市民参加展示「親子でふれる昭和の暮らし」始まる
萩博物館 萩再発見ギャラリーにて、
市民参加展示「親子でふれる昭和の暮らし」が始まりました。

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# by hagihaku | 2006-04-15 12:05 | 展示のご案内
特別記念講演会「ズッコケ三人組 幕末を語る」開催!
4月21日から始まる企画展「晋作と龍馬」の開催を記念して、
特別記念講演会「ズッコケ三人組 幕末を語る」を開催します。

  と き:5月13日(土)午後1時30分〜3時
  ところ:萩博物館講座室(参加無料、要予約)
  申込み:電話にて萩博物館0838-25-6447へ

「ズッコケ三人組シリーズ」などで知られる児童文学作家
那須(なす)正幹(まさもと)氏が、幕末という熱い時代を楽しくお話します。

詳しくはこちら
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# by hagihaku | 2006-04-14 12:30 | 催し物のご案内
ただいま準備中
現在、萩博の企画展示室では
次の企画展「晋作と龍馬」の準備を
急ピッチで進めています。

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10日まで開催していた
「幕末長州藩の科学技術」の展示が片付いて、
今は空っぽの展示ケースにも
これから続々と展示物が入っていく予定です。

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さて、ここで問題です。
写真の展示ケースの中に入っているものは、
ある展示物を支えるための物です。
「ある展示物」とは何でしょうか?

わかった人はコメントに書き込んでくださいね!

※ヒント:「晋作と龍馬」の中でも特に晋作に関連するものです。
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# by hagihaku | 2006-04-11 17:10 | 事務局より
晋作と天神信仰   <晋作コラム その2>
一坂太郎

一、都府楼の瓦硯
 高杉晋作が天神(天満宮)を信仰していたことはよく知られる。政子夫人の回顧談(『日本及日本人』六七七号、大正五年)には「東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していました」とある。あるいは「谷梅之助」と変名したのも、天神にちなんでだ。晋作も東奔西走の日々の合間を縫って、萩城下の金谷天満宮や防府天満宮に参ていったようである。
 晋作が、天神こと菅原道真に傾倒していた理由は「都府楼瓦硯の記」という漢文の随筆によって、うかがうことが出来る。これは晋作が二十一歳の安政五年(一八五八)十一月より江戸昌平黌に在籍した際に書かれた文章だ。
 それによると、昌平黌で机を並べた学友の一人に、久留米藩士の田中子復がいた。田中は道真が筑紫で作った詩の「都府楼わずかに瓦色を看る」という一句を口ずさみ、その「徳」を慕っていた。さらに田中は都府楼の古瓦を求め、硯として愛用していた。
 ある日、田中は学友たちに、この瓦硯についての文章を書いて欲しいと頼む。頼まれた一人である晋作は、田中にこんな質問をしてみた。
「君がこの瓦硯を愛するのは、都府楼の古を愛するからか、それとも公(道真)の徳を慕うからか」
 これに対し田中は、「ただ公の徳を慕うにあるのみ」と返答する。
 宇多天皇に仕え右大臣まで務めた道真は、藤原時平の中傷がもとで筑紫太宰府に流された。それでも道真は皇室の事を忘れなかったと、晋作は言う。
 さらに晋作は、道真の「徳」を偲ぶなら、道真が王朝を尊んだ「志」を慕うほか無い、君が慕うのもこの部分であろうと言った。
 それを聞いた田中は、「足下の言うところ、すなわちわが慕うところなり」と喜んだという。
 同じ文中で晋作は「今天下の人、公の徳を慕うもの多し、しかるに余未だその真によく公の徳を慕うを見ざるなり」とも述べる。当時、天神信仰は一般的だったが、晋作は歴史を理解した上で信仰する者がいないと嘆くのだ。
 晋作の天神に対する思いとは、単なる神仏に対する盲目的な信仰ではない。一千年前に実在した菅原道真という人物に対する敬慕の念だったのである。
 
二、獄中で道真をしのぶ
 その後、晋作は藩主世子の小姓に就き(文久元年・一八六一)、上海に渡り見聞を広め(同二年)、下関で奇兵隊を結成する(同三年)。破竹の勢いで活躍していたが、元治元年(一八六四)三月、ある失敗から誤解を招き、城下の野山獄に投じられてしまった。
 約八十日間を獄中で過ごした晋作は、読書と詩作に励む。その際著した『投獄文記』四月二十五日の条に、次のような古詩がある。
「君不見死為忠鬼菅相公 霊魂尚存天拝峰 又不見懐石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懐躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空為讒間死 自有後世議論公」
(読み下し)
「君見ずや死して忠鬼となる菅相公/霊魂は尚存す天拝峰/又見ずや石を懐にして流れに投ず楚の屈平/今に至って人悲しむ汨羅の江/古より讒間忠節を害す/忠臣は思を君いて躬を懐わず/我亦貶謫幽囚の士/二公を思い起こせば涙胸を沾す/恨むを休めよ空しく讒間の為に死すを/自ら後世議論の公なるあり」
 讒言のため、「忠臣」であるにもかかわらず不当な末路をたどった菅原道真と屈平に、晋作は自らの境遇を重ね合わせ涙を落とし、そして苦境を克服しようとする。特に評価を後世に委ねるという最後の一節が、たとえ「狂人」と呼ばれて孤立しても、時代の壁に立ち向かおうとした晋作の意志の強さを示している。

三、守護神となる覚悟
 あるいは元治元年十二月、藩政府打倒の兵を下関で挙げた晋作は、大庭伝七にあてて、遺言ともいうべき書簡をしたためているがこの中に、
「弟(自分)事は死んでも恐れながら天満宮の如く相成り、赤間関(下関)の鎮守と相成り候志にござ候」
 と述べている。道真が太宰府で横死後、京都雷による災害が相次いだ。これを道真の祟りであると関係者たちは信じ、怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建される。
 そして晋作もまた、下関の鎮守となることを望むのである。晋作の場合は「怨霊」ではないだろうが、死してもなお戦い続ける「守護神」になろうとしたのだ。
 これは晋作が、厚狭郡吉田への埋葬を希望した遺言とも関係する。ちなみに吉田は昭和三十年に下関に合併されたが、江戸時代は萩の宗藩領である。
 慶応三年(一八六七)四月十六日、吉田村清水山において神式による晋作の葬儀が行われた。その際、奇兵隊教授方で国学者の片山高岳(貫一郎)が「祭文」を起草し、読んでいる。これには晋作の「和魂」は藩主の近くで「守神」として仕え、「荒魂」は「軍の先鉾」となって四方から押し寄せる敵を撃退せよと、祈念されている。晋作の魂は、本人の希望通りの「鎮守」として祭られたことが分かる。ではなぜ、埋葬地が吉田だったのか。
 晋作は特に、本州最西端の下関を「防長の咽喉」と考え最重視していた。幕末の頃、長州藩と外国軍や幕府軍との戦いも、この下関を中心に繰り広げられた。また結局は頓挫したが、イギリスの後ろ盾を取り付け、下関を国際貿易港にすることで、長州藩を富ませようと立案したのも晋作である。
 ただ江戸時代の下関は、晋作が仕えた萩の宗藩の直轄領ではない。吉田までは宗藩領だが、隣の豊浦郡小月になると支藩の清末藩領に入る。さらに下関市街の大半は長府藩領だ。晋作は下関の地を宗藩の直轄にすべく奔走したが、これも実現には至らなかった。
 このように下関は防長二州を防御する最重要地点なのだが、当時の常識からすると「よそ者」である晋作を、ここに「鎮守」として葬るわけにはいかない。だから最も下関に近い宗藩領である吉田が、その埋葬地として指定されたのではないか。
 なお野原秋草著『維新の英傑高杉晋作』(昭和八年)には口絵として、山口県出身の日本画家松林桂月が描く「東行先生信仰之陶製菅公像」が掲げられている。晋作の遺品であるという実物の所在も、真偽すらも私には分からないのだが、そうした道真像を所持していたとしても不思議ではない。
 以上のような歴史的背景をもって東行庵では晋作没後百年祭に梅林を造り、生誕百五十年祭に曲水の宴を催したことを、あえて付記しておく。

四、奇兵隊と天神
 高杉家史料の中に、奇兵隊守護旗という一辺が約五十センチの正方形の旗一旒がある。清末藩主毛利元純の筆で「菅原大神」と大書されている。守護旗は神格化された存在で、戦場に出ることはなく、奇兵隊の本陣に大切に安置されていたという。
 あるいは奇兵隊が慶応二年に小倉城を落とした際、城下の延命寺から戦利品として奪って来た石灯籠一対を奉納したのが、吉田の天神だった。灯籠に奇兵隊は「国家多難、しばしば公廟(天神)に内奸を誅し、外賊を攘わんことを祈る」云々と、奉納の理由を刻んでいる。
 近くには八幡宮や春日宮があるにもかかわらず、あえて天神が選ばれたのは、ただの偶然でもなさそうである。
 奇兵隊が天神を信仰したのは、開闢総督晋作の影響がまず考えられる。それに早くから雷神信仰と結び付いた天神は、各地の農村で特に信仰があつかった。雷は稲妻と別称されるように、稲を実らせるための大切な伴侶と考えられていた。農民出身の隊士が全体の半数近くを占める奇兵隊内に、天神信仰が根付く土壌はすでにあったのだ。
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# by hagihaku | 2006-02-03 14:26 | 高杉晋作資料室より
もう一人の恋人   <晋作コラム その1>
一坂太郎

一、袱紗に書かれた漢詩
 高杉家史料中に漢詩を書き付けた布地があり、現在は軸装され保存されている。『高杉晋作写真集』(昭和五十九年)では「晋作の詩と脇文」(二四七頁)として紹介され、平成元年の県立山口博物館企画展「高杉晋作と奇兵隊」でも「高杉晋作詩書」として展示された。
 考証された形跡もないまま晋作の遺墨とされたのは、高杉家という出所の確かさに加え、左下に「如是」と刻んだ角印が捺されているからではないか。現にこの印章の実物は、高杉家史料の中に存在する。
 しかし管見の範囲では、他に「如是」の印章を用いた晋作の書は無いし、筆跡も晋作のそれとは雰囲気が異なる。ちなみに高杉家史料中に印章は十一顆あるのだが、すべて晋作が使用したものかとなると、さらに検討の余地があるように思う。
 さて、この度『高杉晋作史料』編纂にあたり、この布地に書かれた詩を解読したところ、次のようになった。

「別時血涙尚留痕 相思●空痛鬼指
 廂雲山海潮際場 懸千重菊盈々密」

 さらに脇文は次のとおり。

「高杉帰関過訪後、尤妓小三所贈幅紗索書于余、酔中、則剛旧作以空責弟酔準」

 これによると、小三なる芸妓が晋作に贈った袱紗に、某が酔って漢詩を書き付けたということであろう。末尾に「準」とあるのが署名とすれば、木戸準一郎(孝允)の可能性が高いと考えるのだが、いかがであろうか(ただし『木戸孝允文書』第八所収の詩歌集には見ない)。
 ともかく晋作の遺品ではあるが、遺墨ではないようである。

※ ●は「台」に「しんにょう」

二、小三との仲
「小三」と聞いて私が真っ先に思い出すのは、『新聞集成明治編年史』の中に紹介された、新橋浜の家女将の回顧録である。この記事の初出は「東京二六新聞」明治四十一年九月十五日号で、ちょうど明治座で左団次が晋作に扮する狂言が上演されていた。
 女将は幕末の頃、「武蔵屋の小浜」の名で知られ、晋作らの酒宴にもしばしば呼ばれたという。芝居を見た女将は、

「高杉さんには其頃御贔屓に成りまして、いつも御座敷へ呼ばれましたが、あの芝居を見ますと、種々昔の事が思出されますよ」

 と、感慨深く半世紀前に思いをめぐらせる。
 また芝居上の晋作と実像とのギャプについて、こんな風に語っているのも興味深い。

「高杉さんの役は左団次さんが活発に演て居りますが、一体高杉さんは、お武士としては至極温順なお方で、何しろ三十やそこらで御病死り成られた位ですから、お酒は召し上っても余り浮いた方ではありませんでした。それでも芝居は活発にしなければ不可ますまいねえ」

 さらに記者から晋作との関係を尋ねられた女将は即座に否定し、

「高杉さんには其頃別に大変に惚れた芸者衆があったのです」

 と、ある芸妓の存在を語り始める。

「ソレは矢張り、妾と一所に出ておった小三といって、さよう妾より二つ三つ年上でしたが、却々別嬪でしてね、その芸者衆が高杉さんに熱くなって、また高杉さんも大層可愛がっていらしッたのですが、その後、高杉さんはお国へお帰りになってしまい、小三さんもそれを苦にして病気になった位でした…」

 この小三が、先述の晋作に袱紗を贈った女性であろう。
 女将の談によれば晋作が一緒に遊んでいたのは桂小五郎と井上聞多、それに使い走り役の伊藤俊介らだったというから、文久二年(一八六二)後半頃、江戸での話ではないか。
 そう言えば同年十二月八日、来島又兵衛が桂にあてた書簡(宮内庁書陵部蔵)の中にも、こんな一節がある。

「楠樹(晋作)之事、必々御油断なき様に願い奉り候。小三は思し召し次第、楠樹之事のみ煩念に堪え申さず候」

 晋作は閏八月に笠間に出奔したり、十一月には外国公使暗殺未遂事件を起こしたりと、藩首脳部からすれば爆弾のような危険人物であった。この手紙からも、晋作に手を焼く様子が感じられるが、「小三は思し召し次第」とはどんな意味なのだろうか。ともかくこの時期、晋作らの周囲に小三という芸妓がいたことだけは間違いないようだ。
 しかし十二月十二日、品川御殿山に建設中だった英国公使館を同志と共に焼き払った晋作は、翌文久三年三月、京都に赴き、二度と江戸の土を踏むことは無かった。小三と再び会う機会も無かったと思われる。
 
三、どんな女性が好みか
 以前、ある古書肆の目録に「芸妓小三」の自筆短冊が出品されていた。目録からは、小三が晋作の恋人と同一人物か否か分からなかったが、興味があったので個人で購入した。届いた短冊には「耳」の題の下、達筆な文字で和歌がしたためられていた。そして裏には「小三」の自署と、旧蔵者による「東京深川芸妓小三 名三艸子松の門ト云、井上文雄門人」のプロフィールが、細かい文字で記されていた。それによると時代的には晋作の生きた時代と重なり、同一人物である可能性が高いと思われる。以下、短冊の裏書から、芸妓小三を紹介しよう。
 小三は幼少より和歌を好み、風雅の心があったが、故あって芸妓になった。一見識ある女で客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかった。つねに三味線の傍らに筆硯を置き、客が望むと席上で揮毫したという。
 水戸藩士武田耕雲斎らは元治元年(一八六四)に筑波山に挙兵した際、同志を墨田川に誘い出し、強引に連れて行ってしまった。そこで小三は、「懐母の歌」を詠み、武田のもとに届けた。武田はこれに感じ、彼らを解き放したという。
 その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念し、一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいたという。短冊の裏書は「実に稀なる烈婦なり、この短冊も予が父文後、深川に遊び酒席へ招き、席上の揮毫なりと云ふ」との一文で締めくくられている。
 あるいは先述の新橋浜の家の女将は、小三のその後の消息につき、次のように語り残す。

「それから種々世の中が変りまして、その小三さんはずッと後、大学病院前の歯医者の何とやらさんに落籍されて、その人の本妻に成りまして、三四年前迄は達者でおりましたが、今はどうしましたかしら」

 これらの史料を見ると、晋作が贔屓にした芸妓小三はかなりの教養があり、プライドも高い女性だったようだ。妻マサにしても、福岡の歌人野村望東にしても、晋作が心許したのは知性ある女性だった。おそらく愛人おうの(のち谷梅処)も表面上はともかく、そんなタイプに連なったのだと思う。
 一方、晋作は頭の回転が悪い女性をわざと好んだとも言うが、何ら史料的根拠のある説ではない。芸妓小三の事を調べてみて、晋作の女性の好みの一端を、あらためて垣間見た気がした。
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# by hagihaku | 2006-02-02 14:16 | 高杉晋作資料室より
晋作コラムを始めました。
高杉晋作資料室長 一坂太郎による晋作コラムをお楽しみください。
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# by hagihaku | 2006-02-01 14:13 | 高杉晋作資料室より