住吉祭りと花火、加勢の提灯 市内の皆さんに住吉祭りの思い出をうかがうと、神事やそれに伴う神輿や御船、踊り車の他に、花火や夜店(露店)を挙げる方が多くあります。 住吉祭りの間は、夜間に出歩く機会が多くあったということかと思います。 「日本海大花火大会」の名前で親しまれる菊ヶ浜での花火打ち上げですが、明治年間に既に、祭りの折に花火を打ち上げていたことが古い新聞記事に見えます。 明治33年(1900)の防長新聞には、「萩住吉神社祭礼初日の景況」として、「本年は東田町有志者により二十四本の煙火を打ち上げ参詣人の喝采(かっさい)を得た」とあります。 残念ながら、どのような花火であったのかは記されていません。 何時ごろより花火の打ち上げがはじまったのか、また、どのように現在につながっているのかについては、記録が乏しく良く分かりません。 城下町の人々は、昔から、華やかな山車や人目をひくものに興味を示したとされます。今後、調査を進める必要があります。 同じ年の別の新聞記事には、「萩地方等(の)社界陽気連の男女」が、「種々異様の服装」で、「三味線太鼓笛鐘等を打ち鳴らし、しきりに囃し立て本町筋をシャギリつつ神輿に付きまわる」と報じられています。 そして、「種々滑稽(こっけい)」に「笹頭に幾個もの球灯火をつるして飛び跳ねつつ町内を騒ぎまわる」者たちが何組もあることを報じています。 楽器や鐘太鼓で賑やかに祭りを囃す人たちがいたことや、笹竹に提灯をつるした「加勢の提灯」と呼べるものを、勝手に担ぎまわって祭りを楽しむ人たちがいたことが分かる興味深い記事です。 実は、この勝手に提灯を掲げて祭りを楽しむ人たち、または囃し応援する人たちは、昔から存在したようです。 思い思いに祭りを加勢する人たちについては、江戸時代にまとめられた『八江萩名所図画』にも、統制のとれていない姿で描きこまれています。 現在、住吉祭りにおいては、各町内から「のんた提灯」と呼ばれる大きな提灯が繰り出しています。 昭和61年(1986)に萩青年会議所の呼びかけで「のんた山車」として始まったものです。 開始の際には、「加勢の提灯」については全く意識されなかったと聞きます。 しかし、思い思いに祭りを囃していた城下町の人たちの伝統を、上手に引き継いだものとして注目されるものです。 (140726寄稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-07-18 10:46
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浜崎新町「中の町」の町なみ 浜崎新町「中の町」の通りを、北側の少し高い位置から南方を向いて撮影した古写真です。 左手前の建物の棟を見下ろしていますので、撮影者は建物(旧安永家)の屋根の上に上がっているのかもしれません。 屋根や庇が連続した美しく整った町なみで、通りの向こうには、寺町の寺院群の大屋根が遠望されます。 屋根の高い家屋が無いためか、大変見通しが良く、空が広く感じられます。 空が広く感じられるのは、電柱や電線がほとんど見えないからでもあります。 ちなみに、萩町で初めて電灯が灯されたのは、明治44年(1911)のことです。 この写真には、わずかですが細い電柱や電線が写っています。 おそらく写真が撮影されたのは、電灯の利用が始まる前後のこと、つまり今から100年余り前の明治の末年頃のことと考えられます。 この古写真は、江戸時代の城下の景観を想像させる大変に貴重な写真です。 新町「中の町」の通りには、盛装したお坊さんの行列を見て取ることができます。 行列の後ろの方には、雅楽を奏でる楽師の人たちやお稚児さんも加わっています。 実はこの行列、浄土真宗寺院の住職が代がわりする際に催行される「継職法要(住職を引き継ぐ法要)」における、次第の一つなのだそうです。 一般的に「継職法要」においては、お寺近くの檀家さんの家から寺まで行列し、その後、寺において法要が営まれるそうです。 最近、この写真が浜崎新町下の町の万福寺「継職法要」の折に撮影されたことが分かりました。 撮影者が意図していない様々なモノやコトが写り込んでいる写真は、豊かな情報を私たちにもたらしてくれます。 例えばこれらの写真もそうで、屋根に設ける雨樋が部分的であったことや、竹を割って樋としていたこと、また、溝蓋に板材を用いていたことなどが確認できます。 何に用いるかは不明ですが形を整えた板を干す家、導入されたばかりのトロバコ(魚を入れて運ぶ木箱、トロール漁業で用いたことからの名称)を積み上げた家、薪を積み上げた家、通りに面した部分に煙突を設けた家、等々、浜崎新町の暮らしやなりわいが見えてくるようです。 この古写真からは、まだまだたくさんの情報を引出すことができます。 近々開催される「おたから博物館」において、NPO萩まちじゅう博物館学芸サポートの皆さんが、旧大島醤油屋さんにおいて、大きく引き伸ばしたものを出展される予定です。 ぜひ、ご覧になって下さい。 (140227寄稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-07-18 10:21
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リヤカー・シャリキ(車力、大八車)と浜崎 浜崎商港の一画に、たくさんのリヤカーが駐車?されています。 定期船や自家用船で運ばれた島の産物は、このリヤカーで運ばれ、市中の家庭や商店に届けられます。 島と本土とを結ぶ定期船が発着する港らしい光景です。 かつて浜崎においては、リヤカーで行商する人たちが、品物を仕入れたり交換したりする光景も良く目にされていました。 魚市場があり、水産加工業が盛んであり、卸しの商店があり、そして島から農産物がもたらされる浜崎は、萩市内外の家庭の台所と直結する町でした。 少なくなったとはいえ、リヤカーは現在も行商に用いられています。 そのリヤカーは、大正年間、今から90年以上前に開発され、日本全国に普及したとされます。 名前の由来は、自転車の後部に連結して使用できる「後部車」という意味の和製英語です。 今はほとんど見ることがなくなりましたが、かつては、梶棒の中央に自転車と連結できる金具が取り付けてありました。 萩地域においてリヤカーの利用が増えるのは、昭和30年代、今から5~60年前のこととされます。 それ以前には、シャリキ(車力)と呼ばれる大八車が盛んに用いられました。 シャリキとは、一般的には荷車を引いて荷物を運ぶ仕事に携わる人たちのことを言います。 萩地域では、荷物運搬用の荷車のこともそう呼びました。 大八車は、道路が整備される明治時代以降に全国各地で盛んに用いられるようになります。 以前、市内の大屋において伺った話を思い出しました。 明治時代中ごろ、鹿背坂の隧道開通後の話です。 当時、浜崎に水揚げされた魚を満載したシャリキを引いて倅坂(かせがさか)を越えることは大変な難儀だったそうです。 そして、このシャリキを押したり引いたりして坂越えを手助けすることが、仕事として成り立っていたのだそうです。 たくさんの魚介類が、浜崎から各地にもたらされていたことが想像されます。 (140204寄稿 清水満幸) #
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| 2022-07-15 16:24
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豊かな海に寄り来たクジラ 一昨年、2011年の8月、浜崎港から見島へと向かう定期船「おにようず」から、一頭のクジラがジャンプする姿が目撃されました。 そしてその様子を、初めて見島を訪れるために乗船していた村上佳代さん(※)が、写真に収めました。 ジャンプを繰り返していたクジラは、推定体長5mほどのミンククジラでした。 ミンククジラは小型のヒゲクジラの一種で、胸ヒレの白い帯で見分けることができます。 (定期船「おにようず」船上から撮影されたミンククジラのジャンプ、2011年8月6日) 秋から冬にかけては北の海域から南下してくるクジラを、春先には逆に北上する途中のクジラを捕獲しました。 つまり、行き来するクジラが沿岸で見られたのは、秋から翌春にかけてのことでした。 ところが、一昨年にミンククジラが目撃されたのは、夏8月のことでした。 これは、ミンククジラが、一年を通して萩地域の海に棲みついている可能性を示しています。 その意味でも、この記録写真は貴重なものと言えます。 今回、もう一葉ご紹介するのは、浜崎の魚市場に水揚げされた体長6m程のミンククジラの写真(写真所蔵は「たつち」さん)です。 特徴的な白い帯の入った胸ヒレが見えます。 この写真が撮影されたのは80年以上前、昭和初年頃のことと考えられます。 その根拠は、後ろに写っている漁船(機械船)に認められる、〇に「は」の字の印です。 これは林兼商店(現在のマルハ)所属の漁船であることを示すものと考えられます。 記録によると、昭和4年から6年(1929~31)にかけて、萩市大島の定置網を林兼が経営していた時期があります。 このクジラは、その定置網で捕獲された可能性があります。 いずれにしても、これら写真が撮影されるのは、昔から、クジラが萩地域の海に寄り来ているからです。 それは、この地域の海が、大小様々な魚介類やクジラなど多様な生き物を育んでいることを示すものでもあります。 そのような海に恵まれた「まち」に住むことができるというのは、とても幸いなことだと思います。 (130925寄稿 清水 ) ※ 村上佳代さんは、学生の折りに浜崎で、地域の皆さんから「まちづくり」について学ばれました。 現在は北海道大学助教として、ヨルダン国のサルトという古都で進められている「まちづくり」プロジェクトに携わられています。 それは、萩市の「まちじゅう博物館」にならったものです。 今年5月の「おたから博物館」に、ヨルダン国から研修生が来られたのもそのためです。 #
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| 2022-07-15 16:06
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以前、浜崎沖合5㎞にある羽島出身の方から、住吉祭りの思い出をうかがったことがあります。 羽島は、萩六島の中で最も本土に近い島です。 畑作の島で、一年を通じて、皆さん勤勉に農作業にいそしまれていました。 そのような生活の中で、島の皆さんは、住吉祭りには必ず仕事を休んで本土へ渡り、神社に参拝していたそうです。 そして、日頃できない買い物をしたり、サーカスや映画などを観たりすることが、何よりの楽しみであったとお聞きしました。 かつて住吉祭りにおいては、仙崎祇園祭り・山口祇園祭りが終わる頃(7月27日頃)より、浜崎の住吉神社境内にサーカスの仮設テントが設営されました。 その様子が羽島からは良く見えたということです。 テントが見え始めると、祭りが近づいたと心が騒ぎ、暑いさ中の農作業にも力がこもったそうです。 萩市内やその近郊においても、住吉祭りの思い出を聞くと、サーカスや見世物小屋などを挙げる方が多くあります。 このサーカスなどの興行物については、なかなか記録に留められることがなく、実態はよく分かっていません。 古い新聞を見ていくと、初めて住吉祭りでサーカスが興行されるのは大正12年(1923)のことです。 この年興行したのは「国際サーカス団」で、その内容は、曲馬、飛行、露西亜人(ロシア人)猛獣使いとなっています。 それ以前には、軽業(綱渡り・とんぼ返りなど)、足芸(樽まわし・はしご載せなど)、曲馬(曲乗り)、動物芝居、動物園、空中飛行(空中ブランコ?)、奇術などの興行を伝える記事が見られます。 これらが統合されて、日本におけるサーカスが始まるようです。 (サーカスの興行を知らせる新聞折り込みチラシ) ご紹介した新聞折込チラシは、住吉祭りに合わせてサーカスが興行されることを告げています。 昭和30年(1955)前後のチラシで、「ドイツのハーゲンベック式」、「世界的」国際サーカス、「日本三大」猛獣ショー、「高等大」馬術、空中サーカス「秘技」公開など、いささか力んだ宣伝文句が踊ります。 そしてチラシの左下には、何かを切り取った跡が見られます。 チラシに印刷されていた割引券と考えられます。 幾人もの方から、小学生のころに、配られた割引券を握りしめ胸躍らせてサーカスを見に行った思い出をお聞きしました。 松本川をはさんだ椿東小学校校区出身のある方からは、こども達だけで行く時には、明倫小学校校区の小学生に出会わないように緊張したということもお聞きしました。 最後のサーカス興行は、昭和30年代前半(1950年代後半)とされています。 (130612寄稿 清水) ※ 住吉祭りにおけるサーカスなどの情報や興行の様子を伝える写真などをお持ちの方は、ぜひご教示下さい #
by hagihaku
| 2022-07-04 19:10
| くらしのやかたより
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