カテゴリ:くらしのやかたより( 239 )
城下町萩のひみつの6 ~ 三角州を迂回して敷設された鉄道 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を現在も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形づくられた「まち」が大きく改変あされていないことを意味します。

大きな改変をもたらさなかった要因=ひみつの一つに、近代化の象徴である鉄道の萩三角州迂回敷設を挙げることができます。
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1925年、大正14年4月3日、萩駅が開業した際に発行された観光案内!鳥瞰パノラマ図「萩を中心とせる付近名所図絵」です。
萩沖の上空から、独特の構図で、萩三角州や阿武川上流の長門峡が描かれています。
鉄路は赤い実線で表現されており、三角州の川外、西側(右側、長門市方面)から、玉江駅、萩駅、東萩駅を認めることができます。
鉄道開業当時は美祢線で、鉄路は正明市駅(現長門市駅)から延伸されました。
東萩駅の先は破線となっており、これから鉄道が整備されることが分かります。
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開業間もない昭和初年頃の玉江駅舎です。
玉江駅は、1923年、大正12年に合併して萩町となった旧山田村に設けられました。
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建築途中の萩駅舎です。
I 材木店によると、用材は主に旧川上村より集められたとのことです。
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竣工間近の萩駅舎です。
開業当時は美祢線の終着駅で、機関車駐泊所や転車台なども設けられました。
また駅舎内には、賓客の利用を想定して、二等待合室も設けられました。
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開業間もない昭和初年頃の萩駅舎です。
この駅舎は現存しており、旧明倫小学校の本館とともに、山口県で最初に国の有形登録文化財に登録(第2号)されました。
萩駅は、合併して萩町となった旧椿村に設けられました。
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三角州突端の上流に架橋された阿武川鉄橋です。
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開業間もない昭和初年頃の東萩駅舎です。
萩駅と東萩駅の間の開業は、1925年、大正14年11月1日のことです。
東萩駅は、合併して萩町となった旧椿東村に設けられました。

そうです、鉄道の駅は、三角州川外の、それぞれ旧山田村、旧椿村、旧椿東村に設けられたのです。
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萩三角州の微妙な高低差を色分けして表現した鳥瞰図です。
赤色で表現されているのが、明治維新以降に建設整備された施設や道路です。
三角州内の低湿な場所に、それらが設けられていることが確認できます。

青色の実線で表現されているのが鉄道です。
三角州を迂回する形で敷設されていることが確認できます。

もし仮に、鉄道が三角州の中に敷設され、大きな中心駅が整備されていたらどうなったでしょうか?
江戸時代に形づくられた「まち」は分断され、駅の裏表の開発が進んで「まち」の構成も変わっていたと考えられます。
鉄道が三角州を迂回して敷設されたことによって、結果として江戸時代の城下町絵図を地図として使える「まち」が維持されたのです。

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1960年、昭和35年ころの航空写真です。
萩三角州南西部上空から東方、三角州中央辺りを撮影したものです。
広い農地を確認することができます。
ここに鉄道が敷設されていたら、城下町萩はどのような「まち」になっていたでしょうか。

地方新聞の記事によると、1923年、大正12年8月9日、椿町金谷神社境内で、大津郡正明市(現長門市)と萩間の鉄道起工式が行われています。
この際、萩の駅設置場所について「萩町内に一ヶ所、もし郊外を通過する場合は、山田・萩・椿東の三村に必ず三ヶ所を設置せらたきこと」と要望したとされます。

また、萩市の実業家・政治家である厚東常吉の伝記『雷鳴』には、萩町と周辺三村の町村合併が議論される過程で、当初一つ駅の案だったものが、合併促進の方策として三駅設置案が有力となったと記されています。

村会の議事録などでの確認はできませんでしたが、町村合併を進めるために各村に駅を設けたという伝承は、かつて実際に耳にしたことがあります。
近代化の象徴である鉄道の敷設が、結果として、今に息づく城下町萩を大きな改変から守ったともいえます。

以上、城下町萩のひみつの6でした。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-10 18:03 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの5 ~ 節分と迷宮 ~
2016年2月3日、本日は全国的に節分です。
節分は、書いて字のごとく季節を分かつ日で、翌日が春の始まりである立春です。
この日の夜のことを、萩地方ではトシノヨ(歳の夜)と呼びます。
暦の上での大晦日もトシノヨと呼ぶように、節分・立春が年の変わり目という意識が認められます。
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先だって寒波が襲来した日の城下町の一角です。
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直交する街路は城下町の特徴の一つです。
四つ角で、左に曲がっても、前に進んでも、右に折れても、そこには違った「まち」が存在します。
その意味で、城下町の四つ角は、異なった世界・迷宮への入口と言えるのかもしれません。
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節分の翌朝、つまり立春の日の朝の、城下町の四つ角です。
交差する街路の真ん中に、紙に包んだ豆が置いてあるのをご覧いただけますでしょうか。
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城下町萩においては、興味深い節分行事が伝わっています。
節分の日の夜に行われる厄落としです。
この日の夜、厄年の人が、年齢の数だけ節分の豆を紙に包んで近くの四つ角に出向き、背中越しに落としてから、後ろを振り返らずに帰ってくるというものです。
四つ角(=異界・あちらがわの世界への入口?)で儀礼的に生まれ変わって厄を落とす民俗と解釈できます。
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江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができる「まち」・萩。
城下町の歴史文化が息づいています。

萩博物館企画展「城下町萩のひみつ ~迷宮へのいざない~」展、好評!(かどうかは微妙なところですが)開催中です。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-02-03 18:50 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの4 ~ 夏みかんが守った城下町 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができます。
江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかった理由の一つに、明治時代に始まった夏みかんの経済栽培があります。
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1952年、昭和27年の夏みかん畑の分布図です。
萩三角州とその周辺に、かなりの面積の夏みかん畑を認めることができます。
この分布図と以下とを見比べてみて下さい。
何か見えてくることがありませんでしょうか?
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上の写真は、1945年、昭和20年7月5日に米軍によって撮影された萩三角州の航空写真です。
上の分布図で夏みかん畑となっている場所に、夏みかんの葉が黒く写っています。
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江戸時代終わりころの城下町絵図です。
いかがでしょうか?
絵図で白く表現された場所の多くが、夏みかん畑になっていることが見えてきませんでしょうか。
この白く表現されているのは、武家屋敷地や藩の施設です。

1876年、明治9年に、禄を失った武士の救済のために夏みかんの果樹としての経済栽培が始まります。
その際に、畑として利用されたのが広い武家屋敷地でした。
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栽培が始まって10年を経過した頃より、夏みかんは市場に出回り始めます。
当初は、夏みかん5個と米1升が等価というような高値で取引をされたそうです。
そして明治30~40年代には、当時の萩町の年間予算の8倍もの生産額を誇ったこともあるそうです。
江向のKさんによれば、夏みかんの樹が3本あれば子供を上の学校に進学させることができたそうです。
夏みかんは萩の「まち」と人とを支えました。

〈参考〉
 5個7銭の夏みかんが守った城下町

 『大日本農会報』 133号によると、明治20年(1887)の夏みかんの値は1000個14円(1個1銭4厘)。
 「東京深川正米相場」によると、明治16~20年(1883~1887)の米価が1石5円71~94銭(1升5銭7厘~9厘)、明治21~25年(1888~1892)の米価が1石6円66~82銭(1升6銭6厘~8厘)。
 夏みかん5個(約7銭) ≒ 米 1升(5銭~7銭)
 
 年によって変動はあるが、当初、夏みかん5個程度が、米1升と同じ値という高値で取引されたことによ り、夏みかん畑になった武家屋敷地が永く維持された。



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国鉄のディスカバージャパンキャンペーンのポスターです。
城下町の土塀からこぼれる夏みかんが紹介されています。
「ひかりは西へ」、「新幹線岡山開業」とありますので、夏みかん経済栽培開始から96年後の1972年のポスターです。

夏みかんの栽培は永く続き、武家屋敷地が、屋敷を区画する土塀や長屋などとともに畑として維持されました。
夏みかんは、結果として、江戸時代に形作られた「まち」を大きな改変から守ったのです。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-01-30 15:59 | くらしのやかたより
寒波の中、萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展開催中、のつづき
2016年1月26日、寒さは少し和らぎました。
以下、リクエストにより、(あまり企画展とは関係ないのですが・・)寒波の日の萩博物館と周辺の画像をご紹介します。
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博物館(毛利隠岐)敷地北側のの通用門を出て、「後町」の通りを西へ。
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風を背に南を向いて、問田益田家(益田伊豆)の屋敷地東面の長い長い土塀です。
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「浜町」の通りを歩くべく、歩みを北へ。
しかし風が冷たく強いため、南を向いて(ホントに冷たかった)。
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本日、閉門!
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「浜町」の通りの西方、萩城二の丸・本丸方です。
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「浜町」の通りの東方です。
波の騒ぐ音、菊ガ浜の松を渡ってゆく風の音の中、歩みを東へ。
(ホントは、寒くて風に向かって歩くことができなかったのです・・・)
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大木屋前から東方、周布家長屋門です。
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繁沢家長屋門(繁沢石見)前から東方、益田家物見櫓(益田弾正)方です。
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吹き募る風と雪の中の益田家物見櫓(益田弾正)です。
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外堀沿いの土塁の際まで行って引き返しました。
吹雪を楽しんでいる近所の小学生に出会いました。
「浜町」の通りが雪でかすんでいます。
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益田家物見櫓の前から西方、繁沢家長屋門方です。
この通りは日頃でも趣があるのですが、雪の日もなかなか良い! と、思われませんか。
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明けて1月25日、少しだけ寒波は和らぎましたが、依然として寒さは続き、ツララが成長?していました。
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ツララを記録するM専門員です(それを記録した学芸員某です)。
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博物館の建物は、かつての大規模な武家屋敷にならってデザインされているため、雨どいが設けられていません。
ということで、見事なツララの出現となりました。
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中庭で見ることができたツララの最長のものは、軒瓦から125cmありました。
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滴が凍っていました。
鍾乳洞の石筍を思い出しました。

以上、長くなり申し訳ありません、寒波の中の博物館周辺と博物館でした。     (清水)
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by hagihaku | 2016-01-26 18:44 | くらしのやかたより
寒波の中、「城下町萩のひみつ」展開催中です
2016年1月24日、寒波襲来。
その中、萩博物館は開館。
企画展「城下町萩のひみつ」展も開催していまあす。
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午前8時の萩市の気温は-3℃。
雪が舞う中を出勤。
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轍が直交しています。
城下町らしい?雪の景色です。
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久しぶりにツララを見ました。
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雪が積もっていますが・・・開門!
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江戸屋横町を上がり(!)ます。
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木戸孝允(桂小五郎)旧宅辺りから振り返って見た江戸屋横町です。
新堀川の方へ下っています。
三角州内排水のための溝川や三角州低湿地との高低差が、城下町絵図を地図として使える「まち」を今に伝えました。
(乞う参照、萩博ブログ)
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呉服町のいわゆる御成り道を、堀内(萩城三の丸)の博物館へ。
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外堀沿いの交差点まで来た所で、吹雪!
こんな日に、博物館を訪ねて下さる方があるだろうかと心配しつつ博物館へ。
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博物館の正門前、本町の通りです。
堀内らしい、なかなか趣のある雪景色です。
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長屋門から博物館へのアプローチです。
かつての武家屋敷の構成にならって建てられた博物館です。
博物館そのものが、まちじゅう博物館の展示資料です。
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企画展「城下町萩のひみつ」展、好評(?!)開催中です。
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博物館の中庭です。
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雪の、竹の、庭です。
なかな良いですよ。
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50cm以上の長さのツララです。
湿雪が降ったからでしょうか。
開館11年、このようなツララは初めて見ました。
(ということで、記録)
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敷地内の夏みかんの樹も雪を被っています。
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低温が続くと落果したり味に影響が出たりするそうです。
少し心配です。

以上、雪の中、企画展「城下町萩のひみつ」展開催中の萩博物館でした。

長々と失礼致しました。     (清水)
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by hagihaku | 2016-01-24 10:55 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの3 ~ 江戸時代末の三角州低湿地大開発 ~
城下町萩においては、江戸時代の城下町絵図を今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形成された「まち」が大きく改変されなかったことを意味します。
「まち」が大きく改変されなかった理由の一つとして、前回のブログにおいて、明治以降に三角州低湿地が近代化施設の用地とされたことをご紹介しました。
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実は、江戸時代の終わりころにも、三角州低湿地の「大開発」が行われています。
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それは、藩校明倫館(新明倫館)の整備です。
藩校明倫館は、1719年(享保4)に、萩城三の丸に開校します。
これが、文武を奨励するという藩の方針により、幕末の1849年(嘉永2)に、三角州中央の標高の低い農地を造成して拡充再建されます。
新明倫館の敷地の一辺は200mを超えます。、
大変規模の大きな開発でした。
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三角州の中央辺りから北東部にかけて、標高2.0mに満たない低地が広がっていることは以前ご紹介しました。
それらの一帯は、水田やハス田として利用され、大雨の際に出水を調整する遊水池としての役割も果たしてきました。
三角州の中央辺りは、江戸時代の初めころの城下町絵図では、腰のあたりまで埋まってしまう「深田」があったような場所です。
低湿地とも呼べるこれらの場所では、土地や道路の整備に「ある工夫」が必要でした。

今から12年前の2004年(平成16)、江戸時代のその「ある工夫」の跡を、藩校明倫館敷地のすぐ傍で見ることができました。
(上の絵図や写真において円で囲んだ辺りです)

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藩校明倫館(明倫小学校)の敷地に接した側溝と道路の改修工事の写真です。
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パワーショベルで土を掘り下げていくこと約1m、江戸時代の「ある工夫」が現れました。
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地表から深さ1m、圧縮された状態で厚さ約30cm、ビッシリと敷つめられたシダ(羊歯)の層を確認できました。
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敷き詰められたシダは、軟弱な湿地を造成する際に、埋め立てる土が沈下するのを防ぐためのものでした。
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新らしい明倫館を整備する際にも、この工法が採用されました。
三角州周辺より羊歯の類を刈り集めて敷き、その上に菊ガ浜などから土砂を運んで土地を造成したのだそうです。
広大な面積の藩校です。
圧縮されて30㎝の厚さに敷き詰めるとなると、相当な量のシダが必要だったと想像されます。

今でも、藩校明倫館の敷地の地下には、この江戸時代の大造成工事の名残のシダが、地下1.0~1.3m辺りに眠って(埋まって)います。
萩博物館には、以前、藩校敷地内を掘削する工事が行われた際に出土し、資料化したシダ類が保管されています。
(萩市郷土博物館時代に資料化されたものですが、先輩方は良い仕事をしておられます。
 その資料の存在をを知っていたので、2004年の側溝・道路工事の際に、待ち構えて写真を撮ることができたのです、実は・・・)

明倫館敷地から出土したシダ類は、低湿地のを開発を示す資料として、今回の企画展において展示しています。
ぜひ、企画展示室でご覧ください。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2016-01-22 18:00 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの2 ~ 三角州低湿地の開発 ~
城下町萩においては、江戸時代の城下町絵図を今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形成された「まち」が大きく改変されなかったことを意味します。
それでは何故、「まち」が大きく改変されなかったのでしょうか。
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萩三角州の微妙な高低差を表現した等高線図です。
三角州中央から北東部にかけて、標高が2mに満たないような低地が広がっています。
この一帯は、水田やハス田として利用されてきましたが、大雨の際に出水を調整する遊水池としての役割を持っていました。
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三角州を南方の上空から見下ろした鳥瞰イメージ図です。
赤色で表現されているのは、明治以降に整備された施設や道路などです。
三角州の外に青色で表現されているのは鉄道です。

いかがでしょうか?
緑色で表現された三角州内の標高の低い一帯に、施設や道路が整備されてきたことが見えてきませんでしょうか?

実は、城下町萩においては、水田やハス田を近代化施設の用地としたことで、江戸時代に形作られた「まち」を大きく改変することなく近代化を進めることができたのです。
江戸時代の城下町絵図を地図として使うことができる「ひみつ」の一つが、ここにあります。
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藩校明倫館の敷地に整備された明倫小学校です。
三角州の北側上空から南方、三角州中央辺りを撮影したものです。
昭和10年(1935)に改築される前の撮影で、校舎が敷地の西側(画像右側)にあります。
周囲には、江戸時代と変わらぬ水田やハス田が広がっています。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地の南側道路の整備の様子です。
米屋町下がり筋(明倫小学校西側に接する街路)から御許町筋(旧萩往還)までの改修が竣工するのは、大正15年(1926)のいことです。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地・米屋町下がり筋を南西方より撮影した写真です。
敷地南側の整備されつつある道路が、西側(手前側)の水田・ハス田の方にに延長されつつあります。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地南側の道路は、昭和2年(1927)に玉江橋まで延伸整備されます。
その道路から、敷地の南西隅から南側を撮影したものです。
写真は、道路南側(画像右側)に公民館の建物が見えますので、昭和25年(1950)以降の撮影です。
公民館も、水田やハス田を用地として整備されました。
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大正14年(1925)に新たに建設整備された萩町役場(当時)です。
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新堀川(1687年、三角州中央に設けられた人工の溝川)上空から南方を撮影した写真です。
昭和35年(1960)頃の撮影と考えられます。
画像右側(西側)に明倫小学校の建物4棟が見え、小学校敷地に接して南へと延びる雑賀下がり筋が見えます。
黄色い円で囲んだ所が役場の建物で、周囲にはハス田が認められます。
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江戸時代末の城下町絵図(部分)に町役場(後の市役所)の位置を円で示しました。
水田やハス田などを用地として近代化が図られたことが見えてきます。

・・・つづく・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-01-21 13:07 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの1 ~ 水の都 ~
2016年が明けて半月余、ということは、企画展「城下町萩のひみつ」が開幕して1カ月余り。
今にも雨かミゾレが降り出しそうな中、本日も多くの方々にご来場いただき感謝申し上げます。
いけませんね、ブログの更新が疎かになっています。
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2009年5月撮影の、萩三角州の航空写真です。
城下町萩は、この萩三角州とその周辺に形作られたきました。
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江戸時代終り頃の城下の様子を知ることができる城下町絵図(修正加工)です。
城下町萩においては、この江戸時代の城下町絵図を、現在も地図として用いることができます。
そのことは、江戸時代に形作られた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します、
今回の企画展は、なぜ城下町絵図を地図としてつかえる「まち」が今に伝えられのか、その秘密に迫ります。
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萩三角州は、阿武川の下流に形成されました。
川の中州から発達する三角州ですから、当然のことながら、標高は高くありません。
その萩三角州の微妙な「高低差」を表現した等高線図です。
濃い緑色の線が標高1.5~2.0m、オリーブ色系が2.5~3.5mです。
標高4.0m以上が茶色系の色で表現してありますが、三角州最高地点は(指月山は除く)10m未満です。

城下町萩には、水との関連をうかがわせる地名が多数あります。
例えば、入り江や川の向こうと読める「江向」、大川の中の「川島」、川沿いの「河添」、川沿いに湖沼があったとされる「平安湖(平安古)」、沼池の芦原に面して樋門があったとされる「唐樋」、川の中に島として存在した「浮島(土原の一部)」など。
さらには、三角州周辺の川辺の景勝地であった「倉江」、「玉江」、「桜江」、「小松江」、「上津江」、「中津江」、「下津江」、「鶴江」などなど。

城下町萩は、水に恵まれた「水の都」として発展してきました。
そして、恵まれ過ぎると困る水と上手に共生するために、三角州内の微妙な「高低差」を利用してきました。
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三角州内の江戸時代の土地利用を示した図です。
この図と、等高線図、江戸時代終り頃の城下町絵図とを、良く見比べて下さい。
見えてくるものがありませんか?

最も標高の高い一帯に寺院が集まっており、次いで標高が高い一帯が町人地として利用され、それに次いで堀内(堀の内側=城内、萩城三の丸)が毛利藩重臣の屋敷地として利用され、それよりも標高の低い一帯が武家屋敷地として利用されています。
標高1.5~2.0m以下の標高の低い一帯は農地として利用されています。

実は、この標高の低い一帯は、大雨が降った際に、あふれた水が一時的に蓄えられる遊水池として永く機能してきました。
水田やハス田としての利用が続きましたが、この遊水池があったからこそ、そこよりも標高の高い一帯が水の害を免れることができたのです。
なかなか良く考えられた水の都の城下町経営です。

そして、この低湿な遊水池があったからこそ、城下町絵図が地図として使える「まち」が今に伝えられたのです。
それについては、また、次回。

・・・つづく・・・   (清水)
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by hagihaku | 2016-01-17 14:48 | くらしのやかたより
ヨルダン国におけるまちづくり協力の2
そこに住んでいる人にとってはとても当たり前なことが、エコミュージアム(まちじゅう博物館)を推進する上ではとても大切な資源となります。
それに気づくきっかけにしてもらえればということで、サルトの暮らしを支えているオリーブをテーマにした小さな企画展の企画を、サルトの関係者に提案しました。
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ヨルダン国サルト市において訪ねたオリーブの搾油工場には、石のローラーを用いて油を絞っている様子を描いた版画が掲げられていました。
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実は、比較的最近まで稼働していた「現場」がサルト市には存在し、それにともなう「物語」もたくさん伝わっています。
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石のローラーを使う以前の油の搾り方を示す石材が、洞窟住居の前にありました。
まさに「まちじゅう博物館」、サルト市民・関係者の皆さんの掘り起こし成果が楽しみです。
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1967年に、サルト市で初めて搾油機械を導入したという工場の主は(強面ですがとても気の良い人です、人は見かけではありません)、搾りたてのオリーブ油をご馳走してくれました。
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次から次へと、家の畑や庭先で収獲したオリーブが運び込まれていました。
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それぞれの家庭や一族が一年間に消費するオリーブ油は、それぞれに準備するという自給の生活が営まれています。
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精油された自家のオリーブ油を缶に詰める人たちです。
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かつては油缶ではなく、陶器の壺に入れて保存したそうです。
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工場の裏手には、搾りカスが排出されていました。
それらはブロック状に成形して乾燥させ、燃料にしているそうです。
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搾りカスのブロックを燃料とするストーブ、兼オーブンです。
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循環型の暮らしがサルト市にはあります。
その日に市場で仕入れた食材を、その日の内に消費する生活もそうですが、とても豊かな暮らしが息づいているように思います。

その後年末に、学芸員某は第7次派遣のミッションを終え日本国萩市に戻ってきました。
これからは、担当企画展について少しずつご紹介したいと思います。

学芸員 某
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by hagihaku | 2016-01-02 12:44 | くらしのやかたより
ヨルダン国におけるまちづくり協力
学芸員某は、担当の企画展を12日にオープンさせた直後より、ヨルダン国に派遣されています。
JICAの技術協力プロジェクトへの協力で、今回が第7次となります。
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首都アンマンから北西に約30kmの古都サルト市では、2007年より、萩の「まちじゅう博物館」に倣ったまちづくりが進められています。
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サルト市には、毎日、アンマンから車で通っています。
かつては馬で行き来したとされる丘越えの脇道では、通るたびに様々な発見があります。
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サルト市は(何度も紹介して恐縮ですが)、ヨルダン建国時に首都だった「まち」です。
中心市街地には、1000棟に及ぶ歴史的な建物が密集し、アラブの伝統的な暮らしが息づいています。
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「まち」に数多存在する資源を、市民自らが再発見し、その価値を共有し、そして持続的に観光活用しつつ保全継承する仕組みを定着させるとというのが、プロジェクトの目的です。
今回は、サルト市の博物館において、市民参加で日常生活に関するテーマ展示を開催することに取り組んでいます。
市民による地域資源の再発見と共有を進めようというものです。
ローカルガイド・インタープリターと協議し、今季はオリーブをテーマとすることになりました。
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搾油を目的としたオリーブの実の収穫は、10月から12月中旬までとされています。
最盛期を過ぎて終わろうとしていたのですが、折よく、脇道を走っている際に、家族での摘み取りに出遭いました。
熊手状の道具を使い、髪をすくように実を落とします。
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地中海性気候のサルト市では、昔からオリーブの生産が盛んでした。
一般的にはアジュルンやジェラシュといったヨルダン北部の大量生産地が知られていますが、サルトのオリーブ油は、わざわざアンマンから買い求めに来る人がいるほど美味しいとされています。
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自家で消費するものは、自家の畑や庭先のオリーブでまかなうという家が多数あります。
実に付いた埃を洗い流してくれる10月最初の雨(地中海性気候ではこの頃より雨が降り始める)を、心待ちにする生活が息づいています。
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サルト市内には、市民が摘み取ったオリーブを持ち込む搾油工場が10か所以上あるとされます。
その一社を訪ねたところ(なぜか、萩市においてはお疎かになっているフィールドワーク!)、1960年代まで用いられたいた搾油臼のローラーが置いてありました。
「笠山石!!」に良く似た材質の石材に驚きました。
「火山の石」で、サルトの近郊に産するとのことでした。

(学芸員 某 )
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by hagihaku | 2015-12-22 12:47 | くらしのやかたより