標本づくりに挑戦しよう!
b0076096_1339236.jpg去年からタカラガイに夢中の木原君(明倫小)。
今月上旬に家族と一緒に鹿児島県の海岸に行ってタカラガイを拾ったとのことで、4月29日に堀研究員をたずね、その標本づくりに挑戦しました。

まず、中性紙に採集地や日付けを書いてラベルを製作。
それから、標本ケース(萩博物館ミュージアムショップで販売)に
ナイロン綿を敷いて、すでに洗って乾かしておいたタカラガイとラベルを入れて、できあがり。

b0076096_13392263.jpgごらんのとおり、カッコいい標本ができあがりました。
この方法は、貝の美しさを長ーく保つことができる、
萩博オススメの方法です。

全国の貝殻ファンのみなさんも、
ぜひこの方法でステキなコレクションをつくりましょう。
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# by hagihaku | 2006-05-01 13:44 | いきもの研究室より
これはなんでしょう?
b0076096_15331697.jpgすきとおった三角ぼうしのようなものが二つ。いったい何でしょう?
大きい方は高さ1cm、小さい方は6mmほど。

昨日紹介した、珍生物ヒメゾウクラゲの「貝殻」です。
このとおり、ちゃんと貝殻をもった「巻貝」のなかまであることが分かりますね。

このたびの2匹のヒメゾウクラゲは、昨日大島港で採れた後、
情報センターの小水槽で元気にユラユラただよっていましたが、
残念ながら今朝死んでしまいました。
このような、広い海をただよってくらす生物は
特殊な飼育装置がないと長く飼うことは難しいのです。

ですが、2匹がもっていた貝殻は乾燥標本に、
軟体(やわらかい体の部分)はホルマリン浸けの標本として、博物館の資料にする予定です。
貝殻の標本は、いずれ「萩博いきもの研究室」の標本コーナーの引き出しに登場する予定なので、実物を見にきてくださいね。
(※貝殻標本の公開日は追ってお知らせします。)
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# by hagihaku | 2006-04-28 15:36 | いきもの研究室より
珍生物 ヒメゾウクラゲ発見!
珍生物、ヒメゾウクラゲが萩博いきもの研究室にやってきました。
b0076096_10343335.jpgこれは、4月27日9:00ごろ、萩市大島港の中で、
萩海運の方が捕獲して、萩博物館に寄贈されたものです。

一見クラゲのようですが、実は巻貝の仲間。
背中のまんなかのところに小さな貝殻がついていることからも、
巻貝のなかまであることが分かります。
浮遊生活に適応して、体が透明になってこのような姿になったそうです。

その名のとおり、ゾウのような顔とつぶらな目(触角)がとってもカワイイ生き物です。
じっと見ているとその動きにほのぼのします。

残念ながらあまり長くは生きられないので(2日間くらい)、
実物をご覧になりたいかたはお早めに!
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# by hagihaku | 2006-04-27 10:36 | いきもの研究室より
映画「長州ファイブ」PRコーナー萩博に登場!
2007年・春全国公開予定の映画「長州ファイブ」をPRするコーナーが、萩博物館レストラン前に登場しました!b0076096_947479.gif
市内ロケの状況や松田龍平(山尾庸三役)ほかキャストの紹介したものをパネルで展示。
また、英国ロケで実際に着ていたスーツやロケで使用した手紙やペン、さらには「絵コンテ」や「台本」なども展示しています。(台本は手にとって読むことが出来ますよ~!)

b0076096_9481290.gif中でも、長州ファイブが実際にロンドンで撮影した写真と同じセット、格好で撮った写真が2つ並んで展示!似てるかな?見比べてね!
これだけ、映画「長州ファイブ」のことがわかるのはここだけ!是非足をお運び下さい!

なお、このコーナーは無料展示です。
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# by hagihaku | 2006-04-25 18:01 | 催し物のご案内
晋作と龍馬 ~幕末に輝いた二つの青春~ 始まる!
企画展「晋作と龍馬」がいよいよ始まりました。b0076096_1622294.jpg
前日の21日には、22日からの公開に先駆け、
オープニングセレモニーが開催され、
担当の一坂太郎特別学芸員が、熱いギャラリートークを行いました。

b0076096_16224556.jpg今後のギャラリートークの日程は、
4月22日(土)、29日(祝)、5月4日(祝)・28日(日)の
午後1時30分から約40分です。
ぜひ、ご参加ください。
企画展「晋作と龍馬」のページへ>>
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# by hagihaku | 2006-04-22 09:00 | 展示のご案内
五人の巨人出現!
今年、一大旋風を巻き起こしてくれそうな、いや、くれる5人の男たちが萩博物館に出現!
その名も「長州ファイブ」b0076096_18575042.jpg ! (って、もう皆さんご存知でしょう)
本館、無料交流ゾーン(まち博レストラン前)に等身大パネルを展示しました。
是非、記念写真をお撮り下さい。

               to "6人目の志士"
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# by hagihaku | 2006-04-20 18:58 | 事務局より
市民参加展示「親子でふれる昭和の暮らし」始まる
萩博物館 萩再発見ギャラリーにて、
市民参加展示「親子でふれる昭和の暮らし」が始まりました。

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# by hagihaku | 2006-04-15 12:05 | 展示のご案内
特別記念講演会「ズッコケ三人組 幕末を語る」開催!
4月21日から始まる企画展「晋作と龍馬」の開催を記念して、
特別記念講演会「ズッコケ三人組 幕末を語る」を開催します。

  と き:5月13日(土)午後1時30分〜3時
  ところ:萩博物館講座室(参加無料、要予約)
  申込み:電話にて萩博物館0838-25-6447へ

「ズッコケ三人組シリーズ」などで知られる児童文学作家
那須(なす)正幹(まさもと)氏が、幕末という熱い時代を楽しくお話します。

詳しくはこちら
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# by hagihaku | 2006-04-14 12:30 | 催し物のご案内
ただいま準備中
現在、萩博の企画展示室では
次の企画展「晋作と龍馬」の準備を
急ピッチで進めています。

b0076096_18581571.jpg
10日まで開催していた
「幕末長州藩の科学技術」の展示が片付いて、
今は空っぽの展示ケースにも
これから続々と展示物が入っていく予定です。

b0076096_18581556.jpg
さて、ここで問題です。
写真の展示ケースの中に入っているものは、
ある展示物を支えるための物です。
「ある展示物」とは何でしょうか?

わかった人はコメントに書き込んでくださいね!

※ヒント:「晋作と龍馬」の中でも特に晋作に関連するものです。
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# by hagihaku | 2006-04-11 17:10 | 事務局より
晋作と天神信仰   <晋作コラム その2>
一坂太郎

一、都府楼の瓦硯
 高杉晋作が天神(天満宮)を信仰していたことはよく知られる。政子夫人の回顧談(『日本及日本人』六七七号、大正五年)には「東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していました」とある。あるいは「谷梅之助」と変名したのも、天神にちなんでだ。晋作も東奔西走の日々の合間を縫って、萩城下の金谷天満宮や防府天満宮に参ていったようである。
 晋作が、天神こと菅原道真に傾倒していた理由は「都府楼瓦硯の記」という漢文の随筆によって、うかがうことが出来る。これは晋作が二十一歳の安政五年(一八五八)十一月より江戸昌平黌に在籍した際に書かれた文章だ。
 それによると、昌平黌で机を並べた学友の一人に、久留米藩士の田中子復がいた。田中は道真が筑紫で作った詩の「都府楼わずかに瓦色を看る」という一句を口ずさみ、その「徳」を慕っていた。さらに田中は都府楼の古瓦を求め、硯として愛用していた。
 ある日、田中は学友たちに、この瓦硯についての文章を書いて欲しいと頼む。頼まれた一人である晋作は、田中にこんな質問をしてみた。
「君がこの瓦硯を愛するのは、都府楼の古を愛するからか、それとも公(道真)の徳を慕うからか」
 これに対し田中は、「ただ公の徳を慕うにあるのみ」と返答する。
 宇多天皇に仕え右大臣まで務めた道真は、藤原時平の中傷がもとで筑紫太宰府に流された。それでも道真は皇室の事を忘れなかったと、晋作は言う。
 さらに晋作は、道真の「徳」を偲ぶなら、道真が王朝を尊んだ「志」を慕うほか無い、君が慕うのもこの部分であろうと言った。
 それを聞いた田中は、「足下の言うところ、すなわちわが慕うところなり」と喜んだという。
 同じ文中で晋作は「今天下の人、公の徳を慕うもの多し、しかるに余未だその真によく公の徳を慕うを見ざるなり」とも述べる。当時、天神信仰は一般的だったが、晋作は歴史を理解した上で信仰する者がいないと嘆くのだ。
 晋作の天神に対する思いとは、単なる神仏に対する盲目的な信仰ではない。一千年前に実在した菅原道真という人物に対する敬慕の念だったのである。
 
二、獄中で道真をしのぶ
 その後、晋作は藩主世子の小姓に就き(文久元年・一八六一)、上海に渡り見聞を広め(同二年)、下関で奇兵隊を結成する(同三年)。破竹の勢いで活躍していたが、元治元年(一八六四)三月、ある失敗から誤解を招き、城下の野山獄に投じられてしまった。
 約八十日間を獄中で過ごした晋作は、読書と詩作に励む。その際著した『投獄文記』四月二十五日の条に、次のような古詩がある。
「君不見死為忠鬼菅相公 霊魂尚存天拝峰 又不見懐石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懐躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空為讒間死 自有後世議論公」
(読み下し)
「君見ずや死して忠鬼となる菅相公/霊魂は尚存す天拝峰/又見ずや石を懐にして流れに投ず楚の屈平/今に至って人悲しむ汨羅の江/古より讒間忠節を害す/忠臣は思を君いて躬を懐わず/我亦貶謫幽囚の士/二公を思い起こせば涙胸を沾す/恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり」
 讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった菅原道真と屈平に、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとする。特に評価を後世に委ねるという最後の一節が、たとえ「狂人」と呼ばれて孤立しても、時代の壁に立ち向かおうとした晋作の意志の強さを示している。

三、守護神となる覚悟
 あるいは元治元年十二月、藩政府打倒の兵を下関で挙げた晋作は、大庭伝七にあてて、遺言ともいうべき書簡をしたためているがこの中に、
「弟(自分)事は死んでも恐れながら天満宮の如く相成り、赤間関(下関)の鎮守と相成り候志にござ候」
 と述べている。道真が太宰府で横死後、京都雷による災害が相次いだ。これを道真の祟りであると関係者たちは信じ、怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建される。
 そして晋作もまた、下関の鎮守となることを望むのである。晋作の場合は「怨霊」ではないだろうが、死してもなお戦い続ける「守護神」になろうとしたのだ。
 これは晋作が、厚狭郡吉田への埋葬を希望した遺言とも関係する。ちなみに吉田は昭和三十年に下関に合併されたが、江戸時代は萩の宗藩領である。
 慶応三年(一八六七)四月十六日、吉田村清水山において神式による晋作の葬儀が行われた。その際、奇兵隊教授方で国学者の片山高岳(貫一郎)が「祭文」を起草し、読んでいる。これには晋作の「和魂」は藩主の近くで「守神」として仕え、「荒魂」は「軍の先鉾」となって四方から押し寄せる敵を撃退せよと、祈念されている。晋作の魂は、本人の希望通りの「鎮守」として祭られたことが分かる。ではなぜ、埋葬地が吉田だったのか。
 晋作は特に、本州最西端の下関を「防長の咽喉」と考え最重視していた。幕末の頃、長州藩と外国軍や幕府軍との戦いも、この下関を中心に繰り広げられた。また結局は頓挫したが、イギリスの後ろ盾を取り付け、下関を国際貿易港にすることで、長州藩を富ませようと立案したのも晋作である。
 ただ江戸時代の下関は、晋作が仕えた萩の宗藩の直轄領ではない。吉田までは宗藩領だが、隣の豊浦郡小月になると支藩の清末藩領に入る。さらに下関市街の大半は長府藩領だ。晋作は下関の地を宗藩の直轄にすべく奔走したが、これも実現には至らなかった。
 このように下関は防長二州を防御する最重要地点なのだが、当時の常識からすると「よそ者」である晋作を、ここに「鎮守」として葬るわけにはいかない。だから最も下関に近い宗藩領である吉田が、その埋葬地として指定されたのではないか。
 なお野原秋草著『維新の英傑高杉晋作』(昭和八年)には口絵として、山口県出身の日本画家松林桂月が描く「東行先生信仰之陶製菅公像」が掲げられている。晋作の遺品であるという実物の所在も、真偽すらも私には分からないのだが、そうした道真像を所持していたとしても不思議ではない。
 以上のような歴史的背景をもって東行庵では晋作没後百年祭に梅林を造り、生誕百五十年祭に曲水の宴を催したことを、あえて付記しておく。

四、奇兵隊と天神
 高杉家史料の中に、奇兵隊守護旗という一辺が約五十センチの正方形の旗一旒がある。清末藩主毛利元純の筆で「菅原大神」と大書されている。守護旗は神格化された存在で、戦場に出ることはなく、奇兵隊の本陣に大切に安置されていたという。
 あるいは奇兵隊が慶応二年に小倉城を落とした際、城下の延命寺から戦利品として奪って来た石灯籠一対を奉納したのが、吉田の天神だった。灯籠に奇兵隊は「国家多難、しばしば公廟(天神)に内奸を誅し、外賊を攘わんことを祈る」云々と、奉納の理由を刻んでいる。
 近くには八幡宮や春日宮があるにもかかわらず、あえて天神が選ばれたのは、ただの偶然でもなさそうである。
 奇兵隊が天神を信仰したのは、開闢総督晋作の影響がまず考えられる。それに早くから雷神信仰と結び付いた天神は、各地の農村で特に信仰があつかった。雷は稲妻と別称されるように、稲を実らせるための大切な伴侶と考えられていた。農民出身の隊士が全体の半数近くを占める奇兵隊内に、天神信仰が根付く土壌はすでにあったのだ。
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# by hagihaku | 2006-02-03 14:26 | 高杉晋作資料室より