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随想 吉田稔麿(3)
謎のピストル
 尾張藩の陪臣で、随筆家としても活躍した小寺玉晁(一八〇〇―一八七八)が収集した膨大な玉石混交の情報は、幕末維新史料として大変貴重である。そのひとつ、日本史籍協会から大正六年(一九一七)に出版された『甲子雑録』には、元治元年(一八六四)七月十九日の「禁門の変」にかんする史料が多数収められている。長州兵の死に様が具体的に記録されていたりと、ずいぶん生々しいものもある。
 この『甲子残稿』には、御所を守り長州勢と干戈を交えた越前藩が提出した「越前侯届書」という文書が収められている。その中に戦場における「分取品」のリストが出ているが、それによると四十三丁の長州勢の銃を越前藩は取得したようだ。
「一、繋発銃 四拾三挺 内、名前相分り候分、吉村忠恕・石川寅吉・三浦永之進・梅津文内・安原真之助・後藤真吉・近藤新吉・坂井菊蔵・北川鎌蔵・中村藤馬・中村勝之助・野原音雄・福場熊五郎・野々村光利・吉田栄太郎・磯部清十郎・真木菊」
 「吉田栄太郎」のピストルがあったというのが、気にかかる。同年六月五日、池田屋事変のさい、吉田稔麿こと栄太郎は二十四歳の若さですでに闘死しているからだ。無念の死を遂げた稔麿のピストルを、同志が戦場に携えて行ったのだろうか。そんな、ドラマチックな推測をしてみたくなる。栄太郎ファン(世の中にはそういう歴女がいらっしゃるらしい)は、そう思いたいであろう。
 だが、前述のように長州藩にはもう一人、「吉田栄太郎」がいた。稔麿よりも三つ年長で、身分は馬廻りである。彼の銃だったかも知れないと思ったりもする。ならば、栄太郎ファンはがっかりするかも知れない。
 もう一人の栄太郎は、その後どうなったのか。『萩藩給禄帳』には安政二年(一八五五)、吉田家当主として、十八歳の栄太郎の名が出ている。しかし同家の当主は廃藩前年の明治三年(一八七〇)には、三十八歳の「吉田数馬」に変わっている。同一人物ではない事は、年齢を見れば分かる。栄太郎ならば明治三年当時で三十三歳のはずだ。何か事情があったものか、栄太郎は消えている。戦死などの「殉難者」の名簿には名前が見当たらない。もし他界していたら病死などによるものだろうか。
 気をつけなければならないのは、幕末の文書や記録などで長州の「吉田栄太郎」の名を見つけても、即座にあの池田屋事変の殉難者と思ってはいけないということだ。栄太郎の手紙などが市場に出て来たさいも、要注意である。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-02-28 16:00 | 高杉晋作資料室より
今年初のリュウグウノツカイ浮上!
b0076096_17471354.jpg萩博ブログではずいぶんご無沙汰しておりましが、私(堀)から久しぶりの投稿です。

あの伝説の魚がふたたび萩近海に現れたもので・・・

昨日2/21の朝、山口県漁協宇田支店(阿武町宇田)から、萩博物館に一本の電話が入りました。
「地先の定置網に深海魚が入る」「長さ、約4m」「すでに死亡」。

4mにも達する巨体、漁師さんたちが「深海魚」と認めたこと・・・
これは昨年も同じころに日本列島の日本海側に続々と浮上して騒然となった、あの伝説の魚に違いないっ!

私と椋木専門員が公用車を走らせ、宇田に向かいました。

魚市場に横たわっていたのは、まぎれもなく伝説の魚リュウグウノツカイ(竜宮の使い)

宇田支店のご好意により、この巨体は当館に寄贈されました。

標本データは次のとおりです。

■リュウグウノツカイ2011年2月21日
山口県阿武町宇田(定置網)
体長368cm
体高24cm
体幅5cm

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しばらくして、萩ケーブルネットワークのオネエサンが撮影。
が、撮影がいつもどおりに進むわけがありません。

なにしろ、3.6mもあるリボンのような巨体。
全貌を写そうにも長~い脚立の上からでないとフレームに収まりきれません。
異様な撮影風景がしばらく続きました。
b0076096_17592518.jpgこのリュウグウノツカイは萩博物館で保管し、研究や展示などに活用する予定です。

最後にみなさん、めったに見られないショットをひとつ。
リュウグウノツカイって、死後硬直のあと、体が緩むとこんなふうにとぐろを巻いてコンパクトにケースに収まるのです! 
リュウグウノツカイが昔から何匹も何匹も浮上してくる萩だからこそ、試してみるうちに体得したテクニックです!
上記のとおり、昨年の早春~春、リュウグウノツカイが日本海沿岸に何匹も浮上し話題になりました。今年も同じ現象が起こるのでしょうか!? 今後のリュウグウノツカイの出現状況に注目です。
萩の近くで珍魚を見かけられた方、萩博物館までご連絡ください!

(堀)

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by hagihaku | 2011-02-22 18:04 | いきもの研究室より
随想 吉田稔麿(2)
栄太郎(稔麿)好み
 松陰門下、吉田稔麿こと栄太郎の家は十三組中間(槍持ち役)だった。卒族と呼ばれる、最下級の武士である。経済的にも貧しかった。各地から栄太郎が故郷の父母にあてた手紙には金銭にかかわる話が、ずいぶんと出て来る。
 食べ物では鯨肉が好物だったようだ。母と妹の留守中、栄太郎が友達を自宅に連れて来て、鯨肉の味噌煮と飯を気前よく御馳走していたとの逸話が残る(来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』)。
 あるいは安政6年(1859)3月7日、萩から江戸在勤の父にあてた手紙には「何分、金銀をたくわえ申さずては相捌かず、かつまた鯨送り申すべきと存じ奉り候へども、去冬は至って少なく、かつ高く候て、終に送り得ざる、御勘弁遣わさるべく候」とある。鯨の捕獲頭数が少なく、高価で買えなかったと謝っているのだ。
 長州藩では早くから捕鯨が盛んで、日本海でセミクジラを捕った。ところが幕末に近づくや、捕鯨頭数が減少する。背景には、アメリカによる大規模な捕鯨があった。外圧が萩の下級武士の食卓にまで影響しているのだ。栄太郎がそのことに気づいていたとは思えない。しかし、もし知っていたら、
「鯨をアメリカに奪われ、今年も食べれんかった。打ち払うんじゃ!」
と、栄太郎の攘夷論はますます過激になったかもしれない。
 また、栄太郎には観劇の趣味があった。元治元年(1864)5月22日付の父母あての手紙には、京都で歌舞伎を観たと知らせている。観客は「大入り」で、役者は「市川市蔵」と「その親民蔵」。市蔵は三代目(播磨屋)でこの翌年、33歳の若さで没した。民蔵はその実父、二代目尾上多見蔵(音羽屋)のこと。多見蔵は明治以降は東西歌舞伎界の大長老的存在となり、明治19年(1886)、87歳で他界している。栄太郎は多見蔵の白井権八、市蔵の幡随院長兵衛を楽しみ、「両芝居とも大出来にござ候」と賛辞を惜しまない。
 同じ手紙で栄太郎は「追々、四条橋の涼も始まり、賑にぎしくござ候」と述べるが、京都で歌舞伎といえば四条河原の劇場だろう。栄太郎のころ、この地には七軒の劇場(七座)があった。現在はそのひとつ、四条通りに面した南座が残り、松竹が経営する。最近は例の暴行事件のため、市川海老蔵の顔見世興業出演が中止となり、さんざんワイドショーに登場した劇場だ。桃山風の豪壮な建物で、創建は江戸時代はじめというから400年近い歴史を持つ。栄太郎はここで、歌舞伎を楽しんだのかも知れない。任侠モノに興奮して肩を怒らせて京都の街を闊歩する栄太郎の姿が目に浮かぶ。
 歌舞伎だ、涼だのと風流な趣味人としての一面を感じさせるが、この2週間ほど後、栄太郎は池田屋事変で落命する。それが幕末という、動乱の時代を生きる者の宿命なのかも知れない。最後の観劇だった可能性が高い。(一坂太郎)
 
 
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by hagihaku | 2011-02-21 10:47 | 高杉晋作資料室より
今日の萩博物館
2月も後半。この土日は割と暖かく、隣のお庭を借景。
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観光で萩にいらした方も館内にちらほら。
団体でご見学いただいております。
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現在開催中の企画展「なつかしい日本のふるさと・萩」では吉田初三郎の描いた昭和初期の鳥瞰図をいくつか展示しています。
取り上げられている地名は今も観光地となっている場所が多く、「ここにも行ったね。」というお客様の声も。
萩市民の方々にはなつかしい写真・映像が満載の企画展示ですが、他所からいらした方にはどう映るんだろう、と思っていました。
それぞれの琴線に触れるところがあるんですね。

さて、昨日19日から萩博物館エントランスホールではまちじゅう博物館推進課主管の『ヨルダン・ウィーク in 萩』というイベントの一環のパネル展示が行われています。
くわしくはこちら、まち博ブログで。
実際にヨルダンに派遣された九州大学旧西山研究室の方が現地のことなどを解説してくださいます。
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最近話題の中東地域にある国の一つ、ヨルダン…。文字の書き方にしても知らないことばかり。
27日日曜日まで展示されています。
ぜひ、この機会にご覧ください。
(I)
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by hagihaku | 2011-02-20 11:39 | 事務局より
随想 吉田稔麿 (1)
 今年は松下村塾の俊才、吉田栄太郎こと稔麿(年麻呂)が天保12年(1841)、萩で誕生して170年という節目にあたります。もし生きていたら、満170歳ということです。最近はもっと長寿の方の生存が全国各地で「確認」されましたから、驚くことはありません。冗談はさておき、これを機に高杉晋作資料室では4月から、常設展の中に吉田稔麿の史料を出来るだけ盛り込んで展示してゆきたいと考えています。そこで稔麿に関する随想を順次、このブログの中に書いてゆく予定ですので、ご愛読のほどよろしくお願いいたします。

吉田稔麿と八幡信仰
 八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊とされ(異説あり)、皇祖神として位置付けられる。また、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬したから、中世以降は武家の守護神にもなっていた。八幡大菩薩とは、神仏習合による神号である。
 松下村塾の俊才、吉田栄太郎は八幡神を熱心に信仰していたようだ。理由は分からない。ただ、思想的、政治的背景があったわけではあるまい。
 万延元年(1860)10月3日、栄太郎が、出奔先から長州の伯母里村スミ(母イクの末妹)にあてた手紙がある。時候の挨拶のあとで栄太郎は前月22日早朝から流行の「はきくだし」にかかったと、いきなり知らせる。「その日二十五、六度もかよひ」というのは、頻繁に便所に行ったとの意味だろう。それほど吐いて下したのだから、凄絶だったに違いない。さすがに「晩方にはあやうく考えられ、声もかれ、腰も立ちがたく」という、大変な状況になってしまった。
 そこで栄太郎は八幡神に、ひたすら祈る。祈り続ける。「快よくあい成り候はば、御礼に百ケ所の八幡宮社へ参り申すべく」と誓った。すると「ふしぎに明くる朝よりひ快気いたし」、「薬もただ五服」飲んだだけで済んだと喜んでいる。この手紙の主旨は「はきくだし」であり、他に大した話題は述べられていない。八幡神がいかに有難いかを伯母に伝えたかったようだ。変わった手紙である(『野史台維新史料』)。その後、栄太郎が約束とおり百カ所の八幡宮に参ったか否かは知らない。現在でも八幡社の数は、全国に一万とも二万とも言われる。「はきくだし」に、どれほどの霊力があるのかは分からないが。
 昭和34年(1958)に萩の松陰神社境内にオープンした松陰遺墨展示館にはかつて、子孫から寄託された栄太郎の衣服が展示されていたようだ。これは文久3年(1863)1月24日、栄太郎が自分の誕生日に下関の亀山八幡宮に参詣したさいの晴れ着だったという。真偽はともかく、八幡宮参りが栄太郎の人生にとって、重要なイベントだったことをうかがわせる逸話だ。
 栄太郎が稔麿と名を変えたのは、文久3年7月のことである。理由は簡単。長州藩にもう一人「吉田栄太郎」という同姓同名人がいたからだ。
 『萩藩給禄帳』によれば、もう一人の栄太郎は安政2年(1855)当時18歳で、稔麿よりは3つ年長。家格は大組(馬廻り・八組)で、家禄は67石5斗というから、中間(槍持ち)の栄太郎こと稔麿よりも遥かに身分が高い。しかももう一人の栄太郎は、安政4年に江戸の練兵館で剣術修行したことが分かっている。やはり栄太郎稔麿の方も練兵館で修行していたから、確かにややこしかったのだろう。
「お前まぎらわしいっちゃ、名前変ええや」
 なんて上から目線で言われ、とうとう変えることになったのかも知れない。文久3年7月6日の母あての手紙には、「吉田栄太郎は別にこれ有り候ゆえ、名をかえ候よう仰せ付けられ候」と、ちょっと悔しそうだ。
 しかし、転んでもただでは起きない栄太郎である。稔麿という、なんとも高貴な殿上人のような名に変えてしまったのだ。「やっぱり、まろだよなあ」と言ったかどうかは知らない。翌7日の父母あて書簡(近日展示予定)には、次のようにある。
「吉田栄太郎はささわり(差し障り)これ有り、改名いたし候ようとの事、幸い椿八幡宮神主青山上総助にあい申し候間、名をたのみ申し候ところ、年麿と付けくれ申し候」
 萩城下の総鎮守であり、同地方八幡信仰の中心である椿八幡宮(現在の萩市椿)の宮司が、名付けてくれたというのだ。熱心な八幡信者の稔麿である。萩に住んでいたころは、足繁く参詣していたのだろう。ちなみに宮司の青山はのちに奇兵隊の神事なども執り仕切り、明治になると東京の靖国神社にも深く関わった。
 なお、「稔麿」と書籍などでは出ているが、本人は「年麿」「年麻呂」「年丸」などと署名しており、管見の範囲では稔麿という自筆は見当たらない。もっとも年と稔は同意味だから、それはそれでいいのかも知れない。新しい名の由来を、稔麿は同じ手紙で父母に知らせる。
「年と申すは豊年と申す事にて、よい田のほう年と申す心にござ候」
 こうして見ると、やはり年麿または年麻呂と表記するのが一番いいと思うのだが、なぜ稔麿になってしまったのだろうか。
 だが、稔麿にはあと一年の余命も無かった。元治元年(1864)6月5日、京都で起こった、いわゆる池田屋事変で24歳の生涯に幕を下ろしたからである。「はきくだし」の時に大活躍した神様は、残念ながら今回は助けて下さらなかったようだ。
(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-02-07 15:31 | 高杉晋作資料室より
今年の節分行事
節分・立春を境に、骨にしみる寒さが少し和らいできました。
今年、記録することができた節分行事をご報告します。
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市内のとある商店の鮮魚コーナーです。
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クジラの赤身、オバイケ(さらしクジラ)とオオバイワシが並んでいます。
萩地域では、この時期、多くの商店・鮮魚店で見られる光景です。
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これも、とある商店の鮮魚コーナーです。
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ここでも、刺身用のクジラ赤身肉とオバイケ、そしてイワシが並びます。
萩地域では、節分の夜のことを「トシノヨ(歳の夜)」と呼びます。
この日は、一年の節目、年の変わり目と意識されてきました。
クジラは、大きく歳を取るために食されます。
大きな生命力にあふれるクジラを体に取り込むことで、自身の生命力を増進したいという願いがこめられているよう思います。
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スーパーでも、特設コーナーが設けられます。
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やはり、クジラとイワシです。
なぜイワシを食するかについては、明確には伝承されていません。
ただ、これには、年の数だけ豆をいただくということと、共通の要素が見られるように思います。
穀物一粒ひとつぶに籠もる穀霊を取り込むのと同じように、イワシの生命力を丸々いただくことで、自身の生命力を保とうとする意識があったのではないでしょうか。
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赤身、オバイケ、塩くじら(皮)、ベーコン、等々が並んでいます。

萩地域は、山口県から福岡県、佐賀県、長崎県の沿岸にかけての、かつての大捕鯨漁場に面しています。
昔から、クジラを様々な形で利用してきた地域です。
特徴のある文化が、今に息づいています。   (清水)
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by hagihaku | 2011-02-07 10:16 | くらしのやかたより
番組放映のお知らせ~2/2
定期的に水曜の夕方に私(堀)が出演して山口県近海の魅力をお届けしているNHK山口放送局の番組「海中さんぽ」。

今年最初の回は、明日2/2(水)の夕方の放映となりました!

テーマは、冬の海からの贈り物。
冬だからこそ楽しめる、萩そして山口県の海の魅力をお届けします。

番組の詳細は次のとおりです。

情報維新!やまぐち
2月2日(水) 18:10~19:00

※「海中さんぽ」は、この時間内に10分ていど放映される予定です。

(堀)

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by hagihaku | 2011-02-01 16:57 | いきもの研究室より