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クイズ星の会⑥の答え
さあ、待ちに待った答えの発表です。

正解者はいるかな???

問題は、

次の2枚の写真の月の大きさが違うのはなぜでしょう?
1、地球から月までの距離が違うから
2、写真の撮り方が違うから
3、月が膨らんだり縮んだりしているから
4、昇るときの月と高く昇っているときの月だから

でしたね。



正解は、












1、地球から月までの距離が違うから
です


月は地球の周りを27.3日かかって回っています。

地球-月の距離は平均38万 kmですが、月の軌道が円ではなく、楕円形をしているため、月が近いとき(近地点)では約36万 km、月が遠いとき(遠地点)では約40万 kmの距離になります。近地点距離と遠地点距離の差は約4万 kmですが、その距離は約地球1周分に相当します。

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最も月が近いときの写真(2007年11月23日)
撮影:萩天文同好会


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最も月が遠いときの写真(2007年5月20日)
撮影:萩天文同好会



いかがでしたか???

では、次回をお楽しみにv(^0^)v

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by hagihaku | 2008-05-30 22:37 | 天体観測室より
透明な珍客・・・ヒメゾウクラゲ
初夏をむかえた萩。南の海から萩をめがけて流れてくる対馬暖流の勢いがじわじわと強くなってきたようです。

この対馬暖流、冬は時速0.7kmぐらいでのそりのそりと流れていますが、夏になると時速1.3kmぐらいまで高速化!(とはいえ、牛がちょっと速く歩く程度の速度ですが・・・)。
その分、南の海の暖かい水を運ぶパワーも量もアップ!!

・・・ということは、南の海の海水に混じって、たくさんの生きものたちが萩に来訪!

そんな来訪客がまたひとり、昨日5/27(火)に近海に姿をあらわしました。

b0076096_11332111.jpg← これがその来訪客の正体。長さ約6cm、透明なゼリーのような体で海のなかをふわふわ漂い、パタパタと泳ぎ回るヒメゾウクラゲという生きものです(先日5/7にご紹介したハダカゾウクラゲのなかま)。

5/27(火)の朝7:30ごろ、阿武町筒尾の山口県外海第二栽培漁業センターの坂井さんが採集され、寄贈してくださいました。

b0076096_1135483.jpg○○クラゲと名がついていますが、これでも巻貝のなかま

その証拠に、右下の方にちゃんと三角帽子のような貝殻がありますよ。

浮遊生活に適応し、体は透きとおり、貝殻もいちばん弱い内臓を覆い隠すだけの存在となり、パタパタと泳ぎ回る腹びれまで備えているのです。
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← 坂井さんに連絡をいただいて現地に駆けつけたところ、場内の岸壁の下の海面に、もう2個体ほど小さな2cm・3cmほどのヒメゾウクラゲも見つかりました。

この生物、日本では太平洋側の黒潮と親潮がぶつかる「潮目」のあたりなどで見つかることが多いのですが、日本海に面する山口県では目撃例は2000年以前はほとんどなかったようです。

しかし2006年4月27日に萩市大島で2個体5月4日に1個体見つかり、そして今回3個体・・・もしかして、ちょっとずつ増えてきたのかな?

このヒメゾウクラゲ、萩の海の環境変化を長い目で見ていく上で、重要な資料となりそうです。

b0076096_11394174.jpg← 小さな3cmほどの個体はとても可憐に、舞うように水中を泳ぎ回ります。

昨日は8社の報道関係の方々が取材にこられましたが、無色透明で動きが速いためなかなかビシッと撮れず、撮影にたいへん苦労されていました。

このヒメゾウクラゲたち、当館の設備では長期飼育ができないため、研究室で飼育して観察した後は標本として将来の展示や研究に活かしたいと考えています。

萩の沖を流れる対馬暖流・・・私たちはその姿をこの目で見ることができません。

しかし、こうして春から夏にかけてじわじわ増えてくる、南の海から運ばれてくる生きものたちの情報・・・その一つ一つを見聞きするにつけ、あなたの頭の中に見えてきませんか? 
はるか遠い南国から、うねりながら萩をめがけて北上してくる青い龍のような対馬暖流の勇姿が。

(堀)

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by hagihaku | 2008-05-28 11:45 | いきもの研究室より
歴史探究講座「吉田松陰の手紙を読む」
来月上旬、山口市にある山口県文書館の主催で、下記の行事が開催されます。
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第3回中国四国地区アーカイブズウィーク
吉田松陰自賛肖像展

―吉田松陰自賛肖像・絶筆・松下村塾記修復記念―
平成20年6月1日(日)~8日(日) 月曜閉館


開催要項は、山口県文書館のホームページに掲載されています。

今回、この行事のメインイベントは、7日(土)の「歴史探究講座」です。
わたくし道迫は、僭越ながらその場で、発表の大役をおおせつかりました。
これまでの研究成果の発表をしたいと考えています。

発表のタイトルはブログの標題のとおりです。

「吉田松陰の手紙を読む―萩博物館の収蔵品を中心に―」

わたしはこれまで、萩博で「松陰先生のお手紙」を展示させていただいてきたわけですが、展示ではどうしても、突っ込んだ内容をお伝えすることができません。

口頭発表ではそのあたりの不足を補うべく、皆さんに松陰の手紙を読む楽しさをお伝えできればと考えています。

とりわけ今回読んでいく手紙は、松陰が父の杉百合之助や母の瀧子、兄の梅太郎、叔父の玉木文之進など、すべて家族・親族に宛てたものであるというところがポイントになろうかと思います。

松陰が家族に送った手紙はどんな内容だったのでしょうか。具体的な内容は、お話しするまでの楽しみということにさせてください。

なお講座はお申し込みが必要ですが、まだ若干空きがあると伺っております。
連絡が遅くなりましたが、もしご都合がよろしければ、ぜひ山口へおいでください。

お申し込みは山口県文書館〈もんじょかん〉(083-924-2116)まで。


(道迫)
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by hagihaku | 2008-05-27 09:08 | 歴史資料調査室より
クイズ「星の会」⑥
さあ、今日も始まりましたクイズ「星の会」です。

今日は月についての問題です。みなさん答えられますか???

問題
次の2枚の写真の月の大きさが違うのはなぜでしょう?

1、地球から月までの距離が違うから
2、写真の撮り方が違うから
3、月が膨らんだり縮んだりしているから
4、昇るときの月と高く昇っているときの月だから


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2007年11月23日の月
撮影:萩天文同好会


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2008年5月20日の月
撮影:萩天文同好会


答えが分かった人はコメントに正解だと思う数字を書いてくださいねv(^0^)v


お知らせ
毎週 金曜日 午後7時30分~午後9時
「星の会」に遊びに来てくださいね。

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by hagihaku | 2008-05-23 22:13 | 天体観測室より
夏みかん物語の5
皆さん良くご存知のあの人物が、
 私にはあまりご縁のないあの人物が、
  実は夏みかんに深~いかかわりを持っていたのだぞー! の巻

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明治40年、1907年頃の萩三角州のパノラマ写真です。
夏みかんの経済栽培が始まっておよそ30年が経過しています。

この当時、城下の屋敷地にはたくさんの夏みかんが植えられ、余地が無い!という状態だったとされます。
写真右部の指月山から南に(左に)続く一帯が堀内地区で、旧制萩中学校校舎以外に目立つ建物は無く、夏みかん畑が広がっていることが確認できます。

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夏みかんは、市場に出回り初めてしばらくは大変高値で取引されました。
ある資料によると、当時、夏みかん3個から5個で、米1升と同じ値だったとされます。
また、江向のKさんによると、夏みかんが3本あれば、こどもを上級の学校に通わせることができたそうです。
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明治30年代から40年代には、生産額が、当時の萩町の年間予算の8倍!に上ることがありました。

現在の萩市の一般会計予算が約300億円ですから、2400億円!相当の生産額です。
(ちなみに、今年の山口県の一般会計予算が、約7100億円です。)
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夏みかんは、果物として食される以外にも、様々な形で利用されました。
クエン酸やオレンジ油なども生産されました。
現在も、皮を利用した菓子やマーマレード、果汁を利用したジュースやシロップの類が生産されており、萩土産として喜ばれています。
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夏みかんの皮菓子は、
・果実や綿のような内皮部分を取り除いた皮の表面を削り
・指くらいの大きさに切ったものを煮立てて苦味やアクを除き
・水洗いした後に砂糖を加えて再び煮立て、
・砂糖をかけて冷まして作ります。
明治20年頃に、浜崎町の菓子商 森重正喜 が考案したとされます。
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そして、そのような中(いよいよ本題でーす)、夏みかんマーマレードが作られるのです。

日本で最初に夏みかんマーマレードを作ったのは、な~んと、あの福沢諭吉なのです!!!
(記録に残っている範囲ではありますが・・・)

明治26年、1893年のことで、そのあたりのことが『福沢諭吉伝』第1巻に記されています。
福沢諭吉のもとへ送られてきた夏みかんを、おいしく食べ、皮を利用して「マルマレット」を作った旨、松岡勇記あての礼状にしたためています。
松岡は萩藩医家の出身で、福沢とは、大阪の緒方洪庵の塾で同窓でした。

礼状には、マルマレットの製法や、自宅で作って食したところ好評であったことが記されています。
パンにつけて食べると誠に結構!などとハイカラな生活が垣間見えます。

ということで、夏みかん物語はつづく・・・・・       (清水)
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by hagihaku | 2008-05-21 20:06 | くらしのやかたより
ナゾの黒マントの人物、登場!!
「うーん、もっと右手あげて!」 
「はい、もっとマントに風だして~!」 
「うーん、いいねぇ いいねぇ!」


昨日5/20の昼前ごろ、萩博物館のバックヤードでこんな会話が・・・

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そこには当館のrie&tami事務局員の姿が。

そして、視線の左の方には・・・黒いマントを背負ったナゾの人物! 

いろんなポーズで、なにやら撮影をしているようです。ナゾの黒マントの人物、いったい何者!?
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やかなること 花の如く

いあがること 鷹の如く

うこと 獅子の如し

の身に宿るカブトムシの魂



・・・そんなカブトムシの化身なる人物。
その名も 華舞闘侍(かぶと・ざむらい)!!

萩博物館ではこの夏、企画展「風雲!昆虫城へ~カブトムシたちの戦記」(7/12~8/31)を開催。

「華舞闘侍」がこの展示の仕掛人として、いま、昆虫界から萩博物館へ舞い降りたようです。
・・・と同時に博物館のお姉さん方につかまってパシャパシャと撮影されている模様・・・

この華舞闘侍(かぶとざむらい)、これから夏にわたって テレビに、チラシに、新聞に、情報誌に、インターネットに、はたまた街角に登場し、あなたを昆虫界へ、そして夏の萩博物館へといざないます。


もっとくわしい正体は また後日紹介!

華舞闘侍(かぶとざむらい)、どうぞ お見知りおきを!

(堀)

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by hagihaku | 2008-05-21 12:09 | 催し物のご案内
夏みかん物語の4
吉田松陰は夏みかんを知っていた!! ・・・かもしれない・・・ の巻

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松陰全集、安政4年、1857年1月13日の松陰の日記を載録した頁です。

赤い矢印の部分には、
「橙(ダイダイ)2株を移す(移植する?)。栄太(吉田稔麿)来る。終日自業する。」 と記されています。

松陰が杉家の幽囚室で講義を始めて9ヶ月余、吉田稔麿が入門して1ヶ月余の頃の記述です。
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松陰全集の背面に展示している「明治初年松下村塾付近平面図」です。
明治20年、1887年頃に描かれたと考えられる絵図です。
松下村塾、及び杉家周辺の様子の覚書です。

この中に、大変興味深い書付があることを発見しました。

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この絵図によると、松下村塾や杉家の周辺は畑となっており、多くの樹木が描きこまれています。
これには、絵図の上から、畑に植えられた樹種や、周辺に建てられた家屋について、鉛筆で覚書が書き込まれています。
江戸時代から松本村では柿が特産となっていたようですが、この絵図にも「柿」の記述が多くあります。
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今回、その中の杉家屋敷地内、杉家のすぐ北側に、「夏ミカン」の記述があることを発見したのです!

「夏ミカン」という呼称は明治20年ころからのものです。
ということで、この絵図にある夏みかん樹は、明治9年、1876年以降に経済栽培が始まって以降に植えられたものかもしれません。

しかし注目されるのは、柿樹などの中に、1本だけ夏みかん樹が存在することです。
経済栽培目的とは考えづらい夏みかん樹です。

堀内地区の武家屋敷地には、経済栽培が始まる前に、既に自家消費用の「夏橙」が植えられていたことは、夏みかん物語の2で触れました。

先に記したように、安政4年、1857年に、松陰は「橙」2株を移植したことを日記に記しています。
この「橙」が、「酢橙」であったのか?
それとも後に夏みかんと呼ばれるようになった「夏橙」であったのか?
これ については、今後、さらに資料を掘り起こし検討を進める必要があります。

もしも、移植したとされる「橙」が、この絵図に記されている「夏ミカン」だったとすれば・・・
「吉田松陰は夏みかんを知っていた!」ということになり、
また、その面でも、小幡高政との接点があったということになります。

夏みかん物語はつづく・・・・      (清水)
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by hagihaku | 2008-05-20 11:38 | くらしのやかたより
萩・夏みかんまつり
夏みかんの香りが部屋の中までプンプン漂う、まことに良い時候になりました。

この土曜日(5/17)はたまたまオフだったので、取材がてらに「萩・夏みかんまつり」に行ってきました。このイベント取材は、これまでわたしが行ってきた夏みかんにかかわる一連の取材の、仕上げとでも言うべきものになります。

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さて、午後1時過ぎにイベント会場の「旧田中別邸」及びそれに隣接する「かんきつ公園」に行くと、このように踊りの披露が行われていました。ここかんきつ公園は、「夏みかん栽培発祥の地」という関係から近年整備された場所で、普段の落ち着いた雰囲気とは打ってかわって、とても賑やかでした。

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この建物が旧田中別邸です。要は、もとの持ち主は26代首相の田中義一だったわけです。ちなみに、その前の持ち主は小幡高政という人物なのですが、小幡については清水主任学芸員の記事「夏みかん物語3」をご覧ください。

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なお旧田中別邸の庭には、「橙園之記」という石碑が建てられています。原文は小幡自身が書いたもので、夏みかん栽培にかかわる苦労談や、成功するまでのいきさつが刻まれています。


ところで、ここ「旧田中別邸」は平安古〈ひやこ〉という地区にあり、西側には橋本川が流れています。

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その関係で、このイベント開催期間中だけ「かんきつ公園」のすぐそばに、船着場が設けられており、「萩八景遊覧船」に乗ることができました。しかも無料!

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これは往路の様子を撮影したもので、前方の山のふもとには、毛利家墓所の大照院があります。写真下方には、船に乗った証拠と言わんばかりに、船のへさきが写っています。

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こちらは復路の様子を撮影したもので、萩のシンボル指月山がひときわ美しく見えました。

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以上のように、午後のひと時を楽しく過ごさせていただいたものの、例年に比べると、まだつぼみの状態のものも多く、花の開き具合が遅いように見受けられます。ピークというには、まだ少し時間がかかるようです。

よって、もうちょっとだけ、わたしの夏みかん取材は続きます。


(道迫)
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by hagihaku | 2008-05-19 18:38 | 歴史資料調査室より
水星をみよう
みなさんは、水星をご存知ですか?

そう、太陽系の惑星の中で、一番太陽に近いところを回る惑星ですね。
水星は、太陽系の惑星の中では一番小さく、太陽系には水星よりも
大きな衛星もあります。

太陽に近いため、なかなか観望チャンスの少ない天体です。

その水星が観望チャンスです。

夕方、太陽が沈んでから空が暗くなるまでの間、西の空(太陽が沈んだ方向)を
見てみましょう。小さな光る点が見えるはずです。

見つけられるかな???

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by hagihaku | 2008-05-16 23:01 | 天体観測室より
夏みかん物語の3
小幡高政と吉田松陰には接点がある!の巻

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夏みかんの経済栽培を推進した小幡高政は、文化14年、1817年の生まれです。
したがって、明治9年、1876年の栽培開始の時には、数えの60歳ということになります。
大変有能な藩吏で、萩町奉行役や江戸留守居役を務め、朝廷や幕府との関係調整などにもあたった人物です。
そして、江戸留守居役を務めている時に、吉田松陰の刑死に、藩を代表して立ち会った人物でもあります。

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明治維新の後、小幡高政は政府に出仕します。
小倉県の権令(現在の副知事)を辞職して帰郷、間もなく、士族救済のための「耐久社」という団体を、実兄の祖式氏などと設立します。
そこで、夏みかんの果樹としての経済的な価値に着目し、苗の育成や配布を行い、夏みかん栽培の定着と産業化に取り組みます。

小幡は大変経済に明るかった人のようで、後に、第百十国立銀行の創立にかかわり、69歳で2代目の頭取に就任します。
明治の初年、萩では、士族救済のために、まず養蚕に取り組みます。
そのような中で、また経済的にも逼迫している中で、果実出荷までに10年程度を要する夏みかんの有効性に、小幡は注目し栽培に取り組みます。

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当初は、その試みをあざける人が多かったようです。

小幡は、今で言うところのリサーチをしていたのでしょうか。
出荷が可能になるまでの間、どのように食いつなぎ耐えようと考えたのでしょうか。
他に、即効性の方策を考えていなかったのでしょうか。
何万本という苗木を接木で育てて配るわけですが、そのような技術を、だれが持っていたのでしょうか。
素朴な疑問をおぼえます。

写真の手前は、吉田松陰全集の中の、安政元年、1854年12月3日、妹の千代あての手紙を掲載している頁です。
「11月27日の日付のある手紙と、九ねぶ(クネブ、九年母=ミカンに似た柑橘)、三かん(ミカン)、かつをぶしが昨晩届いた」と書き送っています。

吉田松陰は夏みかんを知っていた!かもしれない・・・という物語を、次回いたしませうか。
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小幡高政旧宅地(後に田中義一別邸)は、平安古鍵曲の近くにあります。
現在、柑橘公園になっています。

明日より夏みかん祭りです。

18日(日)は、浜崎地区(重要伝統的建造物群保存地区)のまちと家々が開放される「浜崎お宝博物館」が予定されています。

天気予報は晴れ!!
お運びお待ちしております。

夏みかん物語はつづく・・・    (清水)
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by hagihaku | 2008-05-16 21:03 | くらしのやかたより