カテゴリ:くらしのやかたより( 239 )
今日は萩市防災の日、そして須佐弁天祭りの二日目
2013年7月28日、萩市東部地域は豪雨に見舞われました。
萩市須佐においては、時間降雨量138㎜、12:20までの3時間降雨量300㎜超、記録的な大雨でした。
須佐・田万川・むつみ地域では、死者2人、行方不明者1人、負傷者5人、また被害家屋は1100棟を超えるなどの甚大な被害が発生しました。
文字にすればこのようになるのかと思いますが、それはそれは大変な被害でした。
復旧の道のりも険しいもので、先の九州の豪雨災害には,、当時のことが思い出され胸が痛みます。

2017年7月28日(金)、今日も暑い萩市です。
その中、須佐では弁天祭り(厳島神社祭礼)の二日目を迎えています。
以下は、昨年の弁天祭り初日の御神幸船渡御の様子です。
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先導の船、一の字、二の字、鳥居船、神子船(花船)、そして神輿を載せた神船と船を連ね、神霊を対岸の中島に送ります。
二日目(今日、7月28日)は、この神霊をお迎えに向かい、湾を三周して帰ってきます。
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二日目の夕方、一足早く島に渡られた宮司さんです。
神霊とともに神船にお迎えします。
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神船の船上では、神霊渡御を囃すお船謡が謡われ、神子船では神子舞が奉納されます。
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湾を三周した後に、4丁櫓の漕ぎ船に曳かれて港に帰ります。
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港には、20時開始の花火を楽しみに集まった人、人、人・・・
(ご存知とは思いますが、須佐の花火は、音がスゴイ!!
周囲にこだまする体を包むような音で、大・迫・力! おすすめです!!
このブログをご覧になったあなた、あと7時間あります、須佐へ!
もちろん、船渡御もとても美しく厳かですよ)

花火が終了した後に神霊を収めた神輿は還宮、おさめの神事が行われて二日間にわたる弁天祭りは終わりとなります。    (清水)
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by hagihaku | 2017-07-28 13:12 | くらしのやかたより
2017年7月23日、今日の萩博物館、今日の瑞風
7月23日(日)、今日も暑い萩市です。
最高気温は4日連続で34℃を超えています。
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その猛暑の中、今日も萩博物館は多くの来館者をお迎えしています。
券売機の前に列ができることから、結界が設けられました。
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展示室の中も賑わっています。
じっくりと解説を読んで下さる方が多く、未確認生物への関心の高さを感じます。
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今日は、瑞風の運転日でした。
今年の冬の企画展示は「萩の鉄道ことはじめ」がテーマですので、ちょいと記録に行ってみました。
三見駅から玉江駅方面に向かう上り列車です。
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下り勾配を駆け下り三見駅に進入する瑞風です。
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三見浦の漁港越しに、長門市・下関市方面へ向かう瑞風です。

港には心地よい風が吹いていました。
かつて山陰本線西部には、「まつかぜ」、「いそかぜ」という特急列車が運行されていました。
瑞風も良いですね~、良い風が吹いています。

鉄道展の準備を進めねばならないのですが、今は夏の特別展です。
「驚異の遭遇! 未確認生物」展、好評開催中!!
(ホントに好評で、もうすぐ来場者数が1万5千人に達します、ありがとうございま~~す!)
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by hagihaku | 2017-07-23 15:10 | くらしのやかたより
夏みかんの花の香りが漂う萩博物館、「高杉晋作の決意」展あと二日!
5月5日、日中は暑いほどの良い天気に恵まれました。
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先日、勝手に開花宣言をした萩博物館内の夏みかんの花ですが・・・咲いてます!
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咲いてますよ~~~!
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爽やかな花の香りが漂ってますよ~~~!
エエですよ、萩は!!
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GWも残すところ2日、
ということは、「高杉晋作の決意」展も、あと2日!

本日2回ののギャラリートークには、合わせて90名余!の方がご参加くださいました。
わざわざ、ギャラリートークを目当てにお出で下さいました皆様、ありがとうございました。
なお、最終日5月7日(日)はギャラリートーク、午前(10:30~)も行うことになりました。
「高杉晋作の決意」展、会期は残すところ2日、お見逃しなく!!
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by hagihaku | 2017-05-05 20:52 | くらしのやかたより
萩博物館発、夏みかんの花、勝手に開花宣言!
2017年4月29日(土)、萩地方は気持ちよく晴れています。
10時の気温は20℃、お出かけ日和です。
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萩博物館敷地内の夏みかんの若樹です。
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たわわに実っています。
うれしい光景です。
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今年は、桜の開花が少し遅く、入学式のころが満開でした。
夏みかんの花も遅いのかと思っていましたが、今朝見てみると、けっこう蕾が膨らんでいて・・・
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咲いていました!
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一輪、一輪、また一輪 ・・・早いですね、今年は。
例年だと、ゴールデンウィークの終わりころにポツポツ咲き始めるのですが・・・
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(ここでファンファ~レ)
夏みかんの花の開花を、勝手に宣言しま~~す!
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辺りに爽やかな花の香りが漂います。
早速ミツバチが飛来し、けっこうな羽音が聞こえています。
そして、白い花が好きな?ハナムグリも飛来し、花に潜って、います。
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ハナムグリが「イングリモングリ イングリモングリ」

萩は良い季節を迎えています。
萩博物館においては、特別展「高杉晋作の決意」展を大好評開催中です。
これを見逃すと今後半世紀は見ることができないかもしれない、あの!宮内庁からお借りした資料などを展示しています。
5月7日(日)までの開催です。
お見逃しなく。

花の香りにつつまれての夏みかんソフトクリームも、たまらんですよ。

(久方ぶりの清水)
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by hagihaku | 2017-04-29 11:36 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつ12 ~ 目線を変えると見えてくる江戸時代の萩の2 ~
2016年3月30日(水)、城下町萩では気温が20℃を超えました。
昨日より、南寄りの風が吹いていましたが・・・ツバメが帰ってきました。
昨年が3月24日でしたから、少し遅い春到来です。
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城下町萩を再発見するツアー(小旅行)は、毛利隠岐家(萩博物館)から3軒西隣まで歩みを進めていました。
さらに西に進みましょう。
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以前もご紹介しましたが、旧萩城三の丸(堀内地区)では、1970年頃まで、広大な武家屋敷地が夏みかん畑として利用されていました。
そして、屋敷地を区画する土塀や長屋、明治以降に敷地内部の石を寄せた石積み塀などが、夏みかんの風よけとして維持されました。
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土塀や長屋、石積み塀の、江戸時代に築かれた基礎石部分の石材に注目した分布図です。
ワークショップに参加した小学生の調査成果をもとにまとめたものです。
(実は、小学生の大発見物語りがあるのですが、それはあらためてまた・・)

夏みかん畑が維持されたからこそ、萩城三の丸全域で、江戸時代に築かれた基礎石が確認できます。
ちなみに、赤色で表現されているのが花崗岩の基礎石で、濃い青色で表現されているのが安山岩(笠山石)の基礎石です。
毛利隠岐家(博物館)が接する本町の通りの南側では、明治初年に畑が通り側に拡げられたため、基礎石が確認されていません。
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毛利主計・国司熊之助・毛利筑前・益田伊豆のそれぞれの屋敷地に接する四つ角です。
益田家の敷地東側の長い長い土塀です。
途中、出入り口は全く無く、敷地は後町の通りまであります。
敷地の奥行は約120m!
本町の通りに面しては白っぽい花崗岩の基礎石、屋敷側面には黒っぽい安山岩の基礎石が見えます。
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益田伊豆家の前、西側に目を転じ、そして目線を下げてみました。
益田家の表側です。
基礎石にご注目下さい。
何か見えてきませんか?
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萩博物館敷地南側、本町の通りに面した長屋門です。
江戸時代には、益田家にも、同様の長屋門が存在しました。
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基礎石が認めらず、石材が不規則につまれている部分は、かつての長屋門の出入り口と考えられます。
現在も敷地の出入り口として門が設けられていますが、江戸時代には、もっと大きな開口部が存在したことが見えてきます。
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いかがでしょうか?
目線を変えてみると、萩城三の丸における重臣の屋敷の様子が見えてきませんでしょうか?
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西へ歩みを進めます。
益田伊豆家と毛利出雲家の屋敷の境あたりです。
いかがでしょうか?
もう、お分かりですね。
赤土の土塀と石積み塀が接している所が敷地の境ではありません。
そうです、基礎石の高さが変わっている所が敷地の境なのです。
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毛利出雲家の前です。
現在は、新たに宿泊施設や宅地へ出入りする道が設けられてはいますが、ここでも、目線を変えると広い広い江戸時代に存在した長屋門の開口部が見えてきます。
ぜひ、実際に城下町絵図を手に歩き、発見してみて下さい。
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次は、四つ角から2軒目の毛利出雲家と3軒目の福原近江家との境を確認します。
夏みかん畑の分布図では畑の中に敷地境を確認できますが、2軒目の毛利伊豆家は随分と広かったようです。
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ヒントは、福原家の基礎石が、濃い青色で表現された安山岩ということ。
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写真では分かりづらいかもしれませんが、基礎石の石材の違いにご注目下さい。
少し高い所から見ると、敷地の奥の方へ、敷地を区画する崩れかけた土塀が続いるのを確認できます。
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指定文化財になっている福原家の門です。
毛利隠岐家の6軒西隣?! です。
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東方、毛利隠岐家(萩博物館)の方を振り返った写真です。
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福原家・毛利家・益田家と本町の通りを隔てて対面する萩高等学校です。
宍戸孫四郎家と毛利筑前家の2軒の敷地が、現在、高等学校の敷地となっています。
毛利藩の重臣たちの屋敷が、いかに広大であったかを実感できます。
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長々と失礼しました。
おつきあいありがとうございます。

ギャラリートークの後に催行している萩再発見ツアーの一部を歩きました。
夏みかん畑が維持され、結果として武家屋敷の敷地割が良く伝えられたからこその発見があります。

城下町萩のひみつ展の会期は、4月7日(木)までです。
ギャラリートーク・萩再発見ツアーは、4月2日(土)14;00からです。
よろしければお運び下さい。

 ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=16p7hlqCDVY

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-30 20:23 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの11 ~ 目線を変えると見えてくる江戸時代の萩 ~
2016年3月28日(月)、今日もツバメの飛来は確認できませんでした。
(午後、館外に出ていませんので何ともいえませんが・・・)
花冷えの影響でしょうか。
昨年は3月24日の飛来でしたので、ツバメたちは少しノンビリと北上しているようです。
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さて、城下町萩のひみつの11、今回は目線を変えることで、江戸時代の萩城三の丸の様子が見えてくることをご紹介しましょう。
城下町絵図の左上部分(北西部分、外堀の内側の旧萩城三の丸)をご注目下さい。
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昭和27年、1952年の夏みかん畑の分布を示した図です。
以前、武家屋敷地が夏みかん畑として利用され、それが永く維持されたことで、結果として』武家屋敷の敷地割が今に伝えられたことをご紹介しました。
夏みかん色?!で囲んでいるのが、現在、萩博物館の敷地となっている場所で、当時は市民病院でした。
指月中学校と萩高等学校と病院を除き、ほとんどが夏みかん畑です。
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このエリア、城下町絵図を手に歩くと、そこかしこで楽しい発見があります。
ということで、博物館(毛利隠岐家)南の「本町」の通りを西へ、6軒隣!! の福原近江家まで歩いてみましょう。
本町の通りは、萩城三の丸のメインストリートでした。
実はこの本町の通り、明治初年に、道幅が江戸時代の半分になっているのです。
理由は、畑(当初は桑畑、後には夏みかん畑)を拡げるためでした。
本町の通りを取り込む形で畑(敷地)が拡大されたのは、通りの南側でした。
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かつての道路幅が良く分かる場所があります。
熊谷吉拾郎家と柳沢備後家の間の通り、平安古の総門に続く三年橋(三年坂)筋です。
左が熊谷家、右が柳沢家です。
ちなみに、柳沢備後家と国司熊之助家の2軒の敷地が、現在、萩西中学校になっています。
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その三年橋筋の東側、熊谷家の敷地西側を、目線を下げて見てみましょう。
何か見えてきませんか?
今は宅地になっていますが、この辺りも永く夏みかん畑として維持されてきました。
萩城三の丸においては特に、敷地を区画する土塀や長屋が、夏みかんの風よけとして保たれました。
土塀や長屋が無くなった場所には、土塀や長屋の基礎石の上に、敷地内部の石を集めて石積み塀が築かれました。
ここは、江戸時代に築かれた基礎石と、明治以降に築かれた石積み塀が見られる場所です。
そうです、石積み塀の下部に見えるのが江戸時代の基礎石なのです。
整然と積まれた基礎石の端(手前側)は、江戸時代の熊谷家敷地の境を示します。
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いかがでしょうか?
乱雑に積まれた石積み塀は、明治以降、畑が拡大された際に築かれたものです。
本町の道路幅が倍であったことを確認することができます。
目線を変えると、江戸時代の萩城三の丸の様子が見えてきませんか?
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歩みを西に進めましょう。
熊谷家・国司家と山内家の前辺りから、西側の毛利主計家の方を眺めます。
見えてきたのは、毛利主計家(毛利一門、阿川毛利家)の大きな花崗岩を積んだ基礎石です。
櫓(矢倉)のような建物があったのでしょうか。
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矢(クサビ)を使って石を割った矢穴の跡が残る基礎石です。
花崗岩は、萩城本丸背後の指月山の北側で採石されました。
先にご紹介した熊谷家敷地西側の黒っぽい基礎石は、城下北東郊の笠山で産する安山岩(笠山石)です。
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毛利主計家前で、東方、毛利隠岐家(萩博物館)の方を振り返って撮影したものです。
萩城三の丸における花崗岩を用いた基礎石で、最も緻密に積まれたものです。
記録によると、毛利主計家には、二階建ての長屋門が存在したようです。

・・・とここまで屋敷3軒、つづきは次回ということで。
実はこれ、ギャラリートーク後に催行している「萩再発見ツアー」のルートの一部です。
次回のギャラリートークは4月2日(土)の14:00から、萩再発見ツアーは15:00ころからです。

「城下町萩のひみつ」展CMロングバージョン
  ↓ ↓

https://www.youtube.com/watch?v=16p7hlqCDVY&feature=player_detailpage

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-28 20:15 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつ の10 ~ 南明寺のイトザクラと同行札 ~
2016年3月17日(木)、萩は良い天気となりました。
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城下南郊に南明寺(なんみょうじ)という天台宗の寺院があります。
江戸時代より城下の人々が開花を心待ちにしたイトザクラがあることで知られています。
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本日の南明寺境内のイトザクラです。
他の桜に比べて開花が早いことから、
「南明寺の糸桜、散っちゃあ 行っちゃあ 見ぃちゃあ あっても、咲いちゃあ 行っちゃあ 見ぃちゃあ ない」
(方言で、散ってから行って見る人はあるが、咲いているのを行って見る人はいない、の意)
と歌われたとされます。
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今年は少し開花が遅いようですが、今日の陽気で、一気に花が開くかもしれません。
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江戸時代に編まれた『八江萩名所図画』の中の「南明寺花見の図」です。
城下の人々が花見を楽しむ様子が木版画で表現されています。
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イトザクラのある境内を抜けて、山道を登ったところに南明寺観音堂があります。
城下の人たちが、江戸時代の早い時期(遅くとも元禄期)から、「七観音詣で」で参詣した城下の七か所の観音寺院・庵堂の一つです。
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観音堂部分を拡大したものですが、屋根の内側、壁面をご注目いただけますでしょうか。
何か野球のホームベース状のものが表現してあります。
下の写真は、やはり「七観音」の一つである市内後小畑の福聚院です。
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多数の札を認めることができます。
この札を、便宜的に「同行札」(どうぎょうふだ)と呼んでいます。
かつて城下やその周辺の地域では、町内や集落の年齢の近い若い人たちが、同行と呼ばれる講のような組織を組んで、近畿地方の西国三十三観音霊場を巡っていました。
その霊場巡りから帰った人たちが、無事の帰還を感謝して、観音様を祀る堂庵に奉納したのがこの「同行札」です。
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天保11年(1840)の年号が記された同行札です。
城下の港町である浜崎町の同行が奉納したものです。
同行による西国観音霊場巡りは、成年となるための通過儀礼のような要素を持っていました。
交通の発達していない時分に、50日以上をかけて巡礼した話を伺ったことがあります。
苦楽を共にした人たちの間には、終生続く固い絆が生まれたとされます。
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今回の企画展「城下町萩のひみつ」においては、その「同行札」を展示しています。
同行による西国観音霊場巡りは、全国的には、江戸時代中ごろに始まり定着したとされます。
城下町萩では、その初期である宝暦年間(1750年頃)より巡礼に赴いていたことが、伝えられた「同行札」から確認できます。
確認できた最も新しい札は昭和36年(1961)のもので、伝承によれば、昭和40年頃までは同行による巡礼は続いたとされます。
同行の絆は、今でも地域のなりわいや行事など様々な側面で発揮されているそうです。

江戸時代起源の歴史文化が、城下町萩には息づいています。
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博物館「前」駐車場の片隅のアンズの花です。
昨年、ツバメの飛来を確認したのは3月24日のことでした。
もうすぐそこまで春が来ています。

萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展は、4月7日(木)までです。
お運びお待ちしております。
     ↓↓
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=16p7hlqCDVY>

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-03-17 15:18 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの9 ~誇りによって守られた「まち」~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形づくられた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します。

今回のブログでは、城下町に住まいしてきた人たちの「誇り」が、この「まち」を守ったということについてご紹介します。

その前に、萩博物館企画展へ皆さんを誘うイメージ映像を制作しましたので、よろしければご覧ください。
  ↓ ↓ 
企画展 城下町萩のひみつ

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1924年、大正13年に、萩反射炉が国の指定文化財となります。
その指定直前か直後のの撮影と考えられる反射炉の古写真です。
その前々年、1922年、大正11年に松下村塾・吉田松陰旧宅が国指定史跡に指定されます。

明治維新後50年余を経た1920年ころより、萩の「まち」においては、歴史上の出来事やそれに関わった人物が再認識されるようになります。
そして、人物の旧宅や城下町起源の史跡などが文化財として指定され、保全が図られるようになります。
それは、自らにとって誇りとすべきものを再発見し、その価値を共有し、そして継承していというく活動でもありました。
早い時期からのこの取組みがあったからこそ、豊かな城下町の歴史文化が今に息づくこととなります。
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鉄道(後の山陰本線)は、反射炉のすぐ傍に敷設されました。
1929年、昭和4年には東萩駅-奈古駅間が開通しましたが、その直後頃の撮影と考えられる写真です。

1929年には、明倫館水練池・明倫館碑・有備館がともに国指定の史跡に指定されます。
1932年、昭和7年には、木戸孝允旧宅・伊藤博文旧宅が、国指定の史跡に指定されます。
この年、萩町が市制を施行して萩市となりました。

「長州新聞」1930年(昭和5)7月1日号には、市制施行を訴える林町長の意見が掲載されています。
その中で、林町長は、市制施行に向けて萩町民の賛同を得るために、
(1)史跡名勝に富むことを活かした遊覧の都市建設、
(2)交通網整備にあわせて天然資源を活かした加工工業の都市建設、
(3)人材を輩出した歴史環境を活かした教育地としての都市建設 を訴えています。

「観光立市」への意識が示されていて興味を覚えます。
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市制施行3周年記念の萩史蹟産業大博覧会開催を報せる絵葉書です。

1935年、昭和10年4月、萩市土原グラウンド(現在の萩東中学校地)において、萩実業会主催の萩史蹟産業大博覧会が開催されました。
この博覧会は、萩の史跡を紹介し、それらを保全活用しつつ萩市経済を活性化させることを目的としていました。
会場には、日産コンツェルンの日産館をはじめ、産業本館・史蹟観光館・朝鮮館などのパビリオンが設置され、入場者の関心をひきました。
また、博覧会に併せて、明倫小学校では防長勤王資料館が開催されるなど、種々の行事で市内は賑わいました。

城下町に住む人たちにとっての誇り=歴史的な資源が大いに注目を集めました。

長くなるため割愛しますが、明治維新後50年頃から100年頃までの間の文化財指定や保存にかかわる出来事を通覧すると、実に多くの「誇りを継承する活動」が行われていたことが見えてきます。
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1970年、昭和45年に始まった国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンのポスターです。
紹介されているのは萩の古いお寺(観音院)の苔むした瓦です。
「古き良き時代の名残り」というコピーが添えられています。
「なつかしい日本のふるさと」として注目を集めた萩には、歴史や伝統的な文化に触れることを求める多くの人が訪れました。

明治維新後50年を前にした1916年、大正5年に、阿武郡教育会に史蹟保存会が設立されます。
以降、様々なタイミングで史跡などの歴史的資源を保存する活動が展開されます。
明治維新100年(1968年)を前にした1965年、昭和40年には、城下町萩の歴史文化の掘り起しや「史都萩」の継承を目的に、「史都萩を愛する会」が発足します。
1967年、昭和42年には会報は創刊されますが、その創刊号に興味深い巻頭言が寄せられています。
以下、長くなりますが、その一部をご紹介します。

「あいさつ」(抄録)  林良雄 (史都萩を愛する会 会長)

(前略)

 萩市の歴史的遺産は、殆んど全く萩市民が意識的に保存に努めて残したものではなく、自然に残ったものであります。そして、明治維新百年を迎えた今日は、あたかも江戸時代の建築の建て替え期にあたるものも多く、また一方、生活近代化への欲求も強く、建替え、改築、改造が盛んに行われ一つの危機を迎えております。
 すなわち、自然的保存はその限界に達し、今日以後、史都の姿を保存しようとすれば自然的保存から、人為的意識的保存に切り換えなければその目的を達することができないようになったのではないかと考えられます。そしてこれは困難な仕事ですが、しかし不可能ではありますまい。
 史都萩のたたずまいは、往昔の萩城下住人が造り残してくれた遺産ではありますが、これを家庭に例えれば、祖先の残した家宝に相当するものでもあります。その家宝に相当するものの模様変えや処分が、これまであまりに軽々しく行われた感じがありますし、現在もなお行われているといえましょう。しかも、この家宝に相当する史都のたたずまいは、今や貴重な観光資源として脚光を浴びてまいりました。

(中略)

 史都の保存が危機にあい、転換期にさしかかっても、これを守るための方法の要は唯一つ、全市民の総意総力を一つに併せることであると信じます。
 私は、本会の発足にあたり、会員皆様と共に、今日の郷土萩の姿を美しく、良く守るとともに、五百年千年後の子孫が喜んでくれるような、史都萩の姿を残すために、本会の会員がますます増加し、その活動が発展するよう祈ってやまないと同時に、市内外の史都萩を愛する多数各位のご声援、ご鞭撻を心からお願いいたします。


いかがでしょうか。

「城下町に住む人たちが、当たり前のこととして継承してきた自らの「誇り」が、これからは、意識しないと保たれない」といった危機感が示されています。
今から50年前の指摘です。
自らの誇りを大切にするこの意識があったからこそ、城下町の豊かな歴史文化が、今に息づいているのではないでしょうか。

ご参考までに、この後の行政における歴史的な資源・遺産の保存・活用の取り組みを列挙します。
 1972年、昭和47年に、「萩市歴史的景観保存条例」制定
 1976年、昭和51年に、「萩市伝統的建造物群保存地区保存条例」制定
  ※ この間、市内7地区が歴史的景観保存地区に指定され、萩市堀内地区、平安古地区、浜崎地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される
 2004年、平成16年、「萩まちじゅう博物館条例」施行
 2007年、平成19年、「萩市景観条例」制定、「萩市景観計画」策定
 2008年、平成20年、「歴史まちづくり法」公布・施行にともない「屋外広告物に関する条例」制定
 2009年、平成21年、「萩市歴史風致維持向上計画」が国により認定
 2012年、平成24年、「萩市花と緑のまちづくり条例」施行

長くなり恐縮です。
「誇りの継承」は今も続いています。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-03-08 13:26 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの8 ~ ダムの恩恵 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されていないことを意味します。

「まち」が大きく改変されなかった理由=ひみつの一つとして、萩三角州を形成する阿武川の上流に建設整備されたダムの恩恵に触れます。
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このブログで何度かご紹介した萩三角州内の微妙な高低差を示す等高線図です。
三角州中央辺りから北東部辺りにかけて、標高が2mに満たないような低地が広がっています。
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1960年、昭和35年頃に撮影された萩三角州中央あたりの航空写真です。
水田やハス田などの広い農地が目をひきます。
この農地が、江戸時代から、大雨の出水を調整する遊水池として機能してきたことは以前にも触れました。
1960年頃にこれが維持されているということは、依然として、洪水の憂いがあったということを示しています。
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1972年、昭和47年の大雨に折に、三角州中央あたり、江向雑賀下がり筋で撮影された出水状況です。
写真左側が藩校明倫館の敷地です。
この辺りから新堀川にかけては、しばしば水に浸かっていたとされます。
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同じ年の撮影で、場所は三角州中央からやや北東の土原(ひじわら)です。
遠くに電電公社の鉄塔を認めることができます。
この辺りは、今でも時々出水が道路にあふれることがあります。
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これも同じ年の撮影で、場所は三角州の外、椿地区の雑式町(ぞうしきちょう)です。
胸まで浸かるような出水の中、消防団員が、綱を伝って孤立した住宅に移動するところが撮影されています。
椿地区でも毎年のように出水に見舞われていたということです。
そのような状況を大きく変えたのが、1975年、(昭和50年)に完成した阿武川ダムの整備でした。
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ダム建設のため、旧川上村、旧福栄村では、204戸、207世帯の方々が離村を余儀なくされました。
しかしそのお蔭により、下流域では洪水の憂いが少なくなり、安心安全がもたらされました。
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1972年、昭和47年に城下町東郊の田床山から撮影された萩三角州の俯瞰写真です。
三角州の中央辺りに農地が広がっているのを確認することができます。
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2015年撮影の三角州中央辺りの俯瞰写真です。
洪水の憂いが少なくなった低地が、商業施設やその広大な駐車場、アパートなどの住宅、バイパス道路の用地として利用されていきました。
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1972年撮影の萩三角州東外、椿東無田ヶ原地区の俯瞰写真です。
「無田」の地名が示すように、水田が広がっています。
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2015年撮影の俯瞰写真です。
ここでも低地が、商業施設や住宅、バイパス道路や工場の用地として利用されました。

いかがでしょうか。
ダムが整備されたことにより、城下町の低地においては、随分と洪水の憂いが少なくなりました。
そして低地は、商業施設や住宅、道路の用地として利用が進むこととなりました。
それは、「まち」を壊して新しいものを作り上げるという開発ではありませんでした。

そうです。
ダムの恩恵により、結果として、江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかったのです。

城下町のひみつに迫る萩博物館企画展 「城下町萩のひみつ」 展、好評(?)開催中!

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-26 20:00 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの7 ~ 大きな災いを被らなかった「まち」 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形作られた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します。

「まち」が大きく改変されなかった理由=ひみつの一つに、大きな災害を被らなかったことを挙げることができます。
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上からそれぞれ、1945年、昭和20年4月13日撮影、7月5日撮影、8月7日撮影の萩三角州の航空写真です。
上空30000フィート以上の高空から撮影された大変高精細な写真で、いずれも、戦時中に米軍が撮影したものです。

※ 元徳山工業高等専門学校教授の工藤洋三先生のお手を煩わせ、米国公文書館から取り寄せることができました。
※ 以下にご紹介する米軍の機密資料も、工藤先生のお計らいで入手することができたものです。
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機密扱いの米軍資料4枚の内の2枚で、日本の中小都市を攻撃する計画書です。

太平洋戦争末期、日本の主要都市や軍事拠点をほぼ破壊し終えた米軍は、続いて日本の中小都市の爆撃を計画します。
戦争の継続を、より困難にさせるという目的です。
その際、人口を基準に180の都市が目標としてリストアップされます。
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実は、その攻撃目標180都市のリストの157番目に、「Hagi」が掲載されています。
そうです、萩は攻撃目標の一つだったのです。
それ故に、先にご紹介した偵察写真が撮影されているのです。

しかし幸いなことに、萩の「まち」は、敗戦により爆撃を免れました。
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リストアップされた180の都市の一覧と被災の状況を図にまとめてみました。
赤色で表現された都市名と地図上の点とは、爆撃を受けた都市です。
およそ3分の2の都市が被災しています。
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もし仮に戦争が長引いていたら、萩の「まち」も、日本の多くの都市が被ったような戦災により破壊される可能性が有った!ということです。

萩の「まち」は、しばしば水害に見舞われはしましたが、治水・排水の工夫を重ねて上手に水と共生をはかり、甚大な災害を免れてきました。
「まち」を焼き尽くすような大火災にもみまわれませんでした。
震災にみまわれることもありませんでした。
そして戦災を免れることもできました。

いかがでしょうか。
大きな「災い」を被らなかったことにより、萩の「まち」」は破壊や改変を免れ、その結果として、今でも江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができるのです。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-17 18:15 | くらしのやかたより