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随想 吉田稔麿(10)
槍の栄太郎
 吉田栄太郎(稔麿)は「槍」と縁のあった男だ。家格は十三組中間で、これは槍持役だった。嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリー来航を江戸で目の当たりにした十三歳の栄太郎は発奮し、翌安政元年(一八五四)九月五日、小幡源右衛門に入門して槍術の稽古に汗を流す。そのさい提出した誓書の署名は、
「柴田栄太郎(花押)」
 となっている(吉田栄太郎日記)。吉田でないのは、なぜか。推測するに、彼の身分では他人の槍は運搬しても、自分で稽古することは許されなかったのではないか。そこで、柴田という親戚(母の妹の嫁ぎ先)の姓を使ったのかとも思うが、これはまあ想像だ。
 どれ程強かったのかは分からない。しかし文久三年(一八六三)三月ころには、親しかった幕府旗本の妻木向休(田宮)から、槍の穂先を貰っているから(同月十七日母あて書簡)、栄太郎といえば槍といったイメージが出来上がっていたのかも知れない。
 そして、栄太郎は元治元年(一八六四)六月五日夜に亡くなるのだが、最期の様子については諸説ある。栄太郎こと稔麿は、京都三条の池田屋で同志と談合中、新選組に襲われたが、虎口を脱して一旦は河原町の長州藩邸に戻った。しかし槍を持って再び飛び出して、新選組と闘って死んだのだという。その時の相手が、新選組一番隊長の沖田総司だったと書いたのは子母沢寛の『新選組始末記』だが、これは創作と考えていいだろう。
 最近注目されているのは事件直後に京都商人塩屋文助が、栄太郎の叔父里村文左衛門にあてた手紙だ。これによると栄太郎は新選組が斬り込んださい、池田屋にはいなかった。にもかかわらず、藩邸から出て行ったところを殺されたらしい。殺したのはおそらく、市中警備を担当していた京都守護職の会津藩だろう。池田屋にたどり着く前(果たして池田屋を目指していたのかも確証が得られない)、新選組に遭遇する前に会津藩士に道ばたで斬られたとすれば、最期のイメージはずいぶんと異なる。
 ではなぜ、栄太郎は殺されてしまったのか。史料からすると、現場はいまの御池通りあたりということになる。長州藩邸と加賀藩邸の間だ。三条の池田屋からは数百メートルも離れている。そんな所を歩いているだけで、会津藩士に殺されてしまったというのは、ちょっと納得がゆかない。無茶苦茶な話である。
 栄太郎が急を聞いて藩邸を飛び出したのだとしても、会津藩士にシラを切れば済む話ではないか。ただ、この時栄太郎が「槍」を担いでいたとすれば話は違ってくる。槍は栄太郎にとり、最も得意とした武器だったはずだ。会津藩士は当然、職務質問するだろう。
「貴殿、その槍は何でござるか?何で槍を持っておられる」
「何って…(モゾモゾ)」
「怪しい奴じゃ、一緒に来ていただこう!」
「うわーっ」
 と槍を振りかざした途端、会津藩士からばっさり斬られてしまうといった場面が目に浮かぶ。
「槍さえ持たなければ、死なずに済んだものを」
 と、同情する者がいたかは知らない。
 こうなると、果たして栄太郎は「池田屋事変殉難者」と言えるのだろうか。微妙な感じがしないでもない。事変一週間後、山口の長州藩政府に届いた報告によれば、栄太郎こと稔麿は「邸前」で「不意に暗殺」され、即死したとある。あくまで「不意に暗殺」されたのであり、池田屋事変との関連は記されていない。
 遺骸の扱いも違う。池田屋で亡くなった宮部鼎蔵ら「殉難者」の遺骸は、京都守護職により三条の三縁寺に埋葬されたようだ。しかし栄太郎の遺骸は長州藩が引き取り、東山の霊山に神式で埋葬している。
 当初は「池田屋事変」とは別の「吉田稔麿暗殺事件」として認識する者がいたということだろう。それが維新後、広義な意味での池田屋事変殉難者に含まれるようになったとの見方も出来るのではないか。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-31 16:49 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(9)
元気すぎる稔麿
 晩年(といっても、二十四歳で亡くなるのだが)の吉田稔麿(年麻呂)の史料を見ていると、長州藩からこき使われている感がしなくもない。
 長州藩は文久三年(一八六三)八月十八日、京都で起こった政変により、失った地位を取り戻そうと企む。そこで幕府にも人脈を持つ、稔麿の存在が大きくなる。十一月十三日、稔麿は藩命により江戸に赴く。江戸で周旋した後、翌元治元年(一八六四)三月二日、江戸を発ち同月七日京都に入る。
 藩の命運を背負って立つ仕事に従事する稔麿は、よほど張り切っていたのだろう。それを見た同志の久坂義助(玄瑞)は、
「吉田年丸(稔麿)もこの内より上京いたし候につき、年丸のはは(母)へお伝えなさるべく候。すこやかすぎるほどすこやかにおりまいらせ候」
 と、故郷の妻に書き送っている。健やかすぎるほど健やかというのは、一体どれほど元気だったというのか。あるいは久坂は、元気すぎる稔麿を持て余していた風にもとれる。
 そんな元気を買ったのか、久坂は稔麿に京都河原町の藩邸内、願就院に安置されていた洞春(毛利元就)・観光(毛利宗広)両公の霊牌を護持し、帰国するよう命じる。四月六日(四日というが誤りだろう)、京都を発った稔麿は十五日、山口に着き、興国寺に霊牌を納めて役目を果たす。
 半年近い長旅がやっと終わったと一息つく間もなく、藩は元気な稔麿に折り返し東上せよとの苛酷な指令を出す。藩主の幕府あて嘆願書を届ける「飛脚」となった稔麿は、山口から江戸を目指す。
 途中、稔麿は京都に立ち寄った。そして、失地回復のため、京都留守居役として奔走中の桂小五郎に嘆願書を託す。稔麿は江戸行きを中断し、京都に留まることになった。五月十五日、江戸での理解者である旗本妻木向休(田宮)にあてた手紙には、江戸に行けない理由のひとつとして、
「持病の痳疾相激し、旅行難渋につき」
 と述べる。
 以前、江戸大塚に住んでいたころは「女郎買い」(来島又兵衛あて、文久元年)に行ってますと、得意げだった稔麿だ。そのころもらったのかは不明だが、実は下半身の病気を患っていたらしい。十分な休養もとれず、悪化したのではないか。なんだかモゾモゾしていたのかもしれぬが、久坂もそこには気づかなかったのだろうか。
 こうして稔麿は、しばらく京都に滞在することとなった。それから忙中閑ありとばかり、悠長に芝居見物など楽しんでいたが、六月五日夜、いわゆる池田屋事変で二十四歳の生命を散らす。妻木あての手紙を書いた、二十日ほど後のことである。
「あのまま江戸に向かっていたら、こんなことにならなかったのに…」
 と、同情した人がいたかは知らない。
(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-29 13:08 | 高杉晋作資料室より
特別公開「吉田松陰と兵学門人妻木弥次郎・寿之進父子」
当館では明日より、表記のとおり特別公開展示を行います。

「吉田松陰と兵学門人妻木弥次郎・寿之進父子」
詳細については上記をクリックして当館の公式ホームページへ。

この特別公開では、当館が今年度新しく収集した歴史資料のなかでもとりわけ注目すべき資料を展示いたします。

展示資料は、今年2月、東京都在住の妻木達一様より寄贈された計50件の資料の一部です(ほかに1件寄託資料もあります)。

展示では、山鹿流兵学を媒介に吉田松陰と固い師弟関係を結んだ妻木弥次郎・寿之進父子を紹介します。

妻木家は江戸時代中期に吉田家と縁戚関係を結び、幕末には弥次郎・寿之進父子が松陰より山鹿流兵学を学びました。

妻木家の家宝とされた松陰自筆の教訓書(※)は必見の資料です。
※展示資料番号8:松陰が妻木寿之進に与えた教訓書(吉田松陰筆「妻木寿之進に与ふる書」)

そのほか貴重な資料を通じ、松陰の指導方針の一端をぜひご覧いただきたいと存じます。

会期は5月29日までとなっております。

ご高覧をよろしくお願い申し上げます。

○妻木弥次郎【つまき やじろう】(1825~1863)
名は忠順、字は士保。明倫館における松陰の山鹿流兵学高弟で、松陰の諸国遊歴中および脱藩後にいたるまで、藩校明倫館の兵学教場の維持に努めました。

○妻木寿之進【つまき ひさのしん】(1846~1890)
名は忠篤、字は君甫、のちに狷介(けんすけ)と改称。松陰の山鹿流兵学門人で、12歳の安政4年(1857)8月、松下村塾に入門。維新後は地方官を歴任、明治19年(1886)岡山県書記官となり、第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)の設置に尽力しました。


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by hagihaku | 2011-03-25 16:54 | 常設展示室より
随想 吉田稔麿(8)
伊藤博文の稔麿(栄太郎)評
 初代内閣総理大臣となった伊藤博文が少年時代を過ごしたのは、萩の松本村だった。松陰主宰の松下村塾に入る前、伊藤は同村の久保五郎左衛門の家塾で学んだことがある。そのころのこととして、後年伊藤自身が語るところによれば、塾には七、八十人の門下生がいた。伊藤は何人にも後れを取らなかったが、
「独り吉田稔丸と称する者には一籍を輸したり、彼は実に天禀の英才なりし」
 と語った(『伊藤公全集』三巻)。この談話は稔麿こと栄太郎を評するさい、よく引用される。栄太郎が明治まで生きていたら、伊藤を凌ぐ大人物になったに違いないという評価の根拠にもなっている。
 伊藤の談話のオリジナルと考えられるのは、里村千介著『藤公美談』(大正六年)に収められた「藤公曰く、吉田稔麿には閉口」の一篇だ。里村は萩出身で、明治になり伊藤のもとで書生だった人。姉の吉子(大正六年当時七十三歳)は、伊藤や栄太郎と共に久保の塾で机を並べた仲だった。里村は伊藤より直接、先のような栄太郎評を何度も聞いたと述べている。
 栄達を遂げた後の伊藤は、「幕末の志士」を語るさいはなぜか厳しく評する場合が多かった。そうした中でなぜ、栄太郎をかくまで絶賛したのか。その鍵は、談話を聞き取った里村千介という人物にありそうだ。
 栄太郎の母イクは吉田家の生まれで、清内を婿に迎えて家を継いだ。イクには妹が二人いたが、下の妹スミは下級武士の里村文左衛門(文衛)に嫁ぐ。ここで生まれたのが、千介であることに最近気づいた。つまり栄太郎と里村千介は従兄弟関係にあったのだ。
 叔母スミが出産したさい、栄太郎が江戸から慶びの言葉を送った手紙がある。「やすやすと御産御済み遊ばされ、殊に男のかたのよし、さぞかし御よろこび候はん。影ながら私事も誠に、誠によろこばしふ存じまいらせ候」とし、お祝いを送るとか、住吉神社へは自分からは斎を送らないから、よろしく伝えて欲しいなどと従弟の誕生を祝う。文左衛門の実子のうち男子は一人(女子三人、うち一人夭逝)だったから、この時生まれたのが千介と見ていいだろう。
 千介の父里村文左衛門を、栄太郎はあつく信頼していたようだ。安政五年(一八五八)六月十日、栄太郎が江戸から文左衛門にあてた手紙(四月から複製展示)には、条約締結、勅許問題で揺れる朝幕間の情勢が、リアルに報じられている。
 また、万延元年(一八六〇)十月、栄太郎が兵庫から突じょ出奔するさいは、父母にも残さなかった手紙を、文左衛門にだけは書き送っている。そして、父母によろしく伝えて欲しいと述べているから、よほど栄太郎に対して理解ある叔父だったらしい。
 池田屋事変後の元治元年(一八六四)六月十二日、京都商人の塩谷兵助は栄太郎の最後の様子を、親しかった文左衛門に書き送り、その死を悼んでいる。これが近年、事変最中の池田屋に栄太郎が不在だったことを裏付ける史料として注目された。ちなみに文左衛門は明治二十年十二月二十七日、六十八歳で没し、萩の報恩寺に葬られている。里村家は長女吉子の伴侶となった丑衛が継ぎ、千介は別家を立てた。千介は昭和二年十一月四日没。
 長々と書いたが、つまり栄太郎と血縁のある従弟を相手に伊藤が語った事なのだから、多少のリップサービスも含まれると思うという話である。そうした点を考慮して読まないと、なぜ、伊藤が栄太郎を特別扱いしているのかが分からない。
 私個人の意見はというと、史料から浮かび上がる栄太郎の人物像は、上昇意識が強いという共通点はあるものの、伊藤とはかなりタイプが異なる。リーダーシップを発揮し、ぐいぐいと国を引っ張ってゆくような才能は、栄太郎にはあまり感じられない。諜報活動に従事し、みずからを「影武者」(山県小輔ほかあて書簡)と称しているところを見ると、裏方的な仕事を最も得意としたのではないか。幕末史の陰の部分を背負っている人物のような気がしてならないのである。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-24 17:28 | 高杉晋作資料室より
「なつかしい日本のふるさと・萩」ギャラリートーク
現在開催中の企画展『なつかしい日本のふるさと・萩』では3回のギャラリートークが予定され、本日3月12日が3回目の開催日でした。
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今日の参加者は10名あまりでしたが、皆さん、展示を担当した清水学芸員の解説をじっくり聞いておられました。
1930年代の映像をデジタル化してエンドレスで上映しているコーナーでは今も残る建物、商店などに「あれは…」とコメントしてくださっていました。
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何度見ても「双葉幼稚園運動会」の映像は頬が緩み、気持ちが和んできます。
無声の白黒映像が流れる静寂の中、つい笑い声を立ててしまいます。
(I)
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by hagihaku | 2011-03-12 15:41 | 事務局より
随想 吉田稔麿(7)
妹フサのこと
 吉田栄太郎(稔麿)の兄弟は、妹が一人いた。名をフサ(房)という。栄太郎とは11も年齢が離れていた。元治元年(1864)、24歳の栄太郎が池田屋事変で亡くなったさいは、まだ13歳(いずれも数え年)ということになる。多感な時期の少女は、兄の死をどのように受け止めたであろうか。
 栄太郎はこの妹を、ずいぶん可愛がっていたようだ。たとえば、安政5年(1858)6月10日、江戸から叔父里村文左衛門にあてた手紙の末尾には「なお、お房も追々盛人つかまつるべくと祈り奉り候」とあり、その成長を喜ぶ(栄太郎18歳、フサ7歳)。
 文久元年(1861)7月24日、江戸から母にあてた手紙には「お房(10歳)にも手習いせい出し候よう御付たのみ上げまいらせ候」と、その教育にも心を配っていたことが分かる。他の栄太郎の両親あての手紙にも、お房へもよろしくといった添え書きが各所に見られ、その思いが伝わる。
 ただ、残念なことに栄太郎が直接フサにあてた手紙というのは、現在確認されていない。元治元年1月19日、江戸から父母あての栄太郎の手紙には、別にフサへは手紙を出さないとの旨がわざわざ断ってあるから、このころになると、両親とは別にフサにも書いていたようだ。
 一方、フサが栄太郎に手紙を出していたことは、たとえば文久2年5月10日、竹馬の友である伊藤俊輔にあてた栄太郎の手紙(伊藤、栄太郎、いずれも在江戸)に記されている。栄太郎はフサ(11歳)から手紙が来たと喜ぶ。栄太郎は俊輔に、フサは幼いころ芝居を見たことをほのかに覚えているとか、故郷の松本村は「俗曲など」が賑やかで、フサも面白がって見物しているのだと知らせる。それを知った栄太郎は、フサは遊びに出かけるのは嫌いだと言いながら、実は胸中ではとても苦労していたので、自分も安心したと知らせている。苦しい家計の中、フサも子供なりに遠慮し、苦労していたことを栄太郎は知っていたのだ。
 あるいは安政6年1月7日、松陰あて栄太郎書簡を見ると、投獄が決まった松陰が栄太郎の家を訪れたさい、フサ(八歳)が泣き出したとある。投獄が決まり、激しく興奮する松陰が恐ろしかったのだろう。過激な運動に参加する兄を持つだけに、こうしたとばっちりを受けることもあったようだ。
 だが、同志たちも栄太郎の幼い妹に、なにかと気を配ったようである。文久3年3月17日、母にあてた栄太郎ら手紙には「江戸柴田よりお房に着物一反おくり申し候」とある。かつて栄太郎が江戸で世話になった柴田東五郎(薩摩出身の幕臣)が、フサにプレゼントしてくれたというのだ。さらに元治元年1月19日、父母あての栄太郎の手紙にも、柴田より純子を貰ったので、フサの帯にどうだろうか、といった記述も見える。
 栄太郎は日ごろから、
「自分は御国にささげた身故、家をつぐことは出来ぬから妹フサに家をつがしてくれ」
 と語っていた(吉田フミ談)。
 その言どおり、栄太郎没後、フサは大津郡三隅村字小島(現在の長門市)の朝枝家から、義久という婿養子を迎え、吉田家を継ぐことになる。しかしこの夫婦には跡継ぎがなく、義久も没したため、義久の甥市右衛門をまたも朝枝家から迎え、吉田家を継がせた。
 フサは萩松本村に住み、確か昭和7年ころ、80代半ばまで生きたはずである。回顧談などは残っていないが、息子の嫁フミに語っていたという昔話が昭和13年に出版された来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』に若干収められている。もう少し早く、フサから談話を聞き書きする者がいなかったことが、惜しまれる。
 もうひとつ書き加えれば、『松陰先生と吉田稔麿』の口絵に写真と間取り図が出てくる栄太郎の旧宅遺構も、昭和50年代半ばまで残っていた。私の手元にある資料で言えば、昭和55年9月撮影の写真はかなり荒れているが、まだ門や母屋らしきものが見える。しかし昭和60年3月撮影の写真ではそれらは消えて新しい住宅に代わり、誕生地を示す石碑のみがぽつんと立つ。この間に失われたようだが、事情はともかくこれもまた惜しいことである。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-08 13:35 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(6)
稔麿170年の誕生日
 今年は吉田栄太郎こと稔麿の、生誕170年である。誕生日は閏1月24日(20日とも)、もちろん旧暦だ。これを新暦に直すと3月6日だと人から聞いた。暦だから微妙な計算のズレがあるかもしれないが、いずれにせよ長い冬が終わり、春が訪れたころに誕生したのだ。
 さて、その記念すべき日、私は防府天満宮の梅まつりにおいて、恒例の歴史トークをやっていた。ゲストとして俳優の原田大二郎さんにお越しいただき、1時間あまりお話しをさせてもらった。
 せっかくだからと、稔麿生誕170年について触れたら、大二郎さんが稔麿にまつわる思い出話をしてくれた。
 いまから40年ほど前、船山馨原作のテレビ時代劇「お登勢」で淡路の郷士津田貢を演じたさい、吉田稔麿役は橋本功さんだった。稔麿の下に津田がいるという設定で、津田が京都で大藩に相手にしてもらえず右往左往するうち、池田屋事変が起こって稔麿が死ぬというエピソードがあるらしい。以来、橋本さんと自分とは、役と同じような力関係になってしまったと(おそらくは冗談だろうが)話しておられた。私は「お登勢」は未見だが、機会があれば観てみたいものだ。
 そういえば数年前、萩博物館で「長州男児の肝っ玉」という展示を行ったさい、大二郎さんにポスターの原画をお願いしたことがある。暴れ牛を高杉晋作、裃の坊主を久坂玄瑞、木刀を入江九一、棒切れを山県有朋になぞらえて、稔麿が描いたという逸話はよく知られるが、肝心の絵は残っていない。
 そこで、稔麿が描いたとされる絵を再現して欲しいと注文をつけたところ、大二郎さんは本当に丁寧に描いてくれた。大二郎の絵は知る人ぞ知る、個展を開くほどの腕だ。この絵は1度展示された後、いまも博物館収蔵庫に保存されている。100年たったら史料になるかも知れない。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-08 13:02 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(5)
栄太郎IN湊川
 吉田栄太郎(稔麿)の写真はもちろん、肖像画の一枚も残っていない。よって、多くの歴史ファンが思い描く栄太郎は格好いい二枚目らしいが、私はどうしても三枚目にしか思えない。それは私の地元である兵庫県神戸市に伝わる、ある逸話から受ける印象による。
 神戸っ子は同市中央区多聞通りの湊川神社を「楠公さん」と呼び、格別の親しみを抱いている。ご祭神は楠木正成。後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府打倒に活躍するも、叛旗をひるがえした足利尊氏との戦いに敗れ、湊川で自決した非運の武将だ。
 神社が建てられたのは明治に入ってからだが、「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻む立派な墓は元禄5年に水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)によって建てられた。以後、楠木正成は忠臣として称えられ、墓には参拝者が押し寄せる。ついには歯痛にご利益があるなどと、庶民の間で信仰された。
 幕末、天皇に対する忠義が重んぜられるようになると、楠木正成はさらに注目されてゆく。大の楠公信奉者である吉田松陰などは何度も湊川を訪れ、墓前で涙を流し、小遣いをはたいてグッズ(墓碑の拓本)を買い求めた。そして涙を流しながら、楠木正成物語を萩の松下村塾で門下生たちに語って聞かせる。
 そうした影響を受けたのか、門下生の栄太郎も楠木正成には強い思い入れがあったようだ。ある時、湊川を訪れたさい、墓にすがりつき、
「日頃ながさん私の涙、何故にながれるみなと川」
 と詠じながら、泣いたという。
 私が栄太郎は三枚目だと想像するのは、このあたりだ。考えてもみよ。もし、栄太郎の生涯が映画にでもなった場合。二枚目が演じる栄太郎がいきなり墓に抱きつき、泣きながら歌を詠じたら変ではないか。そこで、映画のタッチは急変する。三枚目なら周囲が呆気にとられ、遠巻きに感激屋の栄太郎を見守るといった名場面になると思う。
 さて、この下手ながらも分かりやすい歌だが、栄太郎自筆では残っていない。神戸商工会議所理事の福本義亮(椿水)が、昭和18年2月、神戸の相楽園で開かれた「勤皇遺烈追慕座談会(第二回)」で披瀝した話である。これに対し、神戸市嘱託で市史編纂にあたっていた岡久謂城(父は長州藩出身)は、
「その御話も非常に興味がありますが、吉田稔麿の書いたものが御座いますか、それとも何かに」
 と問う。すると福本は、
「夫(それ)は述懐でして、書いたものは御座いません」
 と返答している。
 神戸の実業界で名をはせた福本は、松陰や栄太郎と同じ萩の松本村出身だ。松陰の熱烈な信奉者であり、遺墨コレクター、研究者としても知られる。『吉田松陰殉国詩歌集』『松陰先生交友録』『大楠公と吉田松陰』『吉田松陰孫子評註訓註』『坐獄日録訓註』『吉田松陰の最期』『下田に於ける吉田松陰』『松陰余話』『吉田松陰の母』『吉田松陰の愛国教育』など、松陰に関する著作も多い。そんな福本の言だから、自筆が無いからといって、私は無視出来ないのだ。
 福本は昭和8年に出版した大著『吉田松陰の殉国教育』の660頁でも、
「  湊川にて
日頃流れぬわたしの涙、何むで流るゝ湊川」
 と、紹介している。その話を福本は萩で得たのか、神戸で得たのかは定かではない。これが龍馬や晋作ならいざ知らず、一般には殆ど知られていない栄太郎の名を、作り話まででっち上げて利用する必要は感じられない。だから、何らかの典拠があったと思うのだが、分からないのが残念である。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-04 18:47 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(4)
晋作と栄太郎
 吉田松陰は門下生の中でも吉田栄太郎(稔麿)を、とりわけ愛した。そして、栄太郎の将来を晋作に頼んでいる。
 栄太郎は武士としては最下級の中間の家の生まれだ。一方、晋作は代々藩主側近を輩出した馬廻りの名門の子である。しかも晋作の父は若殿様の教育掛であり、晋作も将来は藩重役の椅子が用意されていることは、だれの目にも明らかだった。
 松陰はゆくゆく、晋作が栄太郎を引き立ててやって欲しいと願ったのだろう。たとえは安政6年(1859)5月13日、野山獄中から松陰が晋作にあてた書簡には、栄太郎のことを「日夜憂念致し候」とある。あるいは同年10月7日、江戸伝馬町獄中から、晋作にあてた松陰書簡には「吾深く栄太が心事を知れども、栄太遂に棄難し」など、師弟間に齟齬が生まれたことを深く嘆く。そのさい、栄太郎の家庭の事情にまで言及し、晋作に理解を求める(松陰は同月27日刑死)。
 ただ、晋作・栄太郎の自筆史料には、その関係を示すものは皆無ではないが、意外と乏しい。往復文書などは一通も確認できない。思いつくと言えば、安政4年8月、江戸に赴く栄太郎に、晋作が書き与えた送叙だろうか(萩博物館で7月末まで展示中)。
 ただ、二人の関係を示すエピソードは、いくつか存在する。牧野謙次郎が史談会(明治のころ創られた半民半官の維新史料収集の会)などで得たという逸話を綴った『維新伝疑史話』には、次の3話が紹介されている。
「高杉晋作と吉田稔麿
 長の高杉晋作、酒を使ひ酔へば輙ち傍人を苦しむ。同藩吉田稔麿之と飲む毎に、必らず先づ自から酔歌起舞、務めて其の挙動を壮快にし、晋作の為す能はざる所に出づ。晋作駭愕常に之を制止す。曰はく、吉田と飲むは、吾竟に醒人たるを免れず、入江九一亦善く晋作を制す。酒酣に晋作の暴行を為すや、九一故らに頭を垂れ黙坐、其の為す所に任す。良々久しうして頭を昮げ、一睨して曰く、高杉さん余りでありませうと。晋作憮然乃ち止む」
 晋作は酒量は多くなかったが、酒癖があまりよくなかったようだ。酔った勢いで、議論を吹っかけたりしたという。それを知っていた栄太郎は率先して歌ったり、踊ったりして、晋作の出端を挫いたというのだ。
 面白い逸話だが、栄太郎自身も酒癖がよくなかったらしい。下関竹崎の商人白石正一郎の日記、文久3年(1863)8月9日の条には、酔って同家を訪れた栄太郎こと年麻呂が、連れて来た芸者らと大騒ぎのすえ「抜刀、燭台畳などをきり申し候」と、記されている。こうして見ると案外、栄太郎の方が晋作よりも早く酔っただけの話かもしれないと思ったりする。
「山県有朋稔麿の人物を問ふ
 吉田稔麿学を吉田松陰に受け、久阪玄瑞、高杉晋作と共に松門の三傑と称せらる。後に池田屋の変、割腹して死す。山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。」
「吉田稔麻呂
 吉田稔麻呂、長の奇傑士なり。嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覊束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。亡友中原銕蕉(邦平、公爵毛利家編輯所長)嘗て伊藤春畝(博文)に問ふに、吉田の事を以てす。春畝口を極めて之を称す。銕蕉曰はく、未だ審せず、其人明公と孰れぞや。春畝蹴然として曰はく、吉田氏何ぞ当るべけんや。天下の奇才なりと。品川弥二郎嘗て嘆じて曰はく、吉田氏の予に於けるるや、之を譬ふるに、予は玄関に坐して彼は則ち座敷に在りて、一室を隔て、二室を隔て三室を隔てゝ予之を拝して猶ほ自から我が敬礼の足らざるを覚ゆ。彼は誠に天下の豪傑なりと。」
 この二つの逸話からは、夭逝した者に対する後世の人々の期待を感じさせる。あの人がいま生きていたら、どんなに素晴らしい仕事をしたか…という思いだ。松下村塾出身の政治家品川弥二郎は、栄太郎が生きていたら総理大臣になったと語ったと、得富太郎『幕末防長勤王史談』六巻にもある。
 同じく勤王史談の五巻には、下関で幕船朝陽丸を奇兵隊がのっとったさい、解決のために栄太郎が赴く逸話が出てくる。
 重役の周布政之助に抜擢された栄太郎は「身分が必要なら錦の直衣を被ればよい!」と、「毛利の倉から出して貰つて紗(しゃ)の烏帽子に金襴の陣羽織を着用」して、下関に向かう。
 威風堂々と下関に乗り込んだ栄太郎と、晋作の会話が面白い。
「栄太、何(ど)うした其姿は?」
「ウム、今日は只の栄太郎ぢゃ無い。殿様の御名代ぢゃ、晋作頭が高い!」
「オヽ、豪(えら)い、さうでなくては駄目だ、しっかり頼むぞ」
「ハッ、ハッ、ハヽヽヽハ、高杉君今日は許せよ」
 史実ではちょっと考えられない会話である。講談本の創作された会話だから、どうでもいいのかも知れない。しかし私は、栄太郎の本音を言い当てているようで感心させられた。
 栄太郎の一生は、下級武士コンプレックスにまみれていた。現存する数十通の栄太郎書簡を読むと、他人が自分に対して平身低頭したのを「かよう相成り候こそ武士の本意」と喜ぶ。あるいは、遊興のため公費を沢山使えたと感激する。どうしても卑屈な側面が見え隠れするのだが、そんな栄太郎が晋作に対し、憧憬以上の気持ちを抱いていたことは想像に難くない。近寄り難い存在だったのかも知れない。
 晋作は毛利家恩顧の臣であることを最大の誇りとし、死して忠義の鬼になりたいと願う。ただ、誤解してはいけないのは、晋作は治者として、馬廻り役の武士という身分に限りないプライドを抱いている。だから下級武士や、庶民を蔑視しているわけではない。彼らは治者である武士が守り、慈しんでやらねばと考える。差別している気持ちはさらさら無い。
 ただ、日本人というのは変てこな国民で、大抵が自分は武士の子孫だと勝手に思い込んでいる。だから武士の物語が大好きで、武士道などと言われるとやたらと興奮する人がいる。数年前のある映画のキャッチコピーに、侍の血を引くすべての人々に―とかいうのがあり笑った。珍妙なコピーである。
 長州藩の場合、武士は下級まで含めても全人口の一割にも満たないだろう。なんだかんだ言っても栄太郎は特権階級に属しており、その中では下の方に位置するという話である。そして本人は上昇志向が強かったから、コンプレックスも人一倍持っていたのだ。だが、庶民からすれば、栄太郎は憧れの存在だろう。こうした感覚を忘れずに、栄太郎という人物の思考を考えたいと思う。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-03-04 15:10 | 高杉晋作資料室より
番組放映のお知らせ~3/2
定期的に水曜の夕方に私(堀)が出演して山口県近海の魅力をお届けしているNHK山口放送局の番組「海中さんぽ」。

今年度最後の回が、本日3/2(水)の夕方の放映となりました!

テーマは、冬の海からの「わけあり」の贈り物。
冬だからこそ目にすることのできる、萩そして山口県の海の現実をお届けします。

番組の詳細は次のとおりです。

情報維新!やまぐち
3月2日(水) 18:10~19:00

※「海中さんぽ」は、この時間内に10分ていど放映される予定です。

(堀)

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by hagihaku | 2011-03-02 08:42 | 催し物のご案内