カテゴリ:くらしのやかたより( 239 )
海を拓いた萩の人々、17 ~ 三見浦から壱州対州への羽魚網出漁の3 ~
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羽魚網漁の漁期は、9月から12月の初め頃まででした。
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操業は月のない風があるような夜間で(その方が網を悟られないとのこと)、汽船の行きかう対馬海況の只中に流し刺し網を流し、巨大なカジキマグロを漁獲しました。
網の位置を示す大きな灯樽と呼ばれる浮標(樽)を展示しています。
大規模な刺し網であったことが想像できます。
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大正15年(1926)の三見浦「改良丸」の魚勘定帳です。
9月から12月初旬までの、問屋の泉屋への水揚げと、その間に問屋から求めた食糧などの物資の代価が記されています。
これによると、改良丸においては、94本の各種羽魚(カジキマグロ)と少なくない数の鮫を漁獲していたことが分かります。
三見浦から20数隻が出漁していましたので、単純に計算すると、大正15年の漁期には、1000本!に及ぶ羽魚がこの海域で漁獲されていたことになります。
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漁獲されていた羽魚(カジキマグロ)が、いかに大きなものであったかを示す資料です。
三見浦の寺院に、豊漁感謝と祈願で奉納されていた奉納額です。
昭和11年(1936)に奉納されたものです。
「吻」と呼ばれるカジキマグロのクチバシ状の部分が、切り取られて板面に固定されています。
左から、白羽魚(シロカジキ?)370斤、ツン魚(メカジキ)580斤、赤羽魚(マカジキ)320斤の吻です。
580斤ですよ580斤! 吻の長さは1m!
1斤は600gですから、580斤=348㎏の巨大カジキマグロが漁獲されていたことが分かります。

三見浦では一時期、壱州対州だけでなく台湾近海まで出漁し、高雄や蘇澳の港を基地に羽魚網漁を操業、広く遠く海を拓いていきました。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-29 15:11 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、16 ~ 三見浦から壱州対州への羽魚網出漁の2 ~
壱岐対馬近海において、羽魚網漁を行うのは、もっぱら三見浦と壱岐勝本港の漁船だったそうです。
三見浦から20数隻、勝本からも20数隻、多い時には50隻に及ぶ羽魚網漁船が操業していたとされます。
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大正9年(1920)、勝本港の一部、城山の麓辺りの船溜まりを俯瞰撮影した絵葉書です。
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「長靴を履いた足を投げ出したような」、と表現される舳先の漁船が認められます。
三見浦の漁船かもしれません。
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勝本港では、三見浦の船団が寄港していたことが、現在も良く伝えられています。
あるお宅には、寄港していた三見の人々が贈ったという石灯籠がありました。
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道の両側に、二階建ての家屋が壁を接して立ち並ぶ勝本浦の町なみです。
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残念ながら、魚問屋は随分昔に経営を止めており、三見船団が出漁していたころの資料は確認できませんでした。
当時の問屋もほとんどが改築されていましたが、大久保本店の建物が、元魚問屋の存在感を伝えていました。
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三見の三田八幡宮境内にある神社改修を記録する石碑です。
大正11年(1922)の改修時のもので、石碑には改修費用の寄付者の名前が刻まれています。
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その中に、当時、三見浦の船団と関わりのあった魚問屋の名前が認められます。
壱岐勝本港の泉屋、表谷、唐津屋、大久保支店(魚問屋は他にも多くあったそうですが、水揚げはこの4問屋だったそうです)、対馬厳原港の一色から、多額の寄付があったことが分かります。
ちなみに、三見船団で最も多くの船が羽魚を水揚げしていた問屋は、泉屋だったそうです。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-29 13:46 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、15 ~ 萩市三見から壱州対州への羽魚網出漁の1 ~
3月29日(日)、萩では朝方雨がふりましたが、現在は穏やかな晴天となっています。
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遠く海を拓いて行った萩の人々をご紹介します。
萩市三見浦から壱岐・対馬への、カジキマグロ漁での出漁についてです。
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萩地域では、以前は壱岐・対馬を壱州・対州と呼んでいました。
三見浦からは、明治30年代半ば以降、戦前ころまで、この壱州・対州へ羽魚(ハイオ=カジキマグロ)漁で出漁していました。
網目が1尺もあるような大型の流し刺し網を用いて羽魚を漁獲していました。
多い時には、三見浦から20数隻の船団が出漁していたといいます。
壱岐勝本港を基地として、壱岐と対馬の間の七里ヶ瀬辺りを漁場として操業しました。
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獲れた羽魚は、壱岐勝本港や対馬厳原の魚問屋に水揚げしていました。
壱岐勝本港には、泉屋、表谷、唐津屋、大久保支店、対馬厳原港には一色といった魚問屋があったということです。
水揚げの多い船には、問屋から大漁旗や優漁旗が贈られました。
画像は、丸に「い」の組、泉屋に水揚げする三見浦の宝松丸に、泉屋より贈られた優漁旗と考えられます。
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念願かなって2012年の6月に壱岐勝本港を訪ねました。
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港近くの、とある神社の拝殿に掲げられた絵馬です。
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大正15年(1926)年の漁期における大漁に感謝して、地元勝本港の漁船が奉納した絵馬です。
ご注目いただきたいのは、その舳先に掲げられたフライキです。
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いかがでしょうか?
冒頭にご紹介した展示大漁旗が描かれています。

三見浦の皆さんが、壱岐対馬近海の漁場開拓に携わったことについて、もう少しご紹介しましょう。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-29 12:41 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、14 ~ 先駆者国司浩助の関連資料を追加! ~
萩博物館「海を拓いた萩の人々」展の会期は、残すところ10日余りとなりました。
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このブログも、何かと事多いため更新が滞っています。
申し訳ありません。
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トロール漁業の先駆者・国司浩助の関連資料をご子孫の方からお借りし、追加展示しておりましたことご紹介を怠っておりました。
大変失礼いたしました。
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国司氏が、台湾に水産会社「蓬莱水産」を創設しようとしていた頃の資料です。
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家族あての「渡台(渡䑓)第〇〇信」と記された絵葉書や書簡が多数伝えられており、その一部を展示しています。
消印には、台北などの地名と1927年(昭和2年)4月の日付を認めることができます。
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国司浩助が漁業指導にあたった共同水産(後の日本水産)では、昭和2年(1927)7月、台湾の基隆(キールン)において蓬莱(ほうらい)水産を設立します。
ディーゼル機関を搭載した底引き網漁船4隻を導入、東シナ海で操業し、基隆や高雄(たかお)に冷蔵庫を設けて鮮魚を台湾島内に供給したとされます。
門司から汽船「蓬莱丸」で台湾に渡った国司は、精力的に、港や消費地を巡り、会社の設立に備えています。
絵葉書は、基隆と蘇澳(スオウ)の港の様子です。
ちなみに蘇澳(スオウ)には、ちょうど同じ時期に、萩市三見浦から、羽魚(ハイオ=カジキマグロ)流し刺し網漁で出漁寄港していました。
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絵葉書の表の面まで、港や町の様子などが書き込まれています。
国司の熱情が伝わってきます。
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この蓬莱水産設立から、1931年(昭和6年)に香港を拠点とした「蓬莱水産公司」を設立したころに、国司が愛用したトランクも展示しています。
トランクには、宿泊した旅館・ホテルのステッカーが貼られています。
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展示絵葉書の中で、宿泊所として記されている台湾鉄道ホテルのステッカーです。
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基隆や上海の旅館・ホテルのステッカーです。
各地を飛び回っていた国司の姿が浮かんできます。

そのような国司ですが、家族との時間も大切にしたようです。
当時は珍しい家族と過ごす国司のフィルム映像もご紹介しています。

「海を拓いた萩の人々」展は、来月4月5日までです。
お見逃しなく。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-27 14:27 | くらしのやかたより
萩にもツバメ飛来!ミドリヨシノも咲きましたよ~ !!!
ツバメが帰ってきました!
3月24日です!
(スイマセン、ここのところ何かと事多いもので・・更新を怠っておりました)。

昨年2014年が3月19日、その前年の2013年が3月18日でしたから、少し遅い飛来でした。
(あくまでも小職の萩博物館における観察ですが・・・)
色々な意味で!春の到来が待たれます。
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萩城跡、指月公園内の志津岐山神社参道傍らに咲くミドリヨシノです。
花はソメイヨシノに似ていますが、がくが緑色であることからミドリヨシノと 名付けられました。
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花は純白ですが、開花すると、がくの緑色により遠くから見ると淡い薄緑色に見えます。
ソメイヨシノより一週間程度早く咲きます。
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先ほど、別件で萩城跡へ行きました。
3分咲きといったところでしたが、今日(3月27日)の陽気で、一気に開花するかもしれません。
お見逃しなく。
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ちなみに、ソメイヨシノはこのような状況でした。

エ~~それから~~ 萩博物館「海を拓いた萩の人々」展、好評開催中です。
そして、特設展示室「兄松陰と妹文」展、大好評開催中です。
お運びお待ちしておりま~す。   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-27 10:31 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、13 ~ 海拓者たちの先進性 ~
田村市郎・国司浩助たちが、戸畑に総合水産基地を築いていったことは先に触れました。
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1936年(昭和11)に竣工したニッスイ戸畑ビル(当時は共同漁業戸畑営業所新館、現在一階部分がニッスイパイオニア館)です。
屋上に設けられた漁業無線局の鉄塔が印象的です。
世界の海を拓いていった船との無線交信に用いられたものです。
今回の展示では、共同漁業と関連の深い日本漁網船具株式会社(現在のニチモウ)の資料も展示しています。
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北海道大学水産科学館蔵・日本漁網船具株式会社制作のトロール網模型です。
大きな底引き網の網口を拡げるための抵抗版(オッターボード)にご注目下さい。
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下関市小月に在るニチモウの研究所(!)でお借りした写真です。
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オッターボードや網の浮標を製造しているところを撮影したものです。
傍らの人と比較すると、網の規模の大きさが見えてきます。
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田村市郎と国司浩助です。(いずれもニッスイパイオニア館提供)
田村・国司が興した漁業会社には、創業9年目の1920年(大正9)に、民間では最初の水産研究機関・早鞆水産研究所が設けられました。
水産資源について研究し、資源を枯渇させることなく持続的に利用することを設置目的のひとつとしていたとされます。
海拓者による大変先進的な取り組みといえます。
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その早鞆水産研究所に入り、天草、瀬戸内海などでクルマエビの生態研究に従事、初めて人工孵化に成功して日本農学賞を受賞した人がいます。
萩市江向出身の藤永元作です。
藤永は後に、水産庁の調査研究部長となり、アメリカ・カナダとの漁業交渉や、サケ・マスの資源をめぐるソビエトとの漁業交渉に尽力します。
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1959年(昭和34)、水産庁を退職した藤永は、製塩法が変わり使用されなくなった塩田とを再利用し、クルマエビの養殖に取り組みます。
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役目を終えた塩田が、やがてクルマエビのゆりかごとなりました。
遠く海を拓くだけでなく、眼前の海に注目して持続的に海の恵みを得ていこうとする取り組みであり、藤永も海を拓いた萩の人々の系譜に連なる人物の一人です。
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クルマエビ養殖発祥の地である山口県秋穂には、藤永元作の顕彰碑が建てられています。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-21 14:03 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、12 ~ 漁業近代化の中で採り入れられた魚箱・トロバコ ~
萩博物館には、1925年(大正14年)撮影の映画フィルム4巻が保管されています。
後に総理大臣を務める田中義一に、下関の藤津良蔵から贈られたものです。
そのうちの一巻「下関の巻」に、旧下関駅(関門鉄道トンネル開通にともなう移転前)付近を撮影したものがあります。
今回の展示の中で、ある民俗資料の使われ方を紹介するために映像展示を行っています。
以下、そのキャプチャー画像です。
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駅傍らの桟橋から出航する関釜連絡船です。
残念ながら船名は読み取れませんが、船形から景福丸・徳寿丸・昌慶丸のいずれかの船と考えられます。
1922年(大正11)以降、これらの船が就航したことで 、下関-釜山の間が8時間で結ばれることになったとされます。
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関門鉄道連絡船です。
関門鉄道トンネルが開通した後も、1964年10月まで、下関-門司港間の人を運ぶ航路は運航されます。
(そういえば、幼い頃に乗船した記憶がかすかにあります)
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貨車航送船も撮影されていました。
資料によると貨車7両を航送することができたとされます。
第一~第五関門丸の5隻が運航されていたようですが、外輪船だったということに驚きました。
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ご注目いただきたいのは、映像のこの部分です。
肩に載せた重そうな木の箱が貨車に積み込まれています。
貨車の中からは、鉤を箱にかけて引き上げています。
この木箱が、トロバコと呼ばれる魚と氷を収めた魚箱です。
旧下関駅の東側駅端は港(入り江)に接しており、魚を収めた魚箱を、岸に着けた漁船・運搬船から、直接貨車に積み込むことができるようになっていました。
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このトロバコという呼び名は、現在は魚箱の総称のように用いられていますが、実はトロール漁業にちなむ名前とされます。

トロバコは、漁獲された大量の魚を無駄なく収めることができ、また積上げることもできます。
魚を大量に漁獲するトロール漁業とともに導入されたもので、トロールで用いる魚箱ということでトロバコなのです。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2015-03-20 16:04 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、11 ~ 漁業を産業として発展させた先駆者の2 ~
前のブログでご紹介した先駆者の田村市郎・国司浩助については、萩博物館のホームページ → 萩博の収蔵品(情報の引き出し) → 萩の人物データベースにおいて、情報を引き出すことができます。
ぜひ一度、データベースをお訪ねください。

さて、その田村・国司が下関を拠点に田村汽船漁業部を設立したのは、1911年(明治44)のことです。
その後、共同漁業株式会社に改組、根拠地を戸畑に移します。
1929年(昭和4)のことです。
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戸畑漁港概要の表紙です。
洞海湾に面した一帯が埋め立てられ、漁港が整備されます。
上の画像右上が下関で、上方が北の方角、画像下部が九州本土となります。
関門海峡に面した下関港に比べ、戸畑港は響灘・玄界灘を経て渤海・黄海・東シナ海への出入が容易な港であることが分かります。
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漁港完成予想図です。
陸上施設としては、総敷地4,500坪に、製氷冷蔵工場(1,500坪)、荷上場(500坪)、魚市場(300坪)、諸会社事務所(400坪)、魚糧工場(300坪)、製函工場(300坪)、そして研究所!(120坪)が設けられる予定になっています。
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この戸畑港には、漁業会社(共同漁業株式会社)を初めとして、関連の魚糧会社(竹輪やカマボコなどを製造)、販売会社(市場や販路開拓)、運送会社、漁網船具会社(日本漁網船具株式会社、籠寅!製罐株式会社)、製氷冷蔵会社、そして研究所(早鞆水産研究所)が集約され、一大総合水産基地となりました。
これを推進し、漁業の産業化を図ったのが、田村市郎・国司浩助でした。

根拠地の移転により下関から戸畑に移った人は、家族を含めると1万人を数えたとされます。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-20 12:59 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、10 ~ 漁業を産業として発展させた先駆者たち ~
3月19日(木)、春の雨が降っています。
萩博物館前の駐車場角のアンズの花が、せっかく咲き始めたのですが。
昨年の3月19日には、ツバメが飛来しました。
随分と暖かくなりましたので、今年もそろそろかと思います。
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海を拓いた萩の人々の中に、漁業を総合的な産業として発展させた人がいます。
それは、英国からトロール漁業を導入し、日本の漁業の近代化を牽引した田村市郎と国司浩助です。
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トロール漁網の模型です(北海道大学水産科学館蔵、日本漁網船具株式会社制作)
トロール漁業は、沖合において、大型の底曳き網(袋網)を蒸気船などの動力船で曳きまわし、海底の魚介類を漁獲する漁法です。
イギリスで開発され、日本には明治41年(1908)に導入されます。
一度に大量の魚を漁獲できることで、注目を集め、各地で導入が図られました。
ちなみに、日本にこの漁法を最初に導入したのは、長崎グラバー邸の主トーマス・グラバーの息子である倉場富三郎です。
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明治43年(1910)発注、英国で建造され、国司浩助が日本に回航した「湊丸」(ニッスイパイオニア館提供)
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大正初年頃(1910年代)の初期トロール漁船「富国丸」(ニッスイパイオニア館蔵)
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明治44年(1911)以降、この漁法を導入して日本有数の総合水産会社を築き上げ、日本漁業の近代化に大きく貢献したのが、萩出身の田村市郎や国司浩助なのです。

田村や国司が興したこの漁業会社は、大きな規模で魚を漁獲するだけではありませんでした。
関連の会社に、魚を冷凍冷蔵する会社、市場を含め魚を販売・流通させる会社、魚を加工し缶詰などを製造する会社、漁網や船具を製造する会社等々があり、総合的な産業としての発展が、日本の漁業に大きな影響を与えたとされます。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2015-03-19 16:42 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、9 ~ 明治期に萩で製造された魚介類缶詰 ~
萩博物館特別展「海を拓いた萩の人々」展も、残すところ1か月となりました。
ペースを上げねば、展示最終章までたどり着けそうにありません。
さて、明治時代に萩で魚介類缶詰が製造されていたことをご紹介します。
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サクラ鯛の缶詰ラベルです。
大日本!長門萩名産!を謳います。
製造元は、山口県萩浜崎町の馬庭長萩堂、主は馬庭三四郎氏です。
SEIZOU(?!) BY S.MANIWA とあります。
DIRECTION (使用書?! )で、英文による缶詰利用方が記されています。
当初、缶詰は大変高価で、輸出品や軍の糧食として利用され、一般にはなかなか食されなかったとされます。
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ハマチ日本煮(やまと煮)の缶詰です。
大和煮・日本煮は、醤油・砂糖・ショウガなどを用いて濃く味付けされた煮物です。
「防長新聞」の1904年(明治37年)11月11日の記事には、軍が、イワシ、サバ、ブリの缶詰供給を、指定の「阿武郡萩町馬庭三四郎、熊毛郡室積村江村英治、豊浦郡小串村里見万吉の三氏、及び大津郡仙崎村日本遠洋漁業株式会社」に求めたとあります。
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大阪天王寺で、明治36年(1903)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場案内図です。
殖産興業を目的に開催されたこの博覧会には、水産加工品も多数出展されました。
実は、馬庭長萩堂からこの博覧会に出品されたサザエの缶詰が、有効三等賞を受賞しています。
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「山口県海陸物産食品缶詰製造」長蘒堂(長萩堂)製造のカマボコ(???)の缶詰です!
カマボコですよ、カマボコ。
萩の蒲鉾はエソを主原料にした焼抜き蒲鉾なのですが・・・この缶詰にされたカマボコの原料は・・・はて?
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くじら日本煮(大和煮)の缶詰ラベルです。
1904年(明治37年)9月30日の「防長新聞」には、岡十郎の創設した日本遠洋漁業株式会社が、萩町浜崎に缶詰製造の分工場を設けたことが報じられています。
この記事には、「多年、魚類の缶詰製造に従事してきた工場主の馬庭三四郎氏の所に技師を派遣し、その指導のもと、熟練の職工たちによって既に一万缶を製造した」といった内容の記述があります。
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上の記事の前後には、遠洋漁業株式会社の運搬船が下関に入港し、韓海で捕獲されたクジラの肉をもたらしたという記事たびたび見られます。
多い時には、15万斤(90トン)の鯨肉を積み帰っています。
同じ1904年11月6日の「防長新聞」には、日本遠洋漁業株式会社が、前年の1903年(明治36年)から、韓国慶尚道蔚山郡長承浦に建設した缶詰製造工場で鯨肉缶詰製造を続け、製造量が6万7千貫(約250トン)に達したことを報じています。

クジラの大和煮缶詰は、「防長新聞」の記事によれば、日本遠洋漁業株式会社が韓海でのクジラ捕獲を伸ばし、その販路を広げようとしていた時期で、かつ、日露戦争による軍食缶詰の需要が伸びていた時期、つまり1904年(明治37年)前後に製造が始まったと考えられます。

・・・ つづく ・・・   (清水)




 
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by hagihaku | 2015-03-08 17:07 | くらしのやかたより