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テーマ展示「吉田稔麿の生涯」ギャラリートーク
今年2011年は松下村塾の四天王と称される吉田稔麿が萩市松本新道に生まれて170年の記念の年です。
萩博物館では高杉晋作資料室にてテーマ展示「生誕170年記念 吉田稔麿の生涯」と題し、3期に分けて来年3月まで小展示を行います。
本日4月30日は展示を担当した一坂・特別学芸員が特別解説を行っています。
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午前11時の回には定員20名のところ、30名近くの方にご参加いただきました。
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今回広報が行き届いていなくて、知ってたら参加したのに・・・とおっしゃる方も多いことでしょう。
申し訳ございません。m(_ _)m
今日午後2時からも解説を行います。
一坂学芸員からは日を改めて何度かやろうと思うのでPRを・・・と申し出がありました。
日程が定まり次第、公式HP、本ブログでお知らせします。
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by hagihaku | 2011-04-30 12:22 | 事務局より
萩博物館のGW
明日から大型連休が始まりますね。
年中無休の萩博物館は午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)、当然!毎日開館します。
そこで、この連休中の萩博物館の見どころを紹介します。

まずは、現在開催中の企画展「萩・北浦のクジラ文化~西日本最大捕鯨漁場の軌跡~」。
昨日、この企画展についての萩市広報番組「マイたうん萩」の収録があり、当然のことながら、学芸員が視聴者向けに解説したのですが、趣旨、ストーリーが分かりました。
もしお時間が許すなら、5月7日(土)午後2時からギャラリートークを開催しますので、それに参加されることをお勧めします。
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明日4月29日からエントランスでテーマ展「知られざる萩の焼物Ⅲ 三見・箕ノ越焼」を開催。江戸末期のわずかな期間にしか制作されなかった幻の焼物です。

4月30日(土)は高杉晋作資料室で開催中のテーマ展示「生誕170年記念 吉田稔麿」について、展示を担当した一坂太郎資料室長が午前11時と午後2時の2回、特別解説します。史料から読み解かれた「松下村塾の四天王」の一人、吉田稔麿とは?

4月30日、5月1日はNPO萩まちじゅう博物館が当日参加OKの「昔のおもちゃで遊ぶ広場」を開催。
また、5月3、4日は萩・大茶会の呈茶会場として、多くの方においでいただけることでしょう。

駐車場が込み合う恐れがあります。
臨時駐車場を設けるなど、配慮に努めますが、ご迷惑をおかけすることになるかもしれません。
その際は、ご容赦くださいますよう、お願いいたします。
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by hagihaku | 2011-04-28 19:08 | 事務局より
随想 吉田稔麿(13)
出奔の理由
 吉田栄太郎(稔麿)の生涯のうち最大の謎と言えるのが、万延元年(一八六〇)十月、兵庫警備の陣中から突然出奔(脱藩、欠落)したことだろう。それから栄太郎は丹羽や出雲、あるいは岡山などを経て江戸に赴き、旗本妻木田宮に仕えたりした。確たる証拠は残っていないが、長州藩が黙認していたことは容易に察しがつく。密命を与えられ、諜報活動を行ったようだ。それを裏付けるかのように二年後の文久二年(一八六二)七月、京都で世子毛利定広に謝罪して、簡単に帰藩が許されている。
 もし、無断でこんな勝手な事をしたら無事では済むまい。栄太郎の師吉田松陰が、かつて脱藩して東北地方に赴いたさいは士籍を奪われ、浪人にさせられた。それと比べると栄太郎の罪は更に重いはずだが、罰せられるどころか、一年後には士雇に列せられるという栄達まで遂げている。
 そのあたりの、何か靄(もや)に包まれたような史実を探ってみたいと思うのだが、これは流石に難しい。栄太郎という人物を歴史の中に位置付け、評価する最大のポイントはここにあると考えている。
 さて、兵庫から姿を消すさい、孝行息子の栄太郎はどのように両親に説明したのだろうか。実は直接、手紙は出していない。信頼していた母方の叔父里村文左衛門(文衛)に十月二日付の手紙で知らせたのみである。
 この手紙の内容が、ちょっと面白い。
 出奔前のある夜、栄太郎は酷い嘔吐下痢に苦しまされた。そのさい栄太郎は日頃から崇拝していた八幡宮に懸命に祈ったところ、不思議にも翌朝には全快。栄太郎はもし治ったら、全国百社の八幡宮に参りますと誓った。神との約束を果たすため、栄太郎は旅に出るのだという。「社数多に付、彼是二年かかり申すべく、その上当節は関東辺りへは卒爾に参り難く勢いござ候」と知らせる。
 さらに「私ケ様相成り候上は、さぞさぞ父母当惑とひそかに掛念つかまつり候」と両親を気遣い、叔父さんから「御智略を以てしかるべく御弁説」して欲しいと頼むのだ。本当の理由は言えなかったのだろう。この後、栄太郎の出奔は萩で評判となり、父の清内も迷惑したらしい。
 それにしても、出奔の理由が全国八幡宮参りだと、周囲の者は本気で信じたのだろうか。だとすれば、随分純朴な人たちである。
「さすがは栄太郎、若いのに信心深い感心なやつっちゃ」
 と言ったかは知らない。
 なお、栄太郎が神社仏閣を好んだのは事実のようで、元治元年(一八六四)三月二十一日、両親あての手紙には「この間より、石山寺開帳につき参り滞留」とある。近江石山寺の本尊如意輪観音菩薩半跏像は、三十三年に一度拝めるだけの秘仏だ。わざわざ拝観に行ったというのは、栄太郎の何か別の一面を見たような気がする。(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-04-22 17:25 | 高杉晋作資料室より
随想 吉田稔麿(12)
幻の『攘夷始末記』
 吉田栄太郎(稔麿)は相当な書き魔で、筆も立った。私が知る限りでも八十通ほどの手紙が現存している。たとえば江戸に行ったさい、萩の松陰に頻繁に手紙を出したようだが、安政四年(一八五七)十一月二十五日に書いたかと思えば、翌二十六日にもまた書く。しかもどちらの手紙も、細々としたことをびっしりと書いている。これは「書く」という作業が好きでなければ出来ることではない。文学青年だったのだろう。
 まとまった著作も残している。現存する『東風不競密話』と題された一冊は、大作である。旗本妻木田宮(向休)に仕えたところから書き起こし、文久三年(一八六三)八月十八日の政変以降、幕長間融和に妻木と共に奔走したこと、自分たちが行って来た攘夷の正当性などを述べている。登場人物の人物評などもあり、ちょっとしたノンフィクション文学だ。「志士文学」として、もっと評価されてもいいのではないかとも思う。自筆原本が現存している点も貴重だ(毛利博物館蔵)。
 栄太郎にはもう一冊、言わば幻の著作がある。『攘夷始末記』という。松下村塾以来の同志である馬島甫仙が「吉田無逸所著攘夷始末記を読む」「攘夷始末記の後に題す」と題した漢詩二篇を残しているので、その存在だけは分かる(福本義亮『吉田松陰の殉国教育』)。しかもこの漢詩の添え書きによれば、落合済(明倫館で学び、明治になり内閣書記官元老院議官補)が栄太郎没後、『攘夷始末記』を速やかに上梓(出版)するのが同志の責任だと語っていたという。栄太郎の代表作と見ていいだろう。ただし、出版された形跡は無い。
 ぜひ読みたいものだが、『攘夷始末記』が自筆、他筆にかかわらず残っているという話を聞かない。私は『東風不競密話』の別称ではないかとも思ったが、どうも違うらしい。京都大学附属図書館蔵『吉田稔麻呂伝』に『東風不競密話』とは別に、「癸亥(文久三年)の役攘夷始末記を著はし京師の同盟に贈る」とあるのを見つけた。攘夷の正当性を訴え、外国艦砲撃の実況などをリアルに伝える名著だったかも知れない。京都の同志に送ったというのだが、あまりの面白さに評判となり、回し読みされたあげく、行方不明になってしまったのだろうか。出版が実現しなかった理由も、あるいは早い時期に原本が失われたからかも知れない。
 どこかで『攘夷始末記』が、人知れず眠っている可能性は無きにしも非ずだ。借りたまま忘れて、返さなかった者がいたのかも知れない。
「せっかく書いた自信作やのに。あいつがさっさと返さんから、出版の機会が失われたっちゃ」
 と、あの世で文学青年の栄太郎がぼやいたかは知らない。
(一坂太郎)
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by hagihaku | 2011-04-22 17:22 | 高杉晋作資料室より
収蔵品データベースの閲覧再開について
当館では文化庁の「文化遺産オンライン」を利用し、インターネット上で収蔵品の一部公開を進めております。

先日来、閲覧ができない状態となっておりましたが、このほど再開されました。

更新もすすめてまいりますので、ぜひご覧ください。

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by hagihaku | 2011-04-12 08:26 | 歴史資料調査室より
随想 吉田稔麿(11)
俊さんのこと
 吉田稔麿こと栄太郎の写真や肖像画は1枚も残されていないと以前も書いた。だから、その容姿を知ることは不可能かと思っていた。だが思いがけず、栄太郎の容姿を探る有力なヒントが残されていることを、ご子孫から教えていただいた。
 栄太郎の従弟里村千介の次男は、里村俊文(故人につき敬称略)という。明治になり伊藤博文(俊輔)の書生を5年ほど務めた千介が、伊藤にあやかろうと付けた名だ。
 栄太郎の妹である吉田房子(フサ)や従妹である里村吉子は、俊文の容姿が栄太郎にそっくり、性格もそっくりだと、よく言っていたという。房子はこの少年を「俊さん」と呼んだ。俊さんは周囲から栄太郎にそっくり、そっくりと言われながら育った。
 栄太郎をよく知る血縁者が、これほどの太鼓判を押したのだ。俊さんの写真を見れば、栄太郎の容姿がしのばれるはずである。そこで恐れながら、できるだけ若い時の写真はありませんかと、ご遺族に尋ねてみた。すると大正3年3月、9歳ころ撮影した写真を出して来てくださった。
 なるほど、これが栄太郎かと私は思った。強く結んだ口、切れ長の目は意思の強さを感じさせる。高杉晋作から「眼光人を射る」と称された目だ。典型的長州人の顔だろうが、少々エラが張っている。袴を着け、カメラを睨むようにして堂々と座る姿は10歳そこらの童には見えない貫禄がある。今風のイケメンではない、昔風の日本男児の顔だ。数々の史料から私が想像して来た栄太郎の容姿は、当たらずとも遠からずというところだった。
 ちなみに栄太郎そっくりの俊さんは東京の大正大学を出、難波俊道と称する浄土宗の僧侶となり萩市の報恩寺住職を務めた。平成4年、87歳の天寿をまっとうされたとの事。私の母校の大先輩だったことにも、ちょっと驚かされた。俊さん先輩、一度お会いしてみたかった。それが残念である。
 松陰門下の三傑で言えば、高杉晋作の写真は2枚残り、「乗った人より馬が丸顔」と言われる面長の容姿はよく知られる。久坂玄瑞の写真は無いが、容姿がよく似ていたという遺児秀次郎をモデルに描いた肖像画がある(『久坂玄瑞全集』口絵など)。これまで栄太郎だけが何も無かったわけだが、俊さんの若き日の写真をモデルに描けないだろうか。(一坂太郎)
※里村俊文写真は、高杉晋作資料室の特集展示「吉田稔麿の生涯」第3期(平成23年12月から24年3月末まで)で展示予定です。
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by hagihaku | 2011-04-03 11:13 | 高杉晋作資料室より