城下町萩のひみつの7 ~ 大きな災いを被らなかった「まち」 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を、今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形作られた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します。

「まち」が大きく改変されなかった理由=ひみつの一つに、大きな災害を被らなかったことを挙げることができます。
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上からそれぞれ、1945年、昭和20年4月13日撮影、7月5日撮影、8月7日撮影の萩三角州の航空写真です。
上空30000フィート以上の高空から撮影された大変高精細な写真で、いずれも、戦時中に米軍が撮影したものです。

※ 元徳山工業高等専門学校教授の工藤洋三先生のお手を煩わせ、米国公文書館から取り寄せることができました。
※ 以下にご紹介する米軍の機密資料も、工藤先生のお計らいで入手することができたものです。
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機密扱いの米軍資料4枚の内の2枚で、日本の中小都市を攻撃する計画書です。

太平洋戦争末期、日本の主要都市や軍事拠点をほぼ破壊し終えた米軍は、続いて日本の中小都市の爆撃を計画します。
戦争の継続を、より困難にさせるという目的です。
その際、人口を基準に180の都市が目標としてリストアップされます。
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実は、その攻撃目標180都市のリストの157番目に、「Hagi」が掲載されています。
そうです、萩は攻撃目標の一つだったのです。
それ故に、先にご紹介した偵察写真が撮影されているのです。

しかし幸いなことに、萩の「まち」は、敗戦により爆撃を免れました。
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リストアップされた180の都市の一覧と被災の状況を図にまとめてみました。
赤色で表現された都市名と地図上の点とは、爆撃を受けた都市です。
およそ3分の2の都市が被災しています。
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もし仮に戦争が長引いていたら、萩の「まち」も、日本の多くの都市が被ったような戦災により破壊される可能性が有った!ということです。

萩の「まち」は、しばしば水害に見舞われはしましたが、治水・排水の工夫を重ねて上手に水と共生をはかり、甚大な災害を免れてきました。
「まち」を焼き尽くすような大火災にもみまわれませんでした。
震災にみまわれることもありませんでした。
そして戦災を免れることもできました。

いかがでしょうか。
大きな「災い」を被らなかったことにより、萩の「まち」」は破壊や改変を免れ、その結果として、今でも江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができるのです。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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# by hagihaku | 2016-02-17 18:15 | くらしのやかたより
白黒まだら模様のタツノオトシゴ、萩博物館で限定公開(2016.2.11~17)
つい先日お知らせした白いナマコに続き、めずらしい白黒まだら模様のタツノオトシゴも萩近海で発見され萩博物館が寄贈を受けたので、2/11から1週間程度ほど飼育展示します。
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【発見から寄贈の経緯】
採集地:阿武町宇田漁港 
採集日:平成27年12月28日(月) 
採集者:波田野芳正さん(阿武町在住)の息子さん
体長:約7 cm 
経緯:採集後、波田野さん方のイケスでストックされ、今月に入ってから萩博物館へ持ち込まれました。

【このたびのタツノオトシゴについて】
タツノオトシゴはヨウジウオ科の魚類で、青森県から九州、朝鮮半島南岸、黄海などの浅い沿岸の藻場
にすんでいます。
独特の風貌や動きのため、水族館、アクアリスト、ダイバーなどの間で人気がありますが、たいへん泳ぎが苦
手で逃げるのが遅いため、生息環境の海藻や岩に似た体の色や模様をもつことで敵から見えにくくなっています。
すむ環境により、茶色・黄色・赤色・黒色、さらにはそれらのまだら模様などさまざまな色彩のものがいますが、今回のように白黒のまだら模様のものはめずらしく、なかなか発見されることがありません。

【飼育展示について】
今回の白黒まだら模様のタツノオトシゴは、ホワイト・ブラウン混合のチョコレート細工のよう!?
・・・というわけで、ちょうど今がバレンタインデーの時期にあたることから、萩博物館で飼育展示を開始します。
なお、タツノオトシゴ類は生きた餌(小さな甲殻類など)しか食べないため長期にわたって飼育公開することが難しいため、1週間程度の限定公開とさせていただきます。

展示場所: 萩博物館エントランス(無料ゾーン)の水槽
展示期間: 平成28年2月11日(木・祝)~17日(水)
      (体調によっては早めに展示を中止する場合があります)

フラッシュや三脚を使わない撮影はOKです!
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先日お知らせした白いナマコほか五色セットのナマコたち・・・「長州なまこファイブ」と共に、ぜひこの機会にご覧ください。

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# by hagihaku | 2016-02-11 09:17
城下町萩のひみつの6 ~ 三角州を迂回して敷設された鉄道 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を現在も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形づくられた「まち」が大きく改変あされていないことを意味します。

大きな改変をもたらさなかった要因=ひみつの一つに、近代化の象徴である鉄道の萩三角州迂回敷設を挙げることができます。
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1925年、大正14年4月3日、萩駅が開業した際に発行された観光案内!鳥瞰パノラマ図「萩を中心とせる付近名所図絵」です。
萩沖の上空から、独特の構図で、萩三角州や阿武川上流の長門峡が描かれています。
鉄路は赤い実線で表現されており、三角州の川外、西側(右側、長門市方面)から、玉江駅、萩駅、東萩駅を認めることができます。
鉄道開業当時は美祢線で、鉄路は正明市駅(現長門市駅)から延伸されました。
東萩駅の先は破線となっており、これから鉄道が整備されることが分かります。
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開業間もない昭和初年頃の玉江駅舎です。
玉江駅は、1923年、大正12年に合併して萩町となった旧山田村に設けられました。
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建築途中の萩駅舎です。
I 材木店によると、用材は主に旧川上村より集められたとのことです。
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竣工間近の萩駅舎です。
開業当時は美祢線の終着駅で、機関車駐泊所や転車台なども設けられました。
また駅舎内には、賓客の利用を想定して、二等待合室も設けられました。
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開業間もない昭和初年頃の萩駅舎です。
この駅舎は現存しており、旧明倫小学校の本館とともに、山口県で最初に国の有形登録文化財に登録(第2号)されました。
萩駅は、合併して萩町となった旧椿村に設けられました。
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三角州突端の上流に架橋された阿武川鉄橋です。
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開業間もない昭和初年頃の東萩駅舎です。
萩駅と東萩駅の間の開業は、1925年、大正14年11月1日のことです。
東萩駅は、合併して萩町となった旧椿東村に設けられました。

そうです、鉄道の駅は、三角州川外の、それぞれ旧山田村、旧椿村、旧椿東村に設けられたのです。
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萩三角州の微妙な高低差を色分けして表現した鳥瞰図です。
赤色で表現されているのが、明治維新以降に建設整備された施設や道路です。
三角州内の低湿な場所に、それらが設けられていることが確認できます。

青色の実線で表現されているのが鉄道です。
三角州を迂回する形で敷設されていることが確認できます。

もし仮に、鉄道が三角州の中に敷設され、大きな中心駅が整備されていたらどうなったでしょうか?
江戸時代に形づくられた「まち」は分断され、駅の裏表の開発が進んで「まち」の構成も変わっていたと考えられます。
鉄道が三角州を迂回して敷設されたことによって、結果として江戸時代の城下町絵図を地図として使える「まち」が維持されたのです。

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1960年、昭和35年ころの航空写真です。
萩三角州南西部上空から東方、三角州中央辺りを撮影したものです。
広い農地を確認することができます。
ここに鉄道が敷設されていたら、城下町萩はどのような「まち」になっていたでしょうか。

地方新聞の記事によると、1923年、大正12年8月9日、椿町金谷神社境内で、大津郡正明市(現長門市)と萩間の鉄道起工式が行われています。
この際、萩の駅設置場所について「萩町内に一ヶ所、もし郊外を通過する場合は、山田・萩・椿東の三村に必ず三ヶ所を設置せらたきこと」と要望したとされます。

また、萩市の実業家・政治家である厚東常吉の伝記『雷鳴』には、萩町と周辺三村の町村合併が議論される過程で、当初一つ駅の案だったものが、合併促進の方策として三駅設置案が有力となったと記されています。

村会の議事録などでの確認はできませんでしたが、町村合併を進めるために各村に駅を設けたという伝承は、かつて実際に耳にしたことがあります。
近代化の象徴である鉄道の敷設が、結果として、今に息づく城下町萩を大きな改変から守ったともいえます。

以上、城下町萩のひみつの6でした。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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# by hagihaku | 2016-02-10 18:03 | くらしのやかたより
白・黄・赤・緑・黒の「長州なまこファイブ」、萩博物館で飼育展示(2016.2.11~)
本年1月、珍しい純白のナマコと黄白色のナマコが萩近海で見つかり、萩博物館が寄贈を受けたので、2/11(木祝)より飼育展示することなりましたのでお知らせします。

【発見から寄贈の経緯】

①純白のナマコ   
採集地:長門市油谷久原 
採集日:平成28年1月22日(金) 
採集方法:磯見漁
採集者:磯嶋正嗣さん(長門市在住)  
体長:約25 cm 
経緯:山口県漁協仙崎地方卸売市場に出されたものを山口県水産研究センターが引き取り、萩博物館へ搬送

②黄白色のナマコ
採集地:萩市江崎湾 
採集日:平成28年1月11日(月) 
採集方法:ルアージギングでかかる
採集者:大林洋幸さん(萩市在住) 
体長:約20 cm   
経緯:萩博物館へ連絡が入り、館職員(堀)が大林氏の滞在地・須佐を訪問し引き取る

【これらのナマコの種類について】
純白・黄白色のどちらも、一般に食用とされる「マナマコ」(真海鼠)*の突然変異と考えられます。
通常、「マナマコ」のうち岩礁にすむ赤褐色のものは「赤なまこ」、砂泥底にすむ緑褐色~黒褐色のものは「青なまこ」「黒なまこ」と呼称されますが、そのいずれかが色素がなくなり純白に、または色変わりして黄白色になったものと思われます。
(* 現在、「マナマコ」という種類そのものは、北にすむものと南にすむもので別種、または「赤なまこ」タイプと「青・黒なまこ」タイプとで別種と考えられています。)

今回のもののように白っぽいものはほぼ毎年のように全国各地で数回ずつ見つかっているものの、低い確率でしか生まれてこない上、自然界では目立つため外敵に襲われやすいらしく、通常タイプの個体と比べて非常に少ないため、見つかると「縁起物」「幸せを呼ぶ」として喜ばれます。

【飼育展示について】
萩博物館では平成18、19、25年にも近海の白いナマコを飼育展示したところ好評だったため、今回は純白・黄白色のナマコに、上記の赤褐色の「赤なまこ」、緑褐色の「青なまこ」、黒褐色の「黒なまこ」も参考として加え5匹セットで「長州なまこファイブ」として飼育展示します。
なお、ちょうどバレンタイン~ホワイトデーの時期にあたるため、個々にスイーツにちなんで下記のような愛称をつけて親しんでもらいます。

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萩博物館で2016.2.11から公開される「長州なまこファイブ」
左から順に
・純白のマナマコ(愛称「マシュマロ」
・黄白色のマナマコ(愛称「マロン」
・「赤なまこ」タイプのマナマコ(愛称「ラズベリー」
・「青なまこ」タイプのマナマコ(愛称「ミント」
・「黒なまこ」タイプのマナマコ(愛称「ショコラ」


大林洋幸さんからは黄白色のナマコだけでなく、赤・黒タイプのナマコもご寄贈いただきました。

展示場所: 萩博物館エントランス(無料ゾーン)の小型水槽
展示期間: 平成28年2月11日(木・祝)~3月31日(木)(可能な限り、その後も飼育展示を継続)

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# by hagihaku | 2016-02-09 12:51 | いきもの研究室より
城下町萩のひみつの5 ~ 節分と迷宮 ~
2016年2月3日、本日は全国的に節分です。
節分は、書いて字のごとく季節を分かつ日で、翌日が春の始まりである立春です。
この日の夜のことを、萩地方ではトシノヨ(歳の夜)と呼びます。
暦の上での大晦日もトシノヨと呼ぶように、節分・立春が年の変わり目という意識が認められます。
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先だって寒波が襲来した日の城下町の一角です。
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直交する街路は城下町の特徴の一つです。
四つ角で、左に曲がっても、前に進んでも、右に折れても、そこには違った「まち」が存在します。
その意味で、城下町の四つ角は、異なった世界・迷宮への入口と言えるのかもしれません。
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節分の翌朝、つまり立春の日の朝の、城下町の四つ角です。
交差する街路の真ん中に、紙に包んだ豆が置いてあるのをご覧いただけますでしょうか。
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城下町萩においては、興味深い節分行事が伝わっています。
節分の日の夜に行われる厄落としです。
この日の夜、厄年の人が、年齢の数だけ節分の豆を紙に包んで近くの四つ角に出向き、背中越しに落としてから、後ろを振り返らずに帰ってくるというものです。
四つ角(=異界・あちらがわの世界への入口?)で儀礼的に生まれ変わって厄を落とす民俗と解釈できます。
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江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができる「まち」・萩。
城下町の歴史文化が息づいています。

萩博物館企画展「城下町萩のひみつ ~迷宮へのいざない~」展、好評!(かどうかは微妙なところですが)開催中です。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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# by hagihaku | 2016-02-03 18:50 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの4 ~ 夏みかんが守った城下町 ~
城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができます。
江戸時代に形作られた「まち」が大きく改変されなかった理由の一つに、明治時代に始まった夏みかんの経済栽培があります。
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1952年、昭和27年の夏みかん畑の分布図です。
萩三角州とその周辺に、かなりの面積の夏みかん畑を認めることができます。
この分布図と以下とを見比べてみて下さい。
何か見えてくることがありませんでしょうか?
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上の写真は、1945年、昭和20年7月5日に米軍によって撮影された萩三角州の航空写真です。
上の分布図で夏みかん畑となっている場所に、夏みかんの葉が黒く写っています。
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江戸時代終わりころの城下町絵図です。
いかがでしょうか?
絵図で白く表現された場所の多くが、夏みかん畑になっていることが見えてきませんでしょうか。
この白く表現されているのは、武家屋敷地や藩の施設です。

1876年、明治9年に、禄を失った武士の救済のために夏みかんの果樹としての経済栽培が始まります。
その際に、畑として利用されたのが広い武家屋敷地でした。
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栽培が始まって10年を経過した頃より、夏みかんは市場に出回り始めます。
当初は、夏みかん5個と米1升が等価というような高値で取引をされたそうです。
そして明治30~40年代には、当時の萩町の年間予算の8倍もの生産額を誇ったこともあるそうです。
江向のKさんによれば、夏みかんの樹が3本あれば子供を上の学校に進学させることができたそうです。
夏みかんは萩の「まち」と人とを支えました。

〈参考〉
 5個7銭の夏みかんが守った城下町

 『大日本農会報』 133号によると、明治20年(1887)の夏みかんの値は1000個14円(1個1銭4厘)。
 「東京深川正米相場」によると、明治16~20年(1883~1887)の米価が1石5円71~94銭(1升5銭7厘~9厘)、明治21~25年(1888~1892)の米価が1石6円66~82銭(1升6銭6厘~8厘)。
 夏みかん5個(約7銭) ≒ 米 1升(5銭~7銭)
 
 年によって変動はあるが、当初、夏みかん5個程度が、米1升と同じ値という高値で取引されたことによ り、夏みかん畑になった武家屋敷地が永く維持された。



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国鉄のディスカバージャパンキャンペーンのポスターです。
城下町の土塀からこぼれる夏みかんが紹介されています。
「ひかりは西へ」、「新幹線岡山開業」とありますので、夏みかん経済栽培開始から96年後の1972年のポスターです。

夏みかんの栽培は永く続き、武家屋敷地が、屋敷を区画する土塀や長屋などとともに畑として維持されました。
夏みかんは、結果として、江戸時代に形作られた「まち」を大きな改変から守ったのです。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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# by hagihaku | 2016-01-30 15:59 | くらしのやかたより
寒波の中、萩博物館企画展「城下町萩のひみつ」展開催中、のつづき
2016年1月26日、寒さは少し和らぎました。
以下、リクエストにより、(あまり企画展とは関係ないのですが・・)寒波の日の萩博物館と周辺の画像をご紹介します。
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博物館(毛利隠岐)敷地北側のの通用門を出て、「後町」の通りを西へ。
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風を背に南を向いて、問田益田家(益田伊豆)の屋敷地東面の長い長い土塀です。
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「浜町」の通りを歩くべく、歩みを北へ。
しかし風が冷たく強いため、南を向いて(ホントに冷たかった)。
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本日、閉門!
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「浜町」の通りの西方、萩城二の丸・本丸方です。
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「浜町」の通りの東方です。
波の騒ぐ音、菊ガ浜の松を渡ってゆく風の音の中、歩みを東へ。
(ホントは、寒くて風に向かって歩くことができなかったのです・・・)
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大木屋前から東方、周布家長屋門です。
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繁沢家長屋門(繁沢石見)前から東方、益田家物見櫓(益田弾正)方です。
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吹き募る風と雪の中の益田家物見櫓(益田弾正)です。
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外堀沿いの土塁の際まで行って引き返しました。
吹雪を楽しんでいる近所の小学生に出会いました。
「浜町」の通りが雪でかすんでいます。
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益田家物見櫓の前から西方、繁沢家長屋門方です。
この通りは日頃でも趣があるのですが、雪の日もなかなか良い! と、思われませんか。
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明けて1月25日、少しだけ寒波は和らぎましたが、依然として寒さは続き、ツララが成長?していました。
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ツララを記録するM専門員です(それを記録した学芸員某です)。
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博物館の建物は、かつての大規模な武家屋敷にならってデザインされているため、雨どいが設けられていません。
ということで、見事なツララの出現となりました。
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中庭で見ることができたツララの最長のものは、軒瓦から125cmありました。
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滴が凍っていました。
鍾乳洞の石筍を思い出しました。

以上、長くなり申し訳ありません、寒波の中の博物館周辺と博物館でした。     (清水)
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# by hagihaku | 2016-01-26 18:44 | くらしのやかたより
寒波の中、「城下町萩のひみつ」展開催中です
2016年1月24日、寒波襲来。
その中、萩博物館は開館。
企画展「城下町萩のひみつ」展も開催していまあす。
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午前8時の萩市の気温は-3℃。
雪が舞う中を出勤。
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轍が直交しています。
城下町らしい?雪の景色です。
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久しぶりにツララを見ました。
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雪が積もっていますが・・・開門!
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江戸屋横町を上がり(!)ます。
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木戸孝允(桂小五郎)旧宅辺りから振り返って見た江戸屋横町です。
新堀川の方へ下っています。
三角州内排水のための溝川や三角州低湿地との高低差が、城下町絵図を地図として使える「まち」を今に伝えました。
(乞う参照、萩博ブログ)
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呉服町のいわゆる御成り道を、堀内(萩城三の丸)の博物館へ。
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外堀沿いの交差点まで来た所で、吹雪!
こんな日に、博物館を訪ねて下さる方があるだろうかと心配しつつ博物館へ。
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博物館の正門前、本町の通りです。
堀内らしい、なかなか趣のある雪景色です。
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長屋門から博物館へのアプローチです。
かつての武家屋敷の構成にならって建てられた博物館です。
博物館そのものが、まちじゅう博物館の展示資料です。
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企画展「城下町萩のひみつ」展、好評(?!)開催中です。
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博物館の中庭です。
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雪の、竹の、庭です。
なかな良いですよ。
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50cm以上の長さのツララです。
湿雪が降ったからでしょうか。
開館11年、このようなツララは初めて見ました。
(ということで、記録)
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敷地内の夏みかんの樹も雪を被っています。
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低温が続くと落果したり味に影響が出たりするそうです。
少し心配です。

以上、雪の中、企画展「城下町萩のひみつ」展開催中の萩博物館でした。

長々と失礼致しました。     (清水)
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# by hagihaku | 2016-01-24 10:55 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの3 ~ 江戸時代末の三角州低湿地大開発 ~
城下町萩においては、江戸時代の城下町絵図を今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形成された「まち」が大きく改変されなかったことを意味します。
「まち」が大きく改変されなかった理由の一つとして、前回のブログにおいて、明治以降に三角州低湿地が近代化施設の用地とされたことをご紹介しました。
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実は、江戸時代の終わりころにも、三角州低湿地の「大開発」が行われています。
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それは、藩校明倫館(新明倫館)の整備です。
藩校明倫館は、1719年(享保4)に、萩城三の丸に開校します。
これが、文武を奨励するという藩の方針により、幕末の1849年(嘉永2)に、三角州中央の標高の低い農地を造成して拡充再建されます。
新明倫館の敷地の一辺は200mを超えます。、
大変規模の大きな開発でした。
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三角州の中央辺りから北東部にかけて、標高2.0mに満たない低地が広がっていることは以前ご紹介しました。
それらの一帯は、水田やハス田として利用され、大雨の際に出水を調整する遊水池としての役割も果たしてきました。
三角州の中央辺りは、江戸時代の初めころの城下町絵図では、腰のあたりまで埋まってしまう「深田」があったような場所です。
低湿地とも呼べるこれらの場所では、土地や道路の整備に「ある工夫」が必要でした。

今から12年前の2004年(平成16)、江戸時代のその「ある工夫」の跡を、藩校明倫館敷地のすぐ傍で見ることができました。
(上の絵図や写真において円で囲んだ辺りです)

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藩校明倫館(明倫小学校)の敷地に接した側溝と道路の改修工事の写真です。
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パワーショベルで土を掘り下げていくこと約1m、江戸時代の「ある工夫」が現れました。
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地表から深さ1m、圧縮された状態で厚さ約30cm、ビッシリと敷つめられたシダ(羊歯)の層を確認できました。
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敷き詰められたシダは、軟弱な湿地を造成する際に、埋め立てる土が沈下するのを防ぐためのものでした。
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新らしい明倫館を整備する際にも、この工法が採用されました。
三角州周辺より羊歯の類を刈り集めて敷き、その上に菊ガ浜などから土砂を運んで土地を造成したのだそうです。
広大な面積の藩校です。
圧縮されて30㎝の厚さに敷き詰めるとなると、相当な量のシダが必要だったと想像されます。

今でも、藩校明倫館の敷地の地下には、この江戸時代の大造成工事の名残のシダが、地下1.0~1.3m辺りに眠って(埋まって)います。
萩博物館には、以前、藩校敷地内を掘削する工事が行われた際に出土し、資料化したシダ類が保管されています。
(萩市郷土博物館時代に資料化されたものですが、先輩方は良い仕事をしておられます。
 その資料の存在をを知っていたので、2004年の側溝・道路工事の際に、待ち構えて写真を撮ることができたのです、実は・・・)

明倫館敷地から出土したシダ類は、低湿地のを開発を示す資料として、今回の企画展において展示しています。
ぜひ、企画展示室でご覧ください。

・・・ つづく ・・・    (清水)
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# by hagihaku | 2016-01-22 18:00 | くらしのやかたより
城下町萩のひみつの2 ~ 三角州低湿地の開発 ~
城下町萩においては、江戸時代の城下町絵図を今も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形成された「まち」が大きく改変されなかったことを意味します。
それでは何故、「まち」が大きく改変されなかったのでしょうか。
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萩三角州の微妙な高低差を表現した等高線図です。
三角州中央から北東部にかけて、標高が2mに満たないような低地が広がっています。
この一帯は、水田やハス田として利用されてきましたが、大雨の際に出水を調整する遊水池としての役割を持っていました。
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三角州を南方の上空から見下ろした鳥瞰イメージ図です。
赤色で表現されているのは、明治以降に整備された施設や道路などです。
三角州の外に青色で表現されているのは鉄道です。

いかがでしょうか?
緑色で表現された三角州内の標高の低い一帯に、施設や道路が整備されてきたことが見えてきませんでしょうか?

実は、城下町萩においては、水田やハス田を近代化施設の用地としたことで、江戸時代に形作られた「まち」を大きく改変することなく近代化を進めることができたのです。
江戸時代の城下町絵図を地図として使うことができる「ひみつ」の一つが、ここにあります。
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藩校明倫館の敷地に整備された明倫小学校です。
三角州の北側上空から南方、三角州中央辺りを撮影したものです。
昭和10年(1935)に改築される前の撮影で、校舎が敷地の西側(画像右側)にあります。
周囲には、江戸時代と変わらぬ水田やハス田が広がっています。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地の南側道路の整備の様子です。
米屋町下がり筋(明倫小学校西側に接する街路)から御許町筋(旧萩往還)までの改修が竣工するのは、大正15年(1926)のいことです。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地・米屋町下がり筋を南西方より撮影した写真です。
敷地南側の整備されつつある道路が、西側(手前側)の水田・ハス田の方にに延長されつつあります。
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明倫小学校(藩校明倫館)敷地南側の道路は、昭和2年(1927)に玉江橋まで延伸整備されます。
その道路から、敷地の南西隅から南側を撮影したものです。
写真は、道路南側(画像右側)に公民館の建物が見えますので、昭和25年(1950)以降の撮影です。
公民館も、水田やハス田を用地として整備されました。
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大正14年(1925)に新たに建設整備された萩町役場(当時)です。
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新堀川(1687年、三角州中央に設けられた人工の溝川)上空から南方を撮影した写真です。
昭和35年(1960)頃の撮影と考えられます。
画像右側(西側)に明倫小学校の建物4棟が見え、小学校敷地に接して南へと延びる雑賀下がり筋が見えます。
黄色い円で囲んだ所が役場の建物で、周囲にはハス田が認められます。
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江戸時代末の城下町絵図(部分)に町役場(後の市役所)の位置を円で示しました。
水田やハス田などを用地として近代化が図られたことが見えてきます。

・・・つづく・・・   (清水)
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# by hagihaku | 2016-01-21 13:07 | くらしのやかたより