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「はまかぜだより」47 「寺町・御弓町(おゆみちょう・おいみちょう)と砂丘」
【寺町・御弓町(おゆみちょう・おいみちょう)と砂丘】

以前、浜崎新町にお住まいだった方から、「何かあったら亨徳寺(こうとくじ)に行くように、と言われて育った」というお話をうかがったことがあります。
「何か」が何を指すのかは、うかつなことで確認していませんでした。
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浜崎新町中の町の通りを見通した写真

掲載の写真は、以前、このコーナーでご紹介したことがあるものです。
浜崎新町「中の町」の通りを、北の方の少し高い所(家の屋根上?)から見通して撮影したものです。
萩町(当時)で初めて電灯が灯った明治44年(1911)頃の撮影と考えられます。
遠くには、寺院の大屋根がいくつか確認できます。
「寺町」と呼ばれるように、寺院が集まっていることが良く分かります。
それらの中の浜崎新町寄りで、ひときわ目立っているのが亨徳寺の大屋根です。

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遠望される寺院の大屋根

これら寺院の屋根が遠くから望見されるのは、寺町が浜崎町・浜崎新町より高い位置にあるからです。
寺院がある辺りは、少し大げさな表現をしますが、萩三角州の中でも最も標高(海抜)が高い「高地」です。
そこは、標高5~9mの砂丘の上にあたります。
そのことを考えると、「何かがあったら」というのは、ひょっとしたら地震による津波などに備えるための言い伝えなのかもしれません。

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萩三角州の微妙な高低を表現した等高線図、新堀川の北側に砂丘の微高地が広がる

なぜ寺院が、低湿な三角州にあって最も水害の被害を受けない高い場所に集まっているのでしょうか。
残念ながら、その理由については定かなことは伝わっていません。
全国の城下町においては、寺町が城下の周縁に設けられている例が散見されます。
城下防御のためという軍事的な説明がなされることが多く有ります。

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萩三角州の北側、浜崎町の南側に赤色で表現された寺院が集まる
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「浜崎新丁」の南側(下方)、白色で表現された武家屋敷

それでは萩城下ではどうでしょうか。
興味深いのは、「おゆみちょう」とか「おいみちょう」と呼ばれている「御弓町」町域の存在です。
江戸時代に描かれた城下町絵図を見ると、浜崎新町の南側、寺町と接する一帯に、白く表現された多数の比較的小規模な武家屋敷が確認できます。
これらの武家屋敷が接する東西約300mの通りは、「御弓町筋」と呼ばれていました。
その名は、「御弓組」の者が居住していたからと伝えられています。
「御弓組」は、戦の際に弓矢を持って戦う部隊です。
他の城下町においては、「鉄砲組」などとともに、防御のために城下周縁に集住する例があります。
それからすると、寺町の高地への配置には何か軍事的な理由があったのかもしれません。

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浜崎新町下の町から寺町へと続く坂道

いずれにしても浜崎新町から御弓町・寺町にかけては、いたる所にけっこうな坂道が存在します。
なかなか直接には見えづらいのですが、萩城下町を形作る砂丘の頂や縁(へり)を体感することができる場所となっています。

(240529寄稿)


※ 通りには、盛装したお坊さんの行列を見て取ることができます。
この行列は、浄土真宗寺院の住職が代がわりする際に催行されるもので、
「継職法要(住職を引き継ぐ法 要)」における次第の一つです。
※ 萩三角州内の最も高い地点は、亨徳寺の東隣の保福寺墓地の中にあります。


# by hagihaku | 2024-07-12 17:47 | くらしのやかたより
「浜風だより」46 「歳末の大売出し」

【歳末の大売出し】



今回は、浜崎本町商店連盟の歳末大売出しの新聞折込みチラシをご紹介します。

とあるお宅の蔵が解体された際に、ゴミとして燃される寸前に資料化できた約400枚の折込みチラシの内の一枚です。

昭和30年前後に印刷配布されたものと考えられます。

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浜崎本町「商店連盟」の歳末大売出しチラシ

チラシの下部には浜崎本町の加盟店35店と、大売出し賛助の16店・業者・医院などの名前を認めることができます。

まさに商店連盟で、その数の多さにあらためて経済拠点であった浜崎町の賑わいを知ることができます。

業種も豊かで、歩いて回ることができる範囲内において、生活に必要な物のほとんどを入手できていたことが分かります。


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商店が並ぶ浜崎本町の通り

またこの当時から、歳末大売り出しにおいては、買い上げ額に応じて抽選券が配布されていたことも見て取れます。

そして興味深いのは、抽選の商品が「津和野のお稲成さん」太鼓谷稲成参拝であることです。

参拝のための旅行が、この当時において、購買意欲を高める魅力あるものであったということなのかと思います。

実は、神社仏閣を詣でる庶民の旅は江戸時代からありました。

例えば、近畿地方の西国三十三観音霊場を巡る巡礼などは、浜崎においても早くから行われていましたが、その当時の旅は苦難を伴うものでした。


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女性にとっても旅が身近になったことを示す『主婦之友』(1931年)の付録の「旅行地図」表紙

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1931年2月現在、奈古駅−須佐駅間は未開通

旅を劇的に身近なものとしたのは、大正期から昭和初期にかけて全国に拡大した鉄道網の整備でした。

鉄道の開業により、全国的に神社仏閣や名所旧跡を巡る観光ブームのようなものが起こり、ここ萩市においても「史跡遊覧のまちづくり」が標榜されました。


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年末恒例「萩デー」大安売りの特賞は「白米10俵 !!」
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萩専門店会の大売出しでは、「花のパリーとロンドンえ空の旅ご招待」(ホント?)


鉄道を利用した「初詣で」、「三社参り」などが盛んになり、そのために臨時列車が運行されるようにもなりました。

チラシには「百五十名様ご招待」とあり、結構な人数による参拝旅行が計画されていたことが分かります。

左肩にある「東萩駅八時五十九分発」という情報から、当時の時刻表を確認したところ、この旅行は山陰本線の普通客車列車を利用したものであったことが分かりました。

当時の「客車」の定員からすると、普通客車列車(5両~7両編成)の2両を借り切っての旅であったと考えられます。

行き帰りの列車内は、多数の浜崎の人たちの乗車により、さぞ華やいで賑やかなものであったろうと想像されます。

(231213寄稿)


# by hagihaku | 2024-07-05 18:12 | くらしのやかたより
「はまかぜだより」9 「西国観音霊場巡り」

【西国霊場巡り】


萩城下においては、昔から、寺院や神社を訪ねてまわる巡礼が盛んに行われていました。

資料によると、江戸時代前期、一六〇〇年代の終わり頃には、観音様をまつる城下周辺の寺や堂、七ヶ所を巡る巡礼が始まっています。

これを、「七観音詣で」とか「七観音参り」と呼びます。 

信仰目的だけではなく、弁当を持って、行楽を兼ねて巡っていたようです。

暮らしに変化を求め、新しい文化を形作っていった町場らしい民俗と言えます。


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「七観音」の一つの椿東後小畑の福聚院

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西国観音霊場巡りから帰った人たちが奉納した木札
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江戸時代にまとめられた『八江萩名所図画』中の「七観音詣り」の図

全国的には、江戸時代の中ごろになると、近畿地方の観音霊場三十三カ所を巡る巡礼が行われるようになります。

萩城下では、七観音を巡る歴史があったからか、全国的に見ても早い時期に、この三十三ケ所霊場巡りが始まっています。


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安政7年(1860)の年号が刻まれた萩浜崎住人によって奉納された札

霊場巡りに行った人々は、萩に帰ってから、無事の帰還を感謝して、記念の札を寺院などに奉納しました。

確認されたものの中には、宝暦年間、一七五〇年代に、東田町に住む人たちが奉納したものがあります。


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宝暦7年(1757)に田町住人によって奉納された札

三十三ケ所霊場を巡るにあたっては、「同行」と呼ぶ共に巡礼する仲間を募りました。
これは講のようなものです。

人々は、交通の発達していない時期に、信仰や見聞を広めることを目的に、長期間、困難を伴なう旅を続けました。

同行の仲間は、苦労を共にすることから、萩に帰ってから後も、強い人間関係で結ばれたそうです


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「西光庵」の軒下に掲げられた奉納札

経済活動が活発であった浜崎においても、江戸時代から、たくさんの人が霊場巡りの旅に出ました。
それを示す同行の奉納札が、常念寺墓地に接し、浜崎新町上の町に面した西光庵の庇の内に伝えられています。
町場ならではの文化を伝える貴重な資料です。

(120216寄稿)


# by hagihaku | 2024-07-05 11:59 | くらしのやかたより
「はまかぜだより」44 「オール浜崎 大運動会」
オール浜崎大運動会

令和5年(2023)9月10日、コロナ禍で休止されていた浜崎九友会主催の浜崎町民大運動会が4年ぶりに開催されました。
第四十二回目ということですから、始まったのは昭和54年(1979)ということになります。

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「オール濱崎大運動会」の優勝旗

今回ご紹介する写真は、それよりも以前に開催されていた浜崎町内運動会の様子を撮影したものと考えられます。
とある方のアルバムを複写させていただいたのですが、残念ながら撮影年が付されていませんでした。

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住吉神社境内における運動会の様子を写した古い写真

住吉神社の境内で開催されていることから、昭和22年(1947)開設の住の江保育園におたずねしましたが、該当する資料は保管されていないということでした。
ならばと、昔から浜崎にお住いの方々におたずねして回りましたが、なかなか特定には至りませんでした。
ただ、幾つか重要な情報を得ることができました。
例えば、大正14年(1925)にお生まれのMさん(どなたか皆さんお分かりですよね・・)は、25,6歳の時にこれに参加されたということでした。
また、昭和17年(1942)にお生まれのFさんは、小学校4年生のころにリレーに出場して一位になったこと、そして新町下の丁が総合優勝し、大会の後に、町内会長Aさんの先導で優勝旗を持って町内を行進したことを思い出して下さいました。
つまり、昭和25年(1950)頃には、この運動会は開催されていたということなのです。

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子どもから大人まで多数の参加者で賑わう運動会


これを受けて、図書館に保管されている古い地方新聞などを確認しました。
すると、「萩市報」の昭和26年(1951)10月12日号に、以下のような記事を見出すことができました。
そのまま引用します。

「浜崎町愛護会連合会結成」

浜崎八区では既にそれぞれ児童愛護会が結成されているが、九月十三日浜崎全区の児童愛護会連合会が結成され、会長に竹内八郎氏、副会長に三坂勉氏、大田利義氏が就任された。
結成式終了後、住の江保育園と共催で連合運動会が催され児童約八百名と共に保護者多数が参加、一千数百名の親子が秋晴れの日光を浴びて終日競技に打興じた。

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「萩市 児童愛護会」と染め抜かれた幡


いかがでしょうか。
「児童約八百名」、「一千数百名の親子」という参加者数に驚きますが、あらためて写真を見ると、「児童愛護会」の旗が多数翻り、幅広い世代の方々が参加され、そして笑顔があふれています。
浜崎地区の活気が伝わってくるこれらの写真は、この萩市報に報じられた運動会を撮影した可能性が出てきました。

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昭和30年(1955)ころの撮影と考えられる運動会の写真


その後、住吉神社に「オール浜崎大運動会」「主催 オール浜崎協賛会」の文字が染め抜かれた優勝旗が保管されていることも分かりました。
愛護会連合会結成を機に始まった運動会は、協賛会主催でしばらく開催された可能性も見えてきました。
ただ、いつまで続いたかはよく分かっていません。
この運動会について何かご存じの方がありましたら、ぜひご教示をお願いいたします。

(230919寄稿)


# by hagihaku | 2023-10-13 18:19 | くらしのやかたより
「はまかぜだより」43 「住吉祭りの通り町」
住吉祭りの通り町

コロナ禍の終わりが見通せない中、今年も住吉祭りの季節が到来しました。
城下の二大祭礼の一つとされる萩浜崎住吉神社の夏季祭礼ですが、祭礼が開始されたのは万治2年(1659)、今から360年以上前のことです。

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8月2日から3日にかけて城下を巡る神輿

一般的に住吉神は、航海守護の神とされます。
しかし、ここ萩城下においては、穢れを祓い厄災を除いてくださる神として信仰を集めてきました。
その背景には、盛夏を迎えるにあたり、衰えた生命力を更新し、その後を無病息災に過ごしたいという城下の人々の切実な願いがありました。
江戸時代の城下町萩は、西国有数の大都市(町人地の人口は全国の城下町で10番目)で、疫病の蔓延が、火災と共に何よりも恐れられました。

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浜崎町を巡行する御船と先導する協敬組の人たち(大正末年頃か)

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御神幸行列に従う聖(大正末年頃か)

この住吉祭りが城下をあげての祭礼となったのには、藩の関与もあったと考えられます。
現在も祭りの呼び物の一つである御船の巡行や、人目を引く(引いたであろう)「寄進聖」という笠鉾・山車の巡行は、江戸時代には藩の施設である「御船蔵」が担っていました。

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町の提灯を拝殿に掲げる「通り町」の人たち

また、現在も引き継がれている「通り町」の制度も、早くに藩の認めるところとなっていました。
「通り町」は、城下の数町内が順に祭礼へ奉仕する制度で、「住吉町」とか「引受け町」とも呼ばれます。
祭りが始まって程なくの寛文6年(1666)に始まり、延宝2年(1674)からは2町内ずつが奉仕を続け、現在に至っています。
藩は祭りを盛んにすることに腐心していたようです。

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通り町神事

「通り町」においては、かつては「踊り車」、「夜見世」、「通りもの」などで祭礼を囃していたとされます。
このうちの「夜見世」は、店先や座敷を開放し、祭りに合せて制作した作り物を飾り、道行く人たちに披露するものです。
商店であれば、商品を用いた作り物を工夫し、人目を引く作り物の題材や見せ方が注目され話題になりました。

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通り町において披露された夜見世の造り物

「通りもの」については、残念ながら具体的な内容が記録に残されていません。
ただ、お隣の福岡県「博多どんたく」においては、現在も多くの「通りもん」が街を練り歩きます。
また長崎県内では、盆の仮装行列を「トシモン」とか「トオシモノ」と呼ぶところがあります。
類推するに、萩城下の「通りもの」は、人目を引く衣装をまとい、三味線・笛・太鼓などを奏でながら祭りを囃して練り歩く行列の類いだったのではないかと考えられます。
「通り町」の呼び名は、これを担う町内ということで定着したもののようです。

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博多どんたく港祭りにおいて街を練り歩く「通りもん」

「通りもの」を繰り出すという目的のために町内の人たちが集うことは、日ごろ異なる生業に従う人が多い城下町においては、互いの人間関係を確認し、強めていく上で、とても大事な機会になっていたと考えられます。

(230609寄稿) 


# by hagihaku | 2023-07-05 16:24 | くらしのやかたより