「素倉」と「協敬組」 前号の「浜風だより53号」において、「汽船荷客取扱処」の伊勢島商店屋上に設けられた望楼についてご紹介しました。 その後、その望楼の細部を確認できるより鮮明な写真を見出すことができました。 あらためてご紹介します。 ガラス窓を巡らした望楼の様子がよく分かります。 さて今回は、その望楼の写真手前(北側)に見える大きな蔵のような建物について触れてみたいと思います。 この建物も、港町・浜崎ならではのものです。 この建物が建つ場所には、江戸時代に藩の番所がありました。 番所では、港に出入りする船の取締と、積み出し・積み入れする荷物(貨物)に対して、「口銭」と呼ばれる利用料にあたるものを徴収していました。 現在「問屋町筋」と松本川との間に河岸道路が整備されていますが、かつてこの場所は荷物の荷上場としても利用されていました。 明治以降、この荷上場の管理や口銭の徴収などの役目を担ったのは、17軒の廻船問屋をはじめとした浜崎の町人たちでした。 その町人たちは、「巴北発輝社」と呼ばれる団体を興しました。 それは巴城=萩の北において輝きを発するという、大変に意欲的な名の荷上場管理団体でした。 その団体が整備して管理したのが、写真に写る「興倉(おきぐら)」です。 浜崎の人たちは、この建物を「素倉(すぐら)」とも呼んだそうです。 平素は中が空で、荷物が置かれていなかったからです。 ![]() 巴北発輝社の荷上場に水揚げされた荷物は、一旦この素倉に納められました。 その荷物の荷揚げや仕分け、さらには荷主への配送に携わったのが「素倉仲仕(すぐらなかし)」と呼ばれた人たちです。 この素倉仲仕は、前号で触れた大阪商船扱いの荷物も含め、浜崎港の荷揚げ作業に独占的に関わったとされます。 素倉の北側に設けられた仲仕詰所には、常時、20~40名の仲仕が詰めていたとされます。 それほど荷扱いが多かったということで、浜崎港の繫栄を示すものです。 それは、1925年(大正14年)に萩駅・東萩駅まで鉄道が開業し、貨物の運搬が陸上輸送に変わっていくまで続きました。 素倉仲仕については、とても強固な団結心で結びついた団体だったそうです。 素倉が役目を終えた後も、住吉神社の崇敬団体「協敬組」として、住吉祭り御船巡行の先導役を務めるなど奉仕を続けました。 (220915寄稿 清水) 〈参考文献〉 ・ 『萩の百年』 ・ 『萩市「浜崎地区」伝統的建造物群保存対策調査報告』 ・ 『明治期 山口県商工図録』 #
by hagihaku
| 2022-12-08 12:12
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浜崎の伊勢島利介商店と望楼 『山口県豪商便覧』という、明治19年(1886)に刊行された商工便覧が伝わっています。 県内各地の商店や会社、製造所などを、当時先進の銅版画(エッチング)で紹介したものです。 山口、防府、徳山、柳井、岩国、萩の171業者が掲載されていますが、そのうち萩については、46業者を数えることができます。 掲載業者数の四分の一強を占めるということで、明治中期の萩の活況がうかがえます。 この便覧の中に、「汽船荷客取扱処」「汽船荷揚場」として浜崎の伊勢島利介商店が紹介されています。 実は、萩以外にも13の汽船荷客取り扱い業者や回漕業者が紹介されていて、当時の物流において船が大変重要な位置を占めていたことが分かります。 ちなみに、神戸-馬関駅(下関駅)の山陽鉄道が全線開業するのは、明治34年(1901)のことです。 明治20年頃より京阪神に盛んに出荷されるようになった萩特産の夏みかんは、当初は、専ら船で運ばれていました。 そのような貨物に加えて人も運んだのが、浜崎に寄港した大阪商船会社の汽船でした。 社史などによると、明治17年(1884)に、大阪と境港・安来を結ぶ蒸気船による定期航路が開設されます。 隔日の運航で、山口県の日本海側では江崎、須佐、萩、仙崎に寄港しています。 伊勢島利介商店は、その大阪商船会社の代理店として、荷客取り扱いをしていたようです。 便覧に掲載された商店の店先には、漢字の「大」を図案化した大阪商船会社の社旗が掲げられています。 商店があった場所は、「萩印刷」があった場所です。 明治期には松本川沿いの道路はなく、商店の東側(川側)がすぐに岸壁・ガンギ(石段)となっていたことが、先に紹介した「荷揚場」の版画から見て取れます。 当時の建物と蔵が現存しますが、かつては、蔵は川側に開口していて、船(はしけ)との間での荷物の積み降ろしが行われていました。 また伝承によると、伊勢島商店は船宿を兼ねていたとされます。 そして、建物の階上には、船の出入りを確認することができる望楼があったとされています。 林家(奈古屋商店)に伝わる大正年間に撮影された写真には、その望楼が写っています。 港町浜崎らしい建物となっています。 (220612寄稿 清水) 〈メモ〉 ・ 明治20年(1887)に大阪商船株式会社の取次店 ・ 明治22年(1889)、伊勢島利介の勧奨により、萩の夏橙仲買商が集まり、萩蜜柑輸出仲買商組合を結成する(組合長山中三吉) #
by hagihaku
| 2022-12-08 11:44
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萩商港 前号では、離島と浜崎とを結んでいた松本川河口の浜崎港について触れました。 今号では、現在、離島航路の定期船が発着している萩商港についてご紹介します。 この萩商港については、今から60年前の1962年(昭和37年)12月に起工され、1976年(昭和51年)8月に完成しています。 14年間を要して整備されましたが、共用の開始は、翌年1977年(昭和52年)の4月からでした。 今回掲載の写真には、整備中の萩商港と、河口を出港していく定期船「たちばな」が写っています。 日本海に面して遠浅の海と砂浜が広がっていた場所に、大規模な港が建設されつつあることが記録されています。 波風の影響を強く受ける場所に、長い年月と多額の建設費用をかけて、なぜ、これだけの規模の港が整備されたのでしょうか。 素朴な疑問を抱き、萩市の歴史をまとめた『萩市史』に当たってみましたが、その理由は記されていませんでした。 そこで、整備についての情報を得るために、起工前後に発行された地方新聞に目を通してみました。 幾つかの興味深い記事が認められましたので、以下に内容を要約して記します。 ・流出する土砂で松本川や姥倉運河が常に浅くなってしまうことから、根本解決を国に陳情した ・(市内の小畑に全国の漁船が利用できる漁港が整備され始めているので)「菊ヶ浜商港」を、建設省事業として整備を進めることになった ・港の整備により、鶴江や浜崎の漁船の係留や水揚げが容易になると期待された ・地盤が軟弱であることから整備が困難で、完成が危ぶまれた ・起工時には、韓国との国交正常化協議が進められており、正常化後を見込み、萩(潟港を含めた萩港)-韓国(蔚山)間の貿易が模索された。 ・商港の起工に先立つ1962年10月には、将来の交易に備え、菊ヶ浜(浜崎住吉神社裏)に門司検疫所萩出張所が設けられた ・萩-小郡間、萩-岩国間の交通網(鉄道、道路)を整備し、それと萩港を利用した韓国との貿易を結びつける議論が盛んになされた いかがでしょうか。 もう少し丹念に資料を確認する必要はありますが、離島航路の安定的な運航だけでなく、海を介した広い範囲での交易が模索されていたことが見えてきました。 (220107投稿、清水) ※ 日韓国交正常化は1965年(昭和40年) ※ 萩市と韓国の蔚山広域市との姉妹都市提携は1968年(昭和43年)、日韓国交正常化後、第一号の姉妹都市提携 #
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| 2022-11-26 16:13
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河口の港・浜崎港 かつて松本川の河口部分は、松本川の流れが運ぶ土砂が堆積する場所でした。 そして冬になると、季節風と打ち寄せる荒波により、菊ヶ浜の方から砂州が発達していました。 河口が浅く狭くなり、菊ヶ浜と鶴江が地続きになることもあったそうです。 そうなると、船の航行は難しくなり、大型の船は河口にある浜崎港を利用できませんでした。これは長い間、浜崎港の抱える課題となっていました。 これが改善されたのが、1925年(大正14年)の(河口から沖合に伸びる防波堤で松本川の流路を安定させた)浜崎港改修と埋め立てでした。 この年、鉄道が萩まで開業することに合わせ、浜崎と新川との間を結んでいた雁島橋が、東萩駅に近い松本川の上流に架け替えられ、橋から浜崎に至る松本川左岸の道路も整備されました。 鉄道開業の後も浜崎は、各地と海や川でつながる物資の集散地として、重要な役割を果たしました。 江戸時代に浜崎の御船倉(代官)が治めた萩沖の島々とも、この浜崎港を通して行き来が行われていました。 今回は、その萩の離島と浜崎との関係を伝える写真をご紹介します。 一枚は1960年(昭和35年)頃に鶴江の台から撮影された浜崎港の写真です。 これには、「(有)玉江石油」前の松本川に面した岸壁に、離島と浜崎港を結ぶ定期船が写っています。 写真右部に萩~見島間を結ぶ「見島丸」、それより少し上流(写真では左)に萩~大島間を結ぶ「大島丸」、そして川中側に「大島丸」に舫う(もやう)形で萩~相島間を結ぶ「相島丸」が、それぞれ舳先を上流に向けて繋がれています。 ちなみに「見島丸」(1959年建造の鋼船、約100㌧)は、この当時、見島との間を2時間30分で結んでいました。 また、「大島丸」(1956年建造の木造船、約52㌧)は所要40分で、そして「相島丸」(1959年建造の木造船、約40㌧)は所要1時間10分で、浜崎港とそれぞれの島とを結んでいました。 もう一枚の写真は、大島から到着した定期船「はぎ」(1971年、昭和46年に「見島丸」から船名変更)から、乗船客が降りる様子が写っているものです。 後方には、鶴江の台を背景に、1971年4月に進水した定期船「たちばな」が写っています。 浜崎港には島々の農産物ももたらされ、定期船発着場の近くには、それらを取り扱う農協の共和支所が設けられました。 これらの定期船は、1977年(昭和52年)に萩商港が整備されるまで、松本川の河口を出入りしていました。 (211010投稿、清水) #
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| 2022-11-26 15:41
| くらしのやかたより
「踊り車」と掲げられた「額」 以前このコーナーで、江戸時代終わりころに編まれた『八江萩名所図画』の中の、「住吉祭礼の図」をご紹介しました。 住吉祭りの折に市中を巡行する「踊り車」が描かれたものです。 この「踊り車」の巡行については、1700年代初め頃の記録に見えますので、300年の歴史を誇ることになります。 1659年に住吉祭りが始まった当初は、飾りが施された小さな車(山車)を子供が曳き、同じく浜崎町より子供たちによって曳き出される小さな「車船」とともに、市中を巡っていたとされます。 それらはその後50年の間に、次第に大型化し、山車や御船(山車)に人が乗り込んで踊りや謡いを披露するという、人の耳目を集める華やかなものに進化していっています。 どうも江戸時代の萩城下の人々は、人が驚くような趣向を凝らしたものや、華やかで活気があるものを好むという意識を持っていたようです。 そういった視点で「住吉祭礼の図」中の「踊り車」を見てみると、進行方向側の屋根破風の下に設けられた庇(ひさし)の上に、興味深いものを認めることができます。 そこには、昇る朝日を背景にした富士山のような「造り物」が表現してあるのです。 萩の住吉祭りと同様に「踊り車」が曳き出される祭礼が、浜崎町の対岸(?)の長門市仙崎に伝えられています。 彼の地の「踊り車」においては、この庇の上に「造り物」が飾られます。 以前は毎年のように造り替え、時には博多山笠の飾りの一部を譲り受けて、その年の巡行に備えたこともあったと聞きました。 現在、萩においては、ここに立派な文字が書かれた大きな「額」が掲げられています。 おそらく住吉祭りの「踊り車」においても、多い時には5台も曳き出されていた「踊り車」のそれぞれで、毎年趣向を凝らした「造り物」を飾り付け、城下の人々を驚かせ楽しませていたのでしょうが、いつのころからか、それが「額」に取って代わったようです。 100年近く前に撮影された「踊り車」の写真には、既に大きな「額」が掲げられています。 その後の様々な年代に撮影された写真にも「額」が写っていますが、「額」の文字は一様ではありません。 「造り物」から「額」に変わった理由については、残念ながら伝えられていません。 ひょっとすると、城下においては、「額」に表現された「書画」の出来栄えや工夫を尊ぶ文化が、早くから形作られていたのかもしれません。 (210610寄稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-11-15 17:15
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