州口(すぐち)を切る 『萩市史 第二巻』によると、1928年(昭和3年)6月24日、梅雨末期の豪雨によって阿武川が増水し、河口に位置する鶴江地区においては、40戸が床上・床下浸水したとされます。 同じく松本川河口に面する浜崎地区や市内の低地においても、相応の被害があったと考えられますが、市史はそれを伝えていません。 低湿な三角州に築かれた萩城下町では、長年、住む場所や耕作地を維持するために出水と戦い、水と上手に付き合う工夫を続けてきました。 例えば、人工の溝川である新堀川と藍場川が、それぞれ江戸時代の1680年代と1740年代に築かれ、それらは長く萩三角州内の排水を担ってきました。 また幕末の1855年(安政2年)には、2ヵ年かけて姥倉運河が開削され、増水した松本川の水がいち早く日本海に流出されるようになりました。 (乞う参照「はまかぜだより31」) それにもかかわらず、の浸水です。 もともと松本川の河口部分は、豊かな川の流れが運ぶ土砂が堆積する場所でした。 これに加え、季節風が吹き募り荒い波が打ち寄せる季節になると、菊ヶ浜の方から砂州が発達し、河口は狭く浅くなっていたようです。 そのため、河口が浅く狭くなっている時季に一時に大雨の出水があると、姥倉運河をもってしても排水が追いつかず、水が溢れることがあったようです。 今回ご紹介する写真は、およそ100年前に撮影されたものです。 松本川の河口部分に発達した砂州(砂丘?)を認めることができます。 実際に鶴江地区の方々からは、「昔は、砂州の上を歩いて浜崎に渡り、加工場などに働きに出ていた(と聞いている)」という話を伺ったことがあります。 そこで、梅雨に入る前などには、砂州をクワで掘って流路を作る「州口を切る」作業を行っていたとされます。 溝を一筋掘ると、流れる水によって次第に流路が広がり、船の出入りも可能になっていたそうです。 この「州口を切る」ことついては、伝承として伺うことはできますが、確かな記録を見いだし得ていません。 残念ながら、いつ頃まで行われていたか、誰がこれを行っていたのか等について、ここに記すことができません。 どなたかご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。 ご教示をいただくことができれば「幸せます」。 (200428寄稿、清水) #
by hagihaku
| 2022-11-11 14:51
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ヘリコプターの菊ヶ浜不時着 昭和39年(1964)、第18回オリンピック競技大会が東京で開催されました。 その年、「あしやからの飛行(FLIGHT FROM ASHIYA)」というアメリカ映画が公開されます。 今から56年前(2020年現在)のことです。 この映画では、福岡県の芦屋基地に駐留している米空軍の航空救助隊が、台風で遭難した日本の貨物船の救助に向かう話を物語の中心として、それぞれ戦争で心に傷を負った救助隊員3人の葛藤が描かれています。 隊員3人を、ユル・ブリンナー(王様とわたし、荒野の七人など)、リチャード・ウィドマーク(アラモ、シャイアン、ニュールンベルグ裁判など)、ジョージ・チャキリス(ウエストサイド物語など)が演じています。 (1964年公開の映画「あしやからの飛行」〔パンフレットより〕) 同じ福岡県の板付基地(現在の福岡空港)と芦屋基地には、戦後、米軍が駐留し、朝鮮戦争(朝鮮動乱、昭和25~28年)では、攻撃機が出撃する前線の航空基地となりました。 そして朝鮮戦争が始まって2か月後には、萩市の見島にも、米軍のレーダー監視所が置かれました。 芦屋基地や見島への米軍の駐留は昭和35年(1960)まで続き、板付基地への駐留は昭和44年(1969)まで続きました。(※1) そのような歴史背景を踏まえて、今回紹介する写真をご覧いただければと思います。 撮影されたのは、昭和31年(1956)2月23日です。 場所は菊ヶ浜で、写真には「不時着した米空軍ヘリコプター」と書付がありました。 「U. S. AIR FORCE」(米空軍)と書かれた機体を、こどもたちを含む多くの人が取り囲んでいます。 どこの米空軍基地の所属か、どのようなトラブルがあったのか、この後不時着機はどうなったのかなどは、情報が乏しく分かっていません。 他にも、「太平洋戦争が始まる少し前に、海軍の戦闘機が菊ヶ浜へ不時着したことがある」という話を聞いたことがあります。 前回のはまかぜだより「飛行機と菊ヶ浜」でご紹介したように、広い広い砂浜が広がっていたからこその、ヘリコプターや飛行機の不時着です。 ちなみに、写っているヘリコプターは、シコルスキー社製造のH-19型で、操縦士2名の他に、10名の兵員、または救助員2名と担架6台の搭載が可能であったとされます。 ( 200201寄稿、清水 ) (※1) 昭和45年(1970)、日米安全保障協議委員会おいて米軍管理の板付飛行場の返還、運輸省への移管が決まる。 米軍の常駐機がいなくなるのは昭和44年(1969)。 #
by hagihaku
| 2022-10-27 09:45
| くらしのやかたより
飛行機と菊ヶ浜 ライト兄弟が、ライトフライヤー号で世界初の動力飛行を行ったのは、明治36年(1903)12月17日のことです。 それから13年後、大正5年(1916)9月25日、「国民飛行協会」が主催した「飛行会」において、萩の空を初めて飛行機が飛びました。 飛行機の名前は「つるぎ号」、操縦士は陸軍の井上武三郎「騎兵(?!)」中尉でした。 菊ヶ浜で撮影された大変に鮮明な機体写真と、指月山を背景に飛行している写真が伝わっています。 機体は国産で、資料によると全幅が15.5m、全長が約8.5m、ルノー式70馬力のエンジンを積んでいたようです。 桧(ひのき)や樫(かし)を骨組みとし、翼は帆布張り、重さは約480㎏、飛行速度は105㎞/h、航続時間は4時間とされています。 これらの写真で注目されるのは、広々とした菊ヶ浜です。 飛行機は、離着陸のために一定の距離を滑走する必要があります。 菊ヶ浜でそれが可能であったということは、平坦で、機体の重さで車輪がめり込まない締まった土地があったということかと思います。 古い絵はがきや古写真などを見ると、住吉神社境内から波打ち際までの間には、大変に広い砂浜が広がっていたことが分かります。 かつては、加工した魚を干す干し場として利用されていた場所で、その辺りが滑走路として使われたのかもしれません。 (他の「飛行会」開催地では100m×250m程度の練兵場などを利用) 「つるぎ号」を用いた「飛行会」は、松江、米子、浜田、山口と各地で開催されました。 山口町(現山口市)での「飛行会」は、観覧料を集めての開催でしたが、「数万人」の人が詰めかけ、入場できない人たちが高台や山に集まり賑わったとされています。 新聞記事によると、「つるぎ号」は、山口町においての「飛行会」を終えた後に、解体、梱包して、4台の荷馬車に載せて萩に運ばれたようです。 残念ながら、萩における「飛行会」当日の様子を伝える新聞記事は見いだせませんでしたが、この催しに合わせて、飛行機煎餅(せんべい)という土産品が売り出されたとされます。 ちなみに「国民飛行協会」は、飛行機の有用性を説き、飛行機に関わる人材を育成する目的で設立されたもので、代表は下松出身(幼少のころ萩市長野住)の元陸軍中将長岡外史でした。 長岡は、「日本の航空の先駆者」とされますが、陸軍軍人の時代にスキーを導入普及し、「日本のスキー先駆者」としても知られています。 ともあれ、「飛行会」の成功は、広い菊ヶ浜あってこそのことでした。 菊ヶ浜は、浜崎の水産加工業を支えただけでなく、現在に続く航空業の発展に一役かっていたのです。 (191010寄稿 清水) 〈参考〉 『山口県の航空史あれこれ』、『萩の百年』 #
by hagihaku
| 2022-10-27 09:19
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土地の発する声を聞く 今年(2018年)の5月下旬、NHKの「ブラタモリ」という番組で、城下町萩が取り上げられました。 その中で、昔から萩の人々が、土地の特徴を良く理解して暮らしてきたことについて紹介されました。 城下町萩は、阿武川下流の三角州上に形作られた「まち」です。 実はこの三角州、平坦なようで微妙な起伏があります。 例えば、三角州北側には砂丘が広がり、川に面しては川が運んだ土砂が積もった自然堤防が形作られていて、少し標高が高くなっています。 浜崎においては、「吹き上げ」と呼ばれる坂道をはじめ各所に緩やかな坂道があり、砂丘の「縁(へり)」を体感することができます。 水に恵まれ、時には恵まれすぎて洪水にみまわれた三角州の上の城下町ですが、人々は、この少し標高の高い所に住んで、出水の被害をまぬかれてきました。 一方、市役所や明倫小学校のある萩三角州中央辺りには、標高が2メートルに満たない低地が広がっています。 その一帯は、永くハス田や水田として利用されていました。 それは、大雨の出水に備えて、ハス田や水田として維持する必要がある場所でもありました。 そのような場所を「遊水池」と呼びます。 かつて三角州内では、大雨による大量の出水は、一旦この「遊水池」にあふれていました。 そのことで、そこよりも少し標高の高い一帯は洪水をまぬかれることができました。 阿武川の上流にダムが建設されるまでは、ハス田や水田は、農地としてだけではなく、大雨の出水を調整する場所としてとても重要な役割を担っていました。 さてそれでは、「遊水池」の水は、どのように川や海に流出させたのでしょうか。 実は、そのために大変役立ったのが、人工の溝川である「新堀川」であり「藍場川(上流部では大溝)」です。 いずれも、江戸時代の1680年代と1740年代に、三角州内の排水を目的の一つとして築かれたものです。 さらに、砂が集まって狭くなる松本川の河口に滞る出水を、いち早く日本海に流出させる「姥倉運河」も設けられました。 これも人工の運河で、江戸時代終わり頃の1855年に、2年余の工事を経て完成ました。 城下町に住む人々は、水に恵まれた「まち」において、土地の発する声を聞き分け、土地の特徴に合せて、工夫を凝らして水と上手に共生してきたのです。 日本の多くの都市では、高度経済成長期に、排水を担ってきた溝川が暗渠となり、道路や駐車場になりました。 ところが萩においては、新堀川や藍場川は、現在でもほとんどが蓋で覆われた暗渠になっていません。 私たちは、城下の人々が土地の発する声を聞いてきた歴史の跡を、身近に目の当たりに見ることができます。 それは大変に貴重なことなのです。 (180715寄稿 清 水) #
by hagihaku
| 2022-10-25 18:24
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萩のかまぼこ、その2 江戸時代に萩城下に住まいした奥村早太(隼大)という藩士が、明治時代になって描いた萩の風物画が伝わっています。 描かれた人物の身なりなどから、江戸時代の城下の様子を描いたとものと考えられます。 その中に、カマボコを作っていると考えられる人物を描いた部分があります。 細部を見ていくと、一人は魚をさばいているようで、一人は包丁2丁を両手に持って何か(魚の切り身?)を叩いているようです。 また、もう一人は長いレンギ(すりこ木)で擂り鉢(一部の地域では方言でカガチと呼びます)の中の何か(細かくした魚肉?)を擂り合わせて練っているように見えます。 いかがでしょうか。 30年ほど前、Oかまぼこ店のYさんに、かまぼこ作りの工程を教えていただいたことがあります。 それによると、この絵画に描かれているのは、「シゴ」、「叩き」「擂り・練り」の工程になります。 「シゴ」というのは、処理するとか始末するといった意味の山陰地方の方言です。 ここでは、かまぼこを製造するための下処理というような意味合いになります。 魚の頭を取って三枚におろし、魚の身(魚肉)と骨や皮とを分離する作業です。 その身を包丁で細かくする作業がタタキです。 これをさらに細かくするために、現在はミンチ機(機械)が用いられています。 続く「擂り・練り」の工程には、かつては、長く太いレンギと大きな擂り鉢(カガチ)が用いられました。 レンギは方言ですりこ木のことですが、現在伝わっている、かつてかまぼこ作りに用いられたレンギは、長さが2メートルほどあります。 作業場の梁からこれを吊り下げ、体重をかけて練っていたそうです。 摺り鉢をカガチと呼ぶ地域があることは先に触れましたが、語源は良質な焼き物の産地名であるカラツとされています。 かまぼこ製造に用いられた大きな擂り鉢は、残念ながら伝わっていません。 現在、この工程は機械化されています。 萩地域では、昭和30年(1955)ころから、かまぼこ用の擂潰機(らいかいき)が導入されたと聞きます。 ちなみに、大正15年(1926)にこの擂潰機を考案し、現在、練り製品加工機械の製造で業界一位を誇るのは、宇部市の株式会社ヤナギヤです。 創業者柳屋元助の父柳屋米蔵は、浜崎新町中丁の出生とされます。 住吉神社拝殿の前に、両名の名前が刻まれた、昭和六年(1931)二月に奉納された大きな灯篭があります。 (つづく) (180220寄稿 清水満幸) #
by hagihaku
| 2022-10-21 18:51
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