、この後の行政における歴史的な資源・遺産の保存・活用の取り組みを列挙します。
 1972年、昭和47年に、「萩市歴史的景観保存条例」制定
 1976年、昭和51年に、「萩市伝統的建造物群保存地区保存条例」制定
  ※ この間、市内7地区が歴史的景観保存地区に指定され、萩市堀内地区、平安古地区、浜崎地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される
 2004年、平成16年、「萩まちじゅう博物館条例」施行
 2007年、平成19年、「萩市景観条例」制定、「萩市景観計画」策定
 2008年、平成20年、「歴史まちづくり法」公布・施行にともない「屋外広告物に関する条例」制定
 2009年、平成21年、「萩市歴史風致維持向上計画」が国により認定
 2012年、平成24年、「萩市花と緑のまちづくり条例」施行

長くなり恐縮です。
「誇りの継承」は今も続いています。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-08 13:26 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの8 ~ ダムの恩恵 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されていないことを意味します。

「まち」が大きく改変されなかった理由=ひみつの一つとして、萩三角州を形成する阿武川の上流に建設整備されたダムの恩恵に触れます。
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このブログで何度かご紹介した萩三角州内の微妙な高低差を示す等高線図です。
三角州中央辺りから北東部辺りにかけて、標高が2mに満たないような低地が広がっています。
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1960年、昭和35年頃に撮影された萩三角州中央あたりの航空写真です。
水田やハス田などの広い農地が目をひきます。
この農地が、江戸時代から、大雨の出水を調整する遊水池として機能してきたことは以前にも触れました。
1960年頃にこれが維持されているということは、依然として、洪水の憂いがあったということを示しています。
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1972年、昭和47年の大雨に折に、三角州中央あたり、江向雑賀下がり筋で撮影された出水状況です。
写真左側が藩校明倫館の敷地です。
この辺りから新堀川にかけては、しばしば水に浸かっていたとされます。
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同じ年の撮影で、場所は三角州中央からやや北東の土原(ひじわら)です。
遠くに電電公社の鉄塔を認めることができます。
この辺りは、今でも時々出水が道路にあふれることがあります。
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これも同じ年の撮影で、場所は三角州の外、椿地区の雑式町(ぞうしきちょう)です。
胸まで浸かるような出水の中、消防団員が、綱を伝って孤立した住宅に移動するところが撮影されています。
椿地区でも毎年のように出水に見舞われていたということです。
そのような状況を大きく変えたのが、1975年、(昭和50年)に完成した阿武川ダムの整備でした。
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ダム建設のため、旧川上村、旧福栄村では、204戸、207世帯の方々が離村を余儀なくされました。
しかしそのお蔭により、下流域では洪水の憂いが少なくなり、安心安全がもたらされました。
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1972年、昭和47年に城下町東郊の田床山から撮影された萩三角州の俯瞰写真です。
三角州の中央辺りに農地が広がっているのを確認することができます。
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2015年撮影の三角州中央辺りの俯瞰写真です。
洪水の憂いが少なくなった低地が、商業施設やその広大な駐車場、アパートなどの住宅、バイパス道路の用地として利用されていきました。
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1972年撮影の萩三角州東外、椿東無田ヶ原地区の俯瞰写真です。
「無田」の地名が示すように、水田が広がっています。
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2015年撮影の俯瞰写真です。
ここでも低地が、商業施設や住宅、バイパス道路や工場の用地として利用されました。

いかがでしょうか。
ダムが整備されたことにより、城下町の低地においては、随分と洪水の憂いが少なくなりました。
そして低地は、商業施設や住宅、道路の用地として利用が進むこととなりました。
それは、「まち」を壊して新しいものを作り上げるという開発ではありませんでした。

そうです。
ダムの恩恵により、結果として、江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかったのです。

城下町のひみつに迫る萩博物館企画展 「城下町萩のひみつ」 展、好評(?)開催中!

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-26 20:00 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの7 ~ 大きな災いを被らなかった「まち」 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形作られた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します。

「まち」が大きく改変されなかった理由=ひみつの一つに、大きな災害を被らなかったことを挙げることができます。
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上からそれぞれ、1945年、昭和20年4月13日撮影、7月5日撮影、8月7日撮影の萩三角州の航空写真です。
上空30000フィート以上の高空から撮影された大変高精細な写真で、いずれも、戦時中に米軍が撮影したものです。

※ 元徳山工業高等専門学校教授の工藤洋三先生のお手を煩わせ、米国公文書館から取り寄せることができました。
※ 以下にご紹介する米軍の機密資料も、工藤先生のお計らいで入手することができたものです。
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機密扱いの米軍資料4枚の内の2枚で、日本の中小都市を攻撃する計画書です。

太平洋戦争末期、日本の主要都市や軍事拠点をほぼ破壊し終えた米軍は、続いて日本の中小都市の爆撃を計画します。
戦争の継続を、より困難にさせるという目的です。
その際、人口を基準に180の都市が目標としてリストアップされます。
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実は、その攻撃目標180都市のリストの157番目に、「Hagi」が掲載されています。
そうです、萩は攻撃目標の一つだったのです。
それ故に、先にご紹介した偵察写真が撮影されているのです。

しかし幸いなことに、萩の「まち」は、敗戦により爆撃を免れました。
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リストアップされた180の都市の一覧と被災の状況を図にまとめてみました。
赤色で表現された都市名と地図上の点とは、爆撃を受けた都市です。
およそ3分の2の都市が被災しています。
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もし仮に戦争が長引いていたら、萩の「まち」も、日本の多くの都市が被ったような戦災により破壊される可能性が有った!ということです。

萩の「まち」は、しばしば水害に見舞われはしましたが、治水・排水の工夫を重ねて上手に水と共生をはかり、甚大な災害を免れてきました。
「まち」を焼き尽くすような大火災にもみまわれませんでした。
震災にみまわれることもありませんでした。
そして戦災を免れることもできました。

いかがでしょうか。
大きな「災い」を被らなかったことにより、萩の「まち」」は破壊や改変を免れ、その結果として、今でも江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができるのです。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-17 18:15 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの6 ~ 三角州を迂回して敷設された鉄道 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を現在も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形づくられた「まち」が大きく改変あされていないことを意味します。

大きな改変をもたらさなかった要因=ひみつの一つに、近代化の象徴である鉄道の萩三角州迂回敷設を挙げることができます。
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1925年、大正14年4月3日、萩駅が開業した際に発行された観光案内!鳥瞰パノラマ図「萩を中心とせる付近名所図絵」です。
萩沖の上空から、独特の構図で、萩三角州や阿武川上流の長門峡が描かれています。
鉄路は赤い実線で表現されており、三角州の川外、西側(右側、長門市方面)から、玉江駅、萩駅、東萩駅を認めることができます。
鉄道開業当時は美祢線で、鉄路は正明市駅(現長門市駅)から延伸されました。
東萩駅の先は破線となっており、これから鉄道が整備されることが分かります。
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開業間もない昭和初年頃の玉江駅舎です。
玉江駅は、1923年、大正12年に合併して萩町となった旧山田村に設けられました。
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建築途中の萩駅舎です。
I 材木店によると、用材は主に旧川上村より集められたとのことです。
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竣工間近の萩駅舎です。
開業当時は美祢線の終着駅で、機関車駐泊所や転車台なども設けられました。
また駅舎内には、賓客の利用を想定して、二等待合室も設けられました。
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開業間もない昭和初年頃の萩駅舎です。
この駅舎は現存しており、旧明倫小学校の本館とともに、山口県で最初に国の有形登録文化財に登録(第2号)されました。
萩駅は、合併して萩町となった旧椿村に設けられました。
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三角州突端の上流に架橋された阿武川鉄橋です。
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開業間もない昭和初年頃の東萩駅舎です。
萩駅と東萩駅の間の開業は、1925年、大正14年11月1日のことです。
東萩駅は、合併して萩町となった旧椿東村に設けられました。

そうです、鉄道の駅は、三角州川外の、それぞれ旧山田村、旧椿村、旧椿東村に設けられたのです。
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萩三角州の微妙な高低差を色分けして表現した鳥瞰図です。
赤色で表現されているのが、明治維新以降に建設整備された施設や道路です。
三角州内の低湿な場所に、それらが設けられていることが確認できます。

青色の実線で表現されているのが鉄道です。
三角州を迂回する形で敷設されていることが確認できます。

もし仮に、鉄道が三角州の中に敷設され、大きな中心駅が整備されていたらどうなったでしょうか?
江戸時代に形づくられた「まち」は分断され、駅の裏表の開発が進んで「まち」の構成も変わっていたと考えられます。
鉄道が三角州を迂回して敷設されたことによって、結果として江戸時代の城下町絵図を地図として使える「まち」が維持されたのです。

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1960年、昭和35年ころの航空写真です。
萩三角州南西部上空から東方、三角州中央辺りを撮影したものです。
広い農地を確認することができます。
ここに鉄道が敷設されていたら、城下町萩はどのような「まち」になっていたでしょうか。

地方新聞の記事によると、1923年、大正12年8月9日、椿町金谷神社境内で、大津郡正明市(現長門市)と萩間の鉄道起工式が行われています。
この際、萩の駅設置場所について「萩町内に一ヶ所、もし郊外を通過する場合は、山田・萩・椿東の三村に必ず三ヶ所を設置せらたきこと」と要望したとされます。

また、萩市の実業家・政治家である厚東常吉の伝記『雷鳴』には、萩町と周辺三村の町村合併が議論される過程で、当初一つ駅の案だったものが、合併促進の方策として三駅設置案が有力となったと記されています。

村会の議事録などでの確認はできませんでしたが、町村合併を進めるために各村に駅を設けたという伝承は、かつて実際に耳にしたことがあります。
近代化の象徴である鉄道の敷設が、結果として、今に息づく城下町萩を大きな改変から守ったともいえます。

以上、城下町萩のひみつの6でした。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-10 18:03 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの5 ~ 節分と迷宮 ~
2016年2月3日、本日は全国的に節分です。
節分は、書いて字のごとく季節を分かつ日で、翌日が春の始まりである立春です。
この日の夜のことを、萩地方ではトシノヨ(歳の夜)と呼びます。
暦の上での大晦日もトシノヨと呼ぶように、節分・立春が年の変わり目という意識が認められます。
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先だって寒波が襲来した日の城下町の一角です。
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直交する街路は城下町の特徴の一つです。
四つ角で、左に曲がっても、前に進んでも、右に折れても、そこには違った「まち」が存在します。
その意味で、城下町の四つ角は、異なった世界・迷宮への入口と言えるのかもしれません。
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節分の翌朝、つまり立春の日の朝の、城下町の四つ角です。
交差する街路の真ん中に、紙に包んだ豆が置いてあるのをご覧いただけますでしょうか。
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城下町萩においては、興味深い節分行事が伝わっています。
節分の日の夜に行われる厄落としです。
この日の夜、厄年の人が、年齢の数だけ節分の豆を紙に包んで近くの四つ角に出向き、背中越しに落としてから、後ろを振り返らずに帰ってくるというものです。
四つ角(=異界・あちらがわの世界への入口?)で儀礼的に生まれ変わって厄を落とす民俗と解釈できます。
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江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができる「まち」・萩。
城下町の歴史文化が息づいています。

萩博物館企画展「城下町萩のひみつ ~迷宮へのいざない~」展、好評!(かどうかは微妙なところですが)開催中です。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-03 18:50 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの4 ~ 夏みかんが守った城下町 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができます。
江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかった理由の一つに、明治時代に始まった夏みかんの経済栽培があります。
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1952年、昭和27年の夏みかん畑の分布図です。
萩三角州とその周辺に、かなりの面積の夏みかん畑を認めることができます。
この分布図と以下とを見比べてみて下さい。
何か見えてくることがありませんでしょうか?
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上の写真は、1945年、昭和20年7月5日に米軍によって撮影された萩三角州の航空写真です。
上の分布図で夏みかん畑となっている場所に、夏みかんの葉が黒く写っています。
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江戸時代終わりころの城下町絵図です。
いかがでしょうか?
絵図で白く表現された場所の多くが、夏みかん畑になっていることが見えてきませんでしょうか。
この白く表現されているのは、武家屋敷地や藩の施設です。

1876年、明治9年に、禄を失った武士の救済のために夏みかんの果樹としての経済栽培が始まります。
その際に、畑として利用されたのが広い武家屋敷地でした。
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栽培が始まって10年を経過した頃より、夏みかんは市場に出回り始めます。
当初は、夏みかん5個と米1升が等価というような高値で取引をされたそうです。
そして明治30~40年代には、当時の萩町の年間予算の8倍もの生産額を誇ったこともあるそうです。
江向のKさんによれば、夏みかんの樹が3本あれば子供を上の学校に進学させることができたそうです。
夏みかんは萩の「まち」と人とを支えました。

〈参考〉
 5個7銭の夏みかんが守った城下町

 『大日本農会報』 133号によると、明治20年(1887)の夏みかんの値は1000個14円(1個1銭4厘)。
 「東京深川正米相場」によると、明治16~20年(1883~1887)の米価が1石5円71~94銭(1升5銭7厘~9厘)、明治21~25年(1888~1892)の米価が1石6円66~82銭(1升6銭6厘~8厘)。
 夏みかん5個(約7銭) ≒ 米 1升(5銭~7銭)
 
 年によって変動はあるが、当初、夏みかん5個程度が、米1升と同じ値という高値で取引されたことによ り、夏みかん畑になった武家屋敷地が永く維持された。



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国鉄のディスカバージャパンキャンペーンのポスターです。
城下町の土塀からこぼれる夏みかんが紹介されています。
「ひかりは西へ」、「新幹線岡山開業」とありますので、夏みかん経済栽培開始から96年後の1972年のポスターです。

夏みかんの栽培は永く続き、武家屋敷地が、屋敷を区画する土塀や長屋などとともに畑として維持されました。
夏みかんは、結果として、江戸時代に形作られた「まち」を大きな改変から守ったのです。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-01-30 15:59 | くらしのやかたより
寒波の中、萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展開催中、のつづき
2016年1月26日、寒さは少し和らぎました。
以下、リクエストにより、(あまり企画展とは関係ないのですが・・)寒波の日の萩博物館と周辺の画像をご紹介します。
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博物館(毛利隠岐)敷地北側のの通用門を出て、「後町」の通りを西へ。
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風を背に南を向いて、問田益田家(益田伊豆)の屋敷地東面の長い長い土塀です。
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「浜町」の通りを歩くべく、歩みを北へ。
しかし風が冷たく強いため、南を向いて(ホントに冷たかった)。
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本日、閉門!
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「浜町」の通りの西方、萩城二の丸・本丸方です。
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「浜町」の通りの東方です。
波の騒ぐ音、菊ガ浜の松を渡ってゆく風の音の中、歩みを東へ。
(ホントは、寒くて風に向かって歩くことができなかったのです・・・)
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大木屋前から東方、周布家長屋門です。
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繁沢家長屋門(繁沢石見)前から東方、益田家物見櫓(益田弾正)方です。
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吹き募る風と雪の中の益田家物見櫓(益田弾正)です。
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外堀沿いの土塁の際まで行って引き返しました。
吹雪を楽しんでいる近所の小学生に出会いました。
「浜町」の通りが雪でかすんでいます。
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益田家物見櫓の前から西方、繁沢家長屋門方です。
この通りは日頃でも趣があるのですが、雪の日もなかなか良い! と、思われませんか。
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明けて1月25日、少しだけ寒波は和らぎましたが、依然として寒さは続き、ツララが成長?していました。
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ツララを記録するM専門員です(それを記録した学芸員某です)。
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博物館の建物は、かつての大規模な武家屋敷にならってデザインされているため、雨どいが設けられていません。
ということで、見事なツララの出現となりました。
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中庭で見ることができたツララの最長のものは、軒瓦から125cmありました。
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滴が凍っていました。
鍾乳洞の石筍を思い出しました。

以上、長くなり申し訳ありません、寒波の中の博物館周辺と博物館でした。     (清水)
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by hagihaku | 2016-01-26 18:44 | くらしのやかたより