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城下町のひみつ、その4
今年も、残すところわずかとなりました。
萩博物館のある堀内地区では、ロウバイの花が咲き始めています。
年中無休の萩博物館には、今日もたくさんの方々がご来館下さいました。

さて「城下町のひみつ」の続きです。
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キーワードの3つ目は「鉄道」です。
近代化のシンボルである鉄道が、萩三角州の外を迂回する形で敷設されたことにより、元からの「まち」が大きな改変を受けなかったことを紹介しています。
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萩まで鉄道が開通したのは、大正14年(1925)のことです。
萩出身の井上勝(鉄道の父)が、新橋~横浜間の鉄道開業に尽力して、半世紀以上後のことです。
これは、大正14年4月の開業直前に発行されたパンフレットです。
吉田初三郎により、萩三角州や阿武川上流の長門峡、及び周辺の名所旧跡が、大胆な鳥瞰図として表現されています。
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その絵の中に、鉄道が鮮やかな赤い線で表現されています。
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萩三角州の南西の外に位置する玉江駅です。
鉄道は、美祢線を延長する形で西から敷設されて来ました。
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三角州の南の外に位置する萩駅です。
大正14年4月3日開業で、当初は、萩の中心駅であり、当時の美祢線の終着・始発駅でした。
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三角州の東の外に位置する東萩駅です。
開業は、萩駅の7ヶ月後です。
鉄路は、阿武川を鉄橋でまたいで三角州の外側を迂回し、東萩駅の先で破線表現となっています。
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鉄道敷設前と、敷設の後の萩町の地図です。
敷設前の萩町の地図は、ほとんど城下町絵図の頃と変わるところがありません。
萩町は三角州の中だけで、三角州の外は、西南に山田村、南に椿村、東に椿郷東分村があります。
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三角州周辺の村々と萩町は、鉄道開業前の大正12年(1923)、合併して大きな萩町となります。
実は、その旧村単位に、玉江駅(山田村)、萩駅(椿村)、東萩駅(椿郷東分村)が設置されているのです。
ウン? 臭いますヨね~。
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そうなんです。
この町村合併と、鉄道の三角州外迂回とは、大いに関係があるようなのです。
つまり、合併の方策として、各村に駅が設けられたようなのです。
そのことは、当時の町議会、村議会の議事録などには出て来ません。
しかし新聞記事には、起工の前に、合併する村から、それぞれの村に駅を設けることが強く陳情・要望されたことが記されています。
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いま少し資料を捜す必要はありますが、かつて旧村地域で、鉄道駅設置が合併の条件であった云々という伝承を聞いたことがあります。
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萩市の政治家・実業家であった厚東常吉さんの伝記『雷鳴』です。
実はその中に、鉄道開業前後のことに触れたくだりがあります。
厚東さんは、萩三角州の中心に駅を設け、それによって一大開発を誘導することを企図していた人です。
伝記には、町村合併を進める協議の中で、各村に駅を設けることが議論されたことが記されています。
文面からは、三角州内への駅設置が叶わなかったことを、残念に、否、苦々しく思っていたことが伝わってきます。

確かに明かす資料が不十分かもしれませんが、鉄道開業前の町村合併により、三角州外に三駅が設けられ、そのことで鉄道が三角州外を迂回することになったようです。
これにより、結果として、三角州内の城下町は、大きな改変を免れました。

ということで、次回は、大きな「災い」を受けなかったことにより、元からの「まち」が守られたということをご紹介します。

萩博物館は年末年始も休まず開館しております。
お運びお待ちしております。    (清水)
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by hagihaku | 2009-12-29 17:41 | くらしのやかたより
城下町のひみつ、その3
キーワードの2、夏みかんが城下町を守ったことを紹介するコーナーです。
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夏みかんは、萩の特産品です。
明治維新の後、明治9年(1876)、禄を失った武士の救済のために、全国に先がけて経済栽培が始まりました。
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昭和27年(1952)の夏みかん畑の分布図です。
緑色で表現されている部分が夏みかん畑で、広く栽培されていたことが分かります。
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昭和22、23年(1947、48)撮影の萩三角州航空写真と、江戸時代終わり頃(1850頃)の城下町絵図です。
航空写真で、周囲より黒っぽく写っているのは、夏みかん畑の葉の緑です。
これと、先の夏みかん畑分布図、そして城下町絵図とを見比べてください。
何か見えてきませんでしょうか?
城下町絵図の白く見える部分と、夏みかん畑とが重なりませんか?
実は、城下町絵図で白く表現されているのは、武家屋敷地なのです。
夏みかんは、広大な武家屋敷地を畑として栽培されていたのです。
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昭和27年(1952)の夏みかん畑分布図は、経済栽培が始まって80年近くを経た栽培の状況です。
萩三角州のかなりの部分で、夏みかんが盛んに栽培され続けていることが見えてきます。
それは、なぜなのでしょうか?
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経済栽培が始まって10年余、夏みかんは大阪市場などに出荷されるようになります。
初期には、米1升と夏みかん3個から5個が等価!という、大変な高値で取引されたそうです。
そして一時期は、当時の萩町の年間予算の8倍!に上る生産額を誇りました。
(現在の萩市年間予算を300億とすると、2400億!ちなみに山口県の年間予算が7千数百億)
夏みかんの樹が3本あれば、こどもを上級学校に通わせることができた、とも伝えられています。
(この辺りのことは、ブログで「萩・夏みかん物語」として紹介しています)
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夏みかんの盛んな栽培は、1970年頃まで続きます。
その結果、畑となった武家屋敷地が、分割分譲されることなく永く維持されました。
夏みかんの風除けに、屋敷地周囲の土塀や建物も維持されました。

つまり、夏みかん栽培が永く続けられたことが、武家屋敷地を、ひいては城下町を、大きな改変から守ったのです。

ということで、「城下町のひみつ」は続く ・・・    (清水)

萩博物館は年末年始も休まず開館! しております。
ふるさとに帰られる萩地域出身の皆さん、
萩市をお訪ねくださる皆さん、
そして萩市民の皆さん、
「なつかしい日本のふるさと」のひみつを確かめに、是非、お運びください。
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by hagihaku | 2009-12-28 18:27 | くらしのやかたより
城下町のひみつ、その2
明治時代以降、萩三角州の低湿地を開発して近代化が図られたことにより、元からの「まち」が壊されなかったことを紹介するコーナーです。
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低湿地造成に使われたシダ類もですが、こちらの展示資料もぜひご覧頂きたいものの一つです。。
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このコーナーでは、触れて発見できる体験型展示資料「萩学なんでもBOX」の一部を展示しています。
「萩学なんでもBOX」は、萩にかかわる色々なテーマに沿って、触れることができる資料を小型の箱に収めた萩博物館オリジナルの展示物、兼、体験学習キットです。
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萩東中学校と萩西中学校の提案をもとに制作した、「地図を重ねて再発見」BOXの資料です。
それぞれ違った目的で作成された地図を重ねることで、別のものが見えてくるというものです。
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三角州の微妙な地形を強調した地形模型です。
三角州中央辺りに低湿地が広がっていること、三角州の北側に砂丘状に比較的標高が高い一帯があることを、触れて発見することができます。
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微妙な地形を示す等高線図を重ねてみました。
低湿地地帯は標高2メートルに満たないこと、そして、三角州で最も標高が高い所(指月山を除く)でも標高10メートルに満たないこと、等が確認できます。
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今度は、江戸時代の土地利用について示した地図を重ねてみました。
茶色に表現された部分が町人地、藤色が寺社、アイボリーが武家屋敷地、そして緑色が農業地、及び農業者住居です。
町人地や寺社が三角州の北部に在ること、また農業地が三角州中央あたりに在ること等が確認できます。
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2枚の地図を重ねてみましょう。
何か見えてきませんか?
実は、比較的標高の高い所に町人地と寺社が集中し、それに次ぐ標高の所に重臣の住まいした武家屋敷地があり、最も標高の低い一帯が農業地や農業者居住地になっていることなどが見えてきませんか。
つまり・・・三角州の微妙な地形を活かした土地利用がなされてきたことを、あらためて発見できるのです。
さて、このような萩三角州が、明治時代以降、どのように変わっていったかについては、以下です。
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長くなって恐縮です。
三角州の微妙な地形を、等高線と標高による色分けで立体的に表現した鳥瞰図です。
下に展示している地形模型と見比べながらご覧下さい。
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その鳥瞰図上に、明治時代以降、昭和期までに建設された公共・公益施設を赤い色で、近代化の象徴である鉄道と鉄道駅とを青色で表現してみました。
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いかがでしょう。
公共・公益施設の敷地まで表現できれば、もっと、赤色部分は広くなったと思います。
三角州内の標高の低い一帯に、赤色で表現された施設の多くが集まっていることが見えてきませんか?
元からの「まち」を壊さない近代化が図られたことが、これからも見えてきます。
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1960年、三角州の標高の低い一帯を撮影した航空写真です。
開発が進んではいますが、この当時、まだまだハス田や水田が広がっています。
この後しばらくして、市役所や市民館、大型商業施設や国道バイパスなどが、この一帯に建設されます。
(この角川政治さん撮影の航空写真も、様々な情報を引き出すことができる、実に面白い資料です)

お付き合いいただきありがとうございました。
(申し訳ありません、長過ぎますね)
しかし、まだまだ「城下町のひみつ」は ・・・ つづきます。    (清水)
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by hagihaku | 2009-12-24 19:24 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつ、その1
「城下町のあゆみ」では、三角州と城下町の発展形成についてのおさらいをしました。
それでは、いよいよ、なぜ、現在も江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができるのか、ということについて謎解きを試みます。
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明治時代以降の、萩三角州の「低湿地」開発について紹介するコーナーです。
江戸時代の城下町絵図が、そのまま地図として使えるということは、江戸時代に形作られた「まち」が大きく壊されていないということです。
今回の企画展では、それを、4つのキーワードから紹介しています。
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キーワードの一つは「低湿地」です。
萩三角州の中央辺りには、標高2メートル未満の低湿地が広がっています。
かつては水田やハス田(蓮畠)として利用され、大雨で出水した際に、遊水池になっていたような所です。
実はこの一帯に、明治時代以降、役場や学校、道路といった近代化に不可欠の公共・公益の施設が作られました。
元からあった「まち」を壊さない近代化が進められました。
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今回、是非ご覧いただきたい資料の一つです。
ちょっと見では、ただのゴミです。
ところがところが、これが、三角州低湿地の開発を示す大変に重要な資料なのです。
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明倫小学校敷地内、つまり、藩校明倫館の敷地内、地下1.3メートル辺りから出土したシダ類です。
藩校明倫館が、1849年に移転拡充整備された際の、造成工事に用いられたものです。
新明倫館の1万5千坪を超える広大な敷地は、低湿地にシダ類を敷き詰め、その上に土砂を入れて造成するという伝統的な工法が採られました。
その大規模開発の歴史について伝える重要資料なのです。
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文武を奨励する藩の方針で、藩校明倫館が拡充整備されたのは、江戸時代末のことです。
旧明倫館と比べると15倍以上の規模を誇る新明倫館でした。
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敷き詰められたシダ類は、厚さ30cm余に及びます。
1万5千坪に敷き詰めるシダ類を、誰がどこから調達したのか素朴な疑問を覚えますが、大規模開発が可能だったのは、三角州中央あたりに利用可能な低湿地があったからこそです。

明倫館の拡充整備では、元からあった「まち」は壊されませんでした。
ちなみに、明治時代以降、明倫館の敷地内に、役場(後に裁判所)、小学校、商業学校などの公共・公益施設が設けられました。   ・・・ つづく    (清水)
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by hagihaku | 2009-12-22 08:43 | くらしのやかたより
城下町のあゆみ、その5(余話)
萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展では、初公開5点を含む城下町絵図を、8点展示しています。
それらの絵図を通覧すると、三角州上の城下町が、水と戦い、水と共生してきた歴史をたどることができます。
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実は、城下町絵図の他に、城下町と水との関連を知ることができる資料1点を展示しています。
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「町幟図屏風」です。

萩城下には、全部で28の町人町があり、萩町奉行が管轄しました。
大雨により洪水の危険が生じた時には、城下の各々の町内では、三角州周囲の堤防に出動して警戒にあたりました。
その際、それぞれの町の分担地域が分かるように、昼間は町印を染め抜いた幟を、夜間は町印を入れた提灯を持ち場に掲げました。
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各町人町のユニークな町印を確認することができますが、これも、水と戦い共生してきた城下町の歴史を伝える資料です。
瓦町(かわらまち)と西田町(にしだまち)の町印です。
瓦町は、瓦と水しぶきが描かれています。
西田町は、巻貝=ニシ(萩地域では細長い巻貝を総称してニシと称します)が描かれています。
西をニシで表現しています。
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唐樋町(からひまち)と御許町(おもとまち)の町印です。
唐樋町は唐樋門が描かれています。
三角州北東部から中央辺りに広がっていた入江・湿地の深奥部の町です。
御許町は、植物の万年青が描かれています。
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塩屋町(しおやちょう)と米屋町(こめやちょう)の町印です。
塩屋町は(塩)水を汲む手桶が描かれています。
米屋町は、弦のある枡と米を均す棒とが描かれています。
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今魚店町(いまうおのたなまち)と細工町(さいくまち)の町印です。
今魚町は魚の尾ひれが描かれています。
細工町はカンザシなどの細工物の部分が描かれています。

洪水に備え、緊張した出動に用いられた幟や提灯ですが、町印の中には笑みを誘うものもあります。

幸いなことに城下町萩は、低湿な三角州の上に「まち」が築かれていますが、組織的な防災もあり、甚大な水害被害を被りませんでした。    ・・・ つづく  (清水)     
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by hagihaku | 2009-12-21 13:19 | くらしのやかたより
番組放映のお知らせ~12/18(金)
毎月第3金曜日に私(堀)が出演して山口県近海の魅力をお届けしているNHK山口放送局の番組「海中さんぽ」
今年最後の12月分が明日12/18(金)に放映となりました。

2004年に萩博物館が開館した後、2006年からはこの「萩博ブログ」を立ち上げ、当館の日常のさまざまな話題をお届けしてきました。

そのブログ記事の中には山口県の海にあらわれた珍しい海の生きものの話題もたくさんふくまれています。
それらのうち、もっとも多くの方々の関心を集めた珍しい海の生き物ベスト10を、この番組でご紹介したいと思います。

放送の詳細は下記のとおりです。

とくもり情報ランチ
12月18日(金) 11:30~12:00
※「海中さんぽ」は、この時間内に10分ていど放映される予定です。


なお、この番組ではみなさまが山口県の海で撮影された風景や生物の写真を募集しています!
応募方法については、NHK山口放送局HPの案内をどうぞ!
https://www.nhk.or.jp/yamaguchi/contact/sanpo.html

(堀)

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by hagihaku | 2009-12-17 19:10 | 催し物のご案内
地層はぎとり標本の展示公開
このほど、当館のエントランスホールにて、地層はぎとり標本を展示公開することになりました。

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その展示を行うため、今日の夕方、博物館の職員が準備・設営を行いました。

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この展示物は、伊良尾〈いらお〉火山の噴火で降り注いだ火山灰と火山礫の地層の剥ぎ取り標本です。
伊良尾火山は現在の萩市域と阿武町域にまたがる火山で、今から約30~40万年前に噴火したとされています。
この地層は、広域農道の法面〈のりめん〉保護により覆われる厚い地層の一部をはぎとったものです。
この写真でも、幾重もの層が斜めに積み重なっていることがおわかりいただけると思います。

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この展示物は、伊良尾火山の噴火で放出された火山弾です。
火山弾というのは、噴火口から空高く吹き上げられたマグマのしぶきが空中で回転しながら固まったものです。
色・かたち・大きさ、いろんな違いのあることを実物でお確かめになられてはいかがでしょうか。

展示場所のエントランスホールは、無料ゾーンとなっております。

ぜひ、この機会にご来館賜りますようお願い申し上げます。

(樋口)

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by hagihaku | 2009-12-14 17:58 | 展示のご案内
城下町のあゆみ、その4
萩三角州の上に築かれた城下町が、ほぼ完成する頃の城下町絵図です。
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3点とも、初公開の資料です。
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1800年代初め頃の城下町絵図です。
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現在も、浮島という地名が伝わる三角州北東部です。
弘法寺という真言宗の寺院がありますが、寺周辺の土地が、前の絵図より広くなっています。
やがて寺周辺の土地は畑として利用され、「弘法寺菜園」と呼ばれるようになりました。
永く、城下への野菜供給地として土地利用がなされました。
ちなみに、白く表現されているのは武家屋敷地です。
区画された敷地の中に見えるのは、その屋敷の主の名前です。
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1850年頃に描かれたと考えられる城下町絵図です。
1800年代初め頃の絵図と比べて見てください。
何か気付かれませんか?
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三角州中央あたりに、広く(大きく)白く描かれた一画にご注目ください。
白い一画は、1849年に落成した藩校の明倫館です。
幕末期、文武を奨励する藩の方針で、拡充整備されました。
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敷地の面積は、1万5千坪を超えます。
それまで藩校明倫館は、旧三の丸(城内)にありましたが、敷地は1千坪弱でした。
それに比べると大変な拡充で、藩の力の注ぎぶりが伝わってきます。
三角州中央に、大規模な造成・開発が可能な低湿地があったからこその拡充整備です。
新しい藩校を整備するにあたって、元からの城下町を壊して再編するようなことは行われませんでした。
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明治維新の後、明治2年(1869)の城下町絵図です。
藩庁は1863年に山口に移っていますので、正確には城下町絵図と呼べないのかもしれません。
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幕末期の長州藩・萩の緊張を伝えるものが描き込まれています。
日本海に面した菊ケ浜に築かれた土塁が確認できます。
城下の老若男女が構築工事にあたり、特に女性の姿が目をひいたことから「女台場」と呼ばれました。
延長約2キロメートル、4個所の台場から成っています。
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特に注目していただきたいのが、絵図右上、松本川河口あたりから東(右方)へ延びる水路です。
安政2年(1855)に開削が竣工した姥倉運河です。
河口部分で狭く浅くなる松本川の水を、いち早く日本海へ流出させることが、建設の大きな目的でした。
洪水の対策です。
1680年代の新堀川、1740年代の大溝(藍場川)、そして1850年代の姥倉運河と、水と戦い、共生してきた三角州上の城下町の歴史が見えてきます。

明治2年(1869)の城下町絵図は、江戸時代を通じ、三角州中央辺りに洪水時に遊水池となるような土地を保ち、一方で人工の溝川によって排水・治水を安定させてきた城下の姿を良く伝えています。

実は、この城下町絵図を、現在でも萩の「まち」では、地図として用いることができます。
なぜなのでしょうか。

それについては、次回以降、少しずつご紹介します。 ・・・ということで、続く・・・  (清水)
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by hagihaku | 2009-12-13 10:43 | くらしのやかたより
赤鬼なまこに住む「ひょうきん者」
先日ご紹介した阿武町奈古漁港のアカオニナマコの体の陰から、小さな「ひょうきん者」が登場! http://hagihaku.exblog.jp/12403880/

その「ひょうきん者」の正体を、ご紹介しましょう。

私がアカオニナマコを撮影しようと容器に移し、ナマコの体勢を変えたときのこと・・・
2cmほどの平たい楕円形のものが、ナマコの体の陰から現われたのです。
それは手足をシャカシャカと忙しく動かして水中にまで踊り出して「ひょうきん」っぷりを披露してくれた後、再びナマコの体の表面にピタッと戻りました。

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← 戻った後の写真がこれ。

アカオニナマコの端に、斑点のある小さなものが張りついていますね。

b0076096_11393412.jpg← 拡大してみました。ちょっと不鮮明ですが、カニのような姿をしています。
いろいろな種類のナマコの体表や体内を棲み家としているカニの一種・ナマコマルガザミと判明!
「○○ガザミ」と名がつくことからお分かりでしょう、鮮魚店などでしばしば「わたりがに」の名で売られているガザミのなかまです。

「ネイチャーガイド 海の甲殻類」(文一総合出版)によると、ナマコマルガザミは相模湾より南、東南アジア、ハワイ、オーストラリア、インド洋にすむ、つまり熱帯の海を故郷とするカニのようです。
日本海では見つかったことの少ない、珍しいカニの可能性があります。

同じく熱帯の海を故郷とするアカオニナマコが数年前から次第に萩の海で増えてくるにつれ、このカニも萩の海の「住民」になったのでしょうか。
今たまたま一時あらわれただけなのか、これから増えていくのか・・・萩の海の環境変化を私たちに教えてくれる存在なのかもしれないので、注意深く見ていきたいと思います。

ナマコをはじめ、萩の海で見つかったクラゲやヒトデなどの体の表面から、これまでにもフリソデエビヒトデヤドリエビクラゲモエビなど、新手の「居候」が見つかっています。 

■ 萩博ブログでのクラゲモエビの記事
http://hagihaku.exblog.jp/6058817
http://hagihaku.exblog.jp/6094056


萩の海で、体がそこそこ大きくて見慣れない生き物を発見された方! 
その生き物の体の表面から(ときには体内から)、大発見のネタが躍り出てくるかもしれませんよ。
これも海の博物学の醍醐味。ぜひチェックを!!

(堀)

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by hagihaku | 2009-12-10 11:38 | いきもの研究室より
城下町のあゆみ、その3
江戸時代中ごろに制作された、県下最大級の城下町絵図です。
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素朴な疑問ですが、当時の人たちは、一般的に、高空から見た三角州の姿をイメージできたのでしょうか。
三角州を囲む周辺の山は、せいぜい標高が300メートルです。
現在、私たちは地図を見慣れていて当たり前ですが、鳥の視点で自分達の住む世界を把握できていたことに驚きます。
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この絵図で、ぜひ確認していただきたいのは、三角州の突端(右下)から北西方向に延びる青い線です。
1740年代に開削完工した人工の溝川、大溝です。
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三角州突端近くの大溝です。
大川(阿武川・松本川)から取り込んだ水は、生活用水、農業用水、防火用水として利用されました。
川船による物資運搬にも利用され、川の上流域から運び出された薪炭などが城下にもたらされました。
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大溝は、三角州中央辺りで新堀川と合流します。
延長は約2.5キロメートルあります。
これが設けられたことにより、三角州南部から中央部にかけての排水・治水が安定し、利用できる土地も拡大します。
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この頃には、三角州の形も、現在見ることができるものに近い形に発達してきます。
1680年代竣工の新堀川、1740年代竣工の大溝は、三角州内の排水・治水の安定に大きく寄与し、そのことは、三角州上の城下町の発展にも大きく寄与しています。
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三角州北東部に存在した入江状の沼地・湿地も、次第に土地が拡大しています。
「浮き島」と呼ばれる土原地区の弘法寺周辺は、この絵図が制作された頃には、まさに浮島状態であったことが分かります。
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とにかく大きな城下町絵図です。
誰が、どのような目的で、このような絵図を作成したのでしょうか。
素朴な疑問を覚えます。

実はこの絵図、藩の役所で保管していたと考えられています。
武家屋敷地には、家の主の名前が書かれた紙が貼り付けてあります。
それが何枚も重ねてあり、主が代わると貼り替えていたことが見て取れます。
現在の住宅地図のように、何の誰兵衛が何処に住まいしていたかを、役所の方で把握する絵図であった可能性があります。
藩の施設(本丸や詰め丸、三の丸への出入り口である三ヶ所の総門、三の丸の浜丁の通りに面した藩の役所建物などなど)も詳しく描かれています。

様々な情報を引き出すことができる資料です。
ぜひ、一度ご覧になってください。 
萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展において、好評展示中です。

ということで、「城下町のあゆみ」はつづく ・・・  (清水)
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by hagihaku | 2009-12-07 12:10 | くらしのやかたより