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特別展「長州男児、愛の手紙 ~吉田松陰から盟友小田村伊之助へ 久坂玄瑞から妻文へ~」がスタートしました!
萩博物館、春の特別展「長州男児、愛の手紙 ~吉田松陰から盟友小田村伊之助へ 久坂玄瑞から妻文へ~」がスタートしました。

と き 平成27年4月17日(金)~6月21日(日)

本特別展では、吉田松陰の手紙 24通と久坂玄瑞の手紙6通(涙袖帖)を一挙初公開。
手紙の注目すべき部分 を抽出して解説するなど、古文書の魅力も楽しめます。
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当館で開催中の特設展示室「兄松陰と妹文 〜杉家の家族愛〜」とともにぜひご観覧ください。

山口県立萩美術館・浦上記念館の2015年大河ドラマ特別展「花燃ゆ」山口展 などとセットでお楽しみいただけるお得な割引もあります。

<割引の一例>
*萩物語セット入場券(大河ドラマ館と松陰神社宝物殿至誠館と萩博物館とのセット入場券)大人1,000円
*大河ドラマ特別展「花燃ゆ」山口展での割引「文と萩物語 花燃ゆ大河ドラマ館」及び「萩博物館」の入場券又は半券を提示された方は、観覧料(当日)を団体割引

詳しい料金等は、各館のHPでご確認ください。

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by hagihaku | 2015-04-17 09:00 | 企画展示室より
海を拓いた萩の人々、20 ~ 開拓者たちの誉れ ~
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海を拓いた萩の人々の活躍を示すフライキ(大漁旗)です。
※ ホームページ → 「萩博の収蔵品(情報の引き出し)」 → 「萩の民具」 → 「フライキ」
玉江浦や越ヶ浜の漁業者の皆さんは、東シナ海や黄海などの漁場開拓に赴き、フク(河豚)やアマダイの延縄漁で目覚ましい水揚げを記録していました。
右の大漁幟(旗)は、下関中央市場から大漁を祝って贈られたものです。
昭和30年代に、一回の水揚げが100万円を超えるとこの幟が贈られたそうです。
50万円を超えると中央や左のフライキ(大漁旗・優漁旗)が贈られたそうです。
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漁場が近い福岡魚市場や長崎魚市場にも水揚げしていたことから、それぞれの魚市場から贈られたフライキも数多く伝えられています。
長崎魚市場のフライキの前に展示しているのは、越ヶ浜の造船所で制作されたフク・アマダイ延縄漁船の模型です。
昭和50年代の最盛期、越ヶ浜からは、このような延縄船104隻が東シナ海や黄海に出漁していたそうです。
一隻に8人程度が乗り組みますから、越ヶ浜だけで、海の開拓者は800人に上ったことになります。
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越ヶ浜においては、戦後の昭和20年代半ば以降、李承晩ライン設定などもあって漁場を黄海や東シナ海に求めるようになったとされます。
自らの船の位置を把握できる航法装置が導入されるのは昭和30年代に入ってからだそうです。
それ以前は、コンパスを頼りに、例えば「五島列島の男女群島を起点に、南西に2昼夜走り!!」といった大胆な(大雑把な)出漁を行っていたそうです、焼玉エンジンの船で!
そのころに大いに活躍したのが、レットと呼ばれる用具です。
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レットは鉛の錘を投下して海の深さを測る道具です。
「二昼夜走り」で出漁した漁場からどうやって帰ってきたのかと尋ねたところ・・・
海の開拓者であるお父さんたちは、事も無げに、
「出漁した時の反対に針を立てて(磁針で方角を定めて)帰りゃ~ええソいや~」
(エッ??? 自船の位置が分からないのに・・・出発点が不明で目的地に到達できるんですか???)
「時々船をとめてのぅ、深さを測って浅うなる方へ帰って来たソいや~。太平洋に向けて海は深うなるけ~の~」とのこと。

その際に用いられたのがレットなのです。
錘の底は窪んでいて、ここにグリスを塗って投下すると、海底に着いた際に、底の砂や土、貝殻などが付着し、底質を知ることができます。
海の深さと底質とを海図で確認して帰ってきたとのことですが・・・何とも大胆な航法です。
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赤丸で囲んだ五島列島男女群島から、南西へ二昼夜走り!の漁場は、実は、この漁区図の外になります。
帰路、進路を北に取りすぎて朝鮮半島に達した話や、陸地は見えたが場所の見当がつかず、沿岸で操業中の漁船に近づいて、「ここはどこかいの~」と尋ねたら長崎の野母崎の沖だった話など、楽しい(少し恐ろしい)体験談には事欠きません。
海を拓いた萩の人々の大胆さやたくましさには脱帽です。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-04-16 20:48 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、19 ~ 海の開拓者たちを育んだオシクラゴウ ~
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萩市玉江浦に伝わる和船競漕「オシクラゴウ」での競漕中の写真です。
平成5年(1993)までは、4組の青年宿(若者宿)を代表した4艘の和船が、海上はるか往復2里(約8㎞)で熱い競漕を繰り広げていました。
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玉江浦のオシクラゴウは、例年、地区内に祀られる厳島神社の祭礼において催行されています。
かつては旧暦の5月11日、現在は6月第一日曜日に行われることになっています。
祭りが近づくと、上組、中間組、角屋組、下組、それぞれの青年宿を代表する漕ぎ手の名前が貼り出されました。
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青年宿(下組)の前に誇らしげに飾られた獲得トロフィーです。
以前は、漁業者となる若者はすべてこの青年宿に加入し、食事をとる時以外は宿に寝泊まりしながら団体で生活しました。
漁具の調え方など漁業上必要な知識を習得し、船の係留や海難救助、祭礼奉仕等々、若い力が必要とされることに携わりました。
宿を終えた若者は、一人前の漁業者と認められ、やがて中堅の乗組員となり、船頭や漁業の指導者となっていきました。
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競漕船の整備を行う青年宿OBのお父さんたちです。
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海を拓いていったお父さんたちは、若いものの面倒を実によく見ます。
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海で暮らす人たちの気風なのかもしれませんが、後輩たちへの助成は大変に熱心です。
日頃から、海の上で力を合わせて漁を行う姿が目に浮かびます。
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競漕に出発する船を船溜まりの岸で送る人、人、人です。
それぞれ50人程度が加わっていた青年宿において、オシクラゴウの漕ぎ手に選ばれることは、大変に名誉なことだったそうです。
櫓を押す力が強いだけでは選ばれず、将来リーダーになれるような人物が推されたということです。
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いかがでしょうか?
人、人、人、屋根の上にも人。
若者たちはオシクラゴウの漕ぎ手に選ばれるよう精進したとされます。
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応援にも熱が入ります。
このオシクラゴウの行われる日には、地域の人たちが家々を訪ねあい、それはそれは大賑わいとなります。
漕ぎ手に選ばれた若者の家では、あらかじめ畳を裏返してその上にシートを敷き、乱入?に備えたそうです。
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そのような中、出発式です。
「奴を振る」と表現されますが、船板を叩く音に合わせて、赤い襦袢を着た若者が華やかに幣を操作します。
競漕は、玉江浦漁港沖から北西に向け漕ぎはじめ、沖の浮標に立てられた旗をとって帰ってきますが、風や波の状況によっては、往復で1時間近くを要することもあったそうです。
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競漕復路の様子です。
カメラの視野に納まらない所で、たくさんの漁船が旗を振りながら熱く応援を続けます。
時に、熱くなり過ぎることもあったやに聞きました。
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競漕を終えた船と若者を迎える人たちです。
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表彰式の様子です。
誇らしげな若者と、やがて地域や漁業を担っていくであろう若者を見守る人々のあたたかいまなざしが印象的です。

文書資料によれば、船競漕は1700年代の終わりごろには行われていたことが確認されています。
ただ、オシクラゴウの起源については伝えられていませんし、良くわかっていません。

オシクラゴウの漕ぎ手に選ばれた若者たちは、やがて地域や漁業において中堅となり、指導者となってまた若者を育んでいったそうです。
そのことを考えると、オシクラゴウは、長年にわたり、玉江浦という地域が地域の後継者を自ら育成する上で、大変重要な役割を果たしていたのではないかと思われるのです。

海の開拓者たちは、オシクラゴウによって育まれてきたのです。

スイマセン、長くなりました。    ・・・ つづく ・・・    (清水)
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by hagihaku | 2015-04-12 16:59 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、18 ~ 海の開拓者たち、萩市玉江浦のフカ漁 ~
4月11日(土)、折角の桜の花を打った雨がようやく上がりました。
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萩博物館特別展「海を拓いた萩の人々」展は、お陰様で盛況のうち4月5日(日)に会期を終えました。
会期中のご来場者数は、20,922人を数えました。
また、年間の萩博物館入館者数は、前年比107%の95482人となりました。
わざわざのお運び誠にありがとうございました。
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何かと公私ともに事が多かったため、会期中に展示のご紹介を終えることができませんでした。
申し訳ありません。
以下、展示ご紹介のつづきで、「海の開拓者・萩市玉江浦のフカ漁」についてです。
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昭和40年代、1970年頃まで用いられたフカを釣るための鱶延縄です。
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北海道大学水産学部水産科学館に保管されていた明治期の山口県鱶延縄漁具です。
いかがでしょうか。
幹縄のより方が異なっていましたが、構造としてはほとんど変わりません。
玉江浦では、明治期に先進漁具として全国に紹介された鱶延縄を、ずっと使い続けていました。
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玉江浦、鶴江浦からは、江戸時代より、フカヒレ(鱶鰭)生産を目的に、韓海へ鱶延縄漁で出漁を続けてきました。
巨済島、巨文島の近海が主漁場で、荒海を越えての出漁の中で漁船の改良が進みました。
その後、漁場は東シナ海へと広がっていきます。
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延縄の幹縄を製造するために用いられたカワカミソと呼ばれる川上地域で生産された苧麻(苧、右側)です。
細く裂いたカワカミソの繊維を紡いで糸にして、それを多数撚り合わせて太い糸・縄としました。
男たちが出漁中の女性の仕事でした。
その意味では、女性たちも「海を拓いた萩の人々」であり、「海の開拓者」です。
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昭和40年代、1970年頃まで行われた鱶延縄漁ですが、今回、玉江浦のお父さんたちから興味深いお話を伺うことができました。
東シナ海に出漁していたころ(70歳代のお父さんが若いころ)のことです。

中国大陸に近づくと「べっぴんさん」と呼ばれる白いアマダイが良く釣れていたので、鱶延縄漁の前にそれを釣り、ぶつ切りにして餌として用いていたそうです。
「血が出るもんなら何でもエエんじゃぁ」とのことでした。

アマダイですよ、アマダイ!
高級魚アマダイが、当時は鱶を釣るための餌だったのです!
それだけ鱶(フカヒレ)が高値で取引されたということなのかもしれません。

驚きました。

・・・ つづく ・・・   (つづく)
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by hagihaku | 2015-04-11 15:17 | くらしのやかたより