オール浜崎大運動会
令和5年(2023)9月10日、コロナ禍で休止されていた浜崎九友会主催の浜崎町民大運動会が4年ぶりに開催されました。 第四十二回目ということですから、始まったのは昭和54年(1979)ということになります。 今回ご紹介する写真は、それよりも以前に開催されていた浜崎町内運動会の様子を撮影したものと考えられます。 とある方のアルバムを複写させていただいたのですが、残念ながら撮影年が付されていませんでした。 住吉神社の境内で開催されていることから、昭和22年(1947)開設の住の江保育園におたずねしましたが、該当する資料は保管されていないということでした。 ならばと、昔から浜崎にお住いの方々におたずねして回りましたが、なかなか特定には至りませんでした。 ただ、幾つか重要な情報を得ることができました。 例えば、大正14年(1925)にお生まれのMさん(どなたか皆さんお分かりですよね・・)は、25,6歳の時にこれに参加されたということでした。 また、昭和17年(1942)にお生まれのFさんは、小学校4年生のころにリレーに出場して一位になったこと、そして新町下の丁が総合優勝し、大会の後に、町内会長Aさんの先導で優勝旗を持って町内を行進したことを思い出して下さいました。 つまり、昭和25年(1950)頃には、この運動会は開催されていたということなのです。 これを受けて、図書館に保管されている古い地方新聞などを確認しました。 すると、「萩市報」の昭和26年(1951)10月12日号に、以下のような記事を見出すことができました。 そのまま引用します。 「浜崎町愛護会連合会結成」 浜崎八区では既にそれぞれ児童愛護会が結成されているが、九月十三日浜崎全区の児童愛護会連合会が結成され、会長に竹内八郎氏、副会長に三坂勉氏、大田利義氏が就任された。 結成式終了後、住の江保育園と共催で連合運動会が催され児童約八百名と共に保護者多数が参加、一千数百名の親子が秋晴れの日光を浴びて終日競技に打興じた。 いかがでしょうか。 「児童約八百名」、「一千数百名の親子」という参加者数に驚きますが、あらためて写真を見ると、「児童愛護会」の旗が多数翻り、幅広い世代の方々が参加され、そして笑顔があふれています。 浜崎地区の活気が伝わってくるこれらの写真は、この萩市報に報じられた運動会を撮影した可能性が出てきました。 その後、住吉神社に「オール浜崎大運動会」「主催 オール浜崎協賛会」の文字が染め抜かれた優勝旗が保管されていることも分かりました。 愛護会連合会結成を機に始まった運動会は、協賛会主催でしばらく開催された可能性も見えてきました。 ただ、いつまで続いたかはよく分かっていません。 この運動会について何かご存じの方がありましたら、ぜひご教示をお願いいたします。 (230919寄稿) #
by hagihaku
| 2023-10-13 18:19
| くらしのやかたより
住吉祭りの通り町 コロナ禍の終わりが見通せない中、今年も住吉祭りの季節が到来しました。 城下の二大祭礼の一つとされる萩浜崎住吉神社の夏季祭礼ですが、祭礼が開始されたのは万治2年(1659)、今から360年以上前のことです。 一般的に住吉神は、航海守護の神とされます。 しかし、ここ萩城下においては、穢れを祓い厄災を除いてくださる神として信仰を集めてきました。 その背景には、盛夏を迎えるにあたり、衰えた生命力を更新し、その後を無病息災に過ごしたいという城下の人々の切実な願いがありました。 江戸時代の城下町萩は、西国有数の大都市(町人地の人口は全国の城下町で10番目)で、疫病の蔓延が、火災と共に何よりも恐れられました。 この住吉祭りが城下をあげての祭礼となったのには、藩の関与もあったと考えられます。 現在も祭りの呼び物の一つである御船の巡行や、人目を引く(引いたであろう)「寄進聖」という笠鉾・山車の巡行は、江戸時代には藩の施設である「御船蔵」が担っていました。 また、現在も引き継がれている「通り町」の制度も、早くに藩の認めるところとなっていました。 「通り町」は、城下の数町内が順に祭礼へ奉仕する制度で、「住吉町」とか「引受け町」とも呼ばれます。 祭りが始まって程なくの寛文6年(1666)に始まり、延宝2年(1674)からは2町内ずつが奉仕を続け、現在に至っています。 藩は祭りを盛んにすることに腐心していたようです。 「通り町」においては、かつては「踊り車」、「夜見世」、「通りもの」などで祭礼を囃していたとされます。 このうちの「夜見世」は、店先や座敷を開放し、祭りに合せて制作した作り物を飾り、道行く人たちに披露するものです。 商店であれば、商品を用いた作り物を工夫し、人目を引く作り物の題材や見せ方が注目され話題になりました。 「通りもの」については、残念ながら具体的な内容が記録に残されていません。 ただ、お隣の福岡県「博多どんたく」においては、現在も多くの「通りもん」が街を練り歩きます。 また長崎県内では、盆の仮装行列を「トシモン」とか「トオシモノ」と呼ぶところがあります。 類推するに、萩城下の「通りもの」は、人目を引く衣装をまとい、三味線・笛・太鼓などを奏でながら祭りを囃して練り歩く行列の類いだったのではないかと考えられます。 「通り町」の呼び名は、これを担う町内ということで定着したもののようです。 「通りもの」を繰り出すという目的のために町内の人たちが集うことは、日ごろ異なる生業に従う人が多い城下町においては、互いの人間関係を確認し、強めていく上で、とても大事な機会になっていたと考えられます。 (230609寄稿) #
by hagihaku
| 2023-07-05 16:24
| くらしのやかたより
120年前のメダル 以前この欄で(※1)、明治期に開催された内国勧業博覧会や水産博覧会のことを話題にしたことがあります。 そして、浜崎を含む萩地域からは、特に水産業にかかわりのある産品が多数出品され、その多くが大変高い評価を受けていたことに触れました。 全国からの出品数は27万6719点、 3月1日から7月31日までの153日間で、来場530万人! を数えたそうです。) 内国勧業博覧会は、日本国内の産業を興すことを目的とした博覧会で、明治10年(1877)、明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)、そして明治36年(1903)の都合5回開催されました。 全国から出品された様々な分野の産品は、審査され、優れた物や技術については表彰され、全国に紹介されました。 それらは、各地の産業の振興に活かされました。 今回ご紹介するのは、その第5回の内国勧業博覧会における入賞者に贈られたメダルです。 入賞したのは「サザエ日本煮(やまとに)」缶詰で、出品者は浜崎の馬庭三四郎氏です。 「日本煮」は「大和煮(やまとに)」とも表記されますが、砂糖、醤油、ショウガなどを加えた濃い味付けの煮物です。 牛肉や鯨肉(※2)を用いて製造されたものが良く知られています。 入賞の後に製造されたサザエ日本煮缶詰のラベルが伝わっていますが、それには「第五回内国勧業博覧会有効三等賞受領」の文字が印刷されています。 「特約一手販売店」として神戸市の商店名も印刷されていることから、このサザエ日本煮缶詰は広く国内外において販売されたものと考えられます。 この缶詰製造元の馬庭家においては、江戸時代から「俵物(たわらもの)」の一つとして清国に輸出されていた「鱶(ふか)鰭(ひれ)」の生産も行っていたようで、明治28年(1895)の第4回内国勧業博覧会における表彰状である「褒状(ほうじょう)」も伝わっています。 前述の入賞メダルやこの褒状は、明治維新の後に、全国各地で産業を振興させようとしてきた日本の歩みを、具体的に示す貴重な資料と言えます。 そして、海と深いかかわりを持ちながら発展してきた浜崎の特質を、良く表す資料でもあります。 実はこれらの資料は、今回、馬庭家の整備・利活用にあたり確認されたものです。 120年から130年近く前の誇らしい出来事を示すこれら資料は、ひっそりと家の中に掲げられ、保管されていました。 そのような「おたから」が、個々の家で「普通に」伝えられていることに、浜崎の「まち」の持つ懐の深さのようなものを感じます。 ちなみに、第4回の内国勧業博覧会においては、馬庭三四郎氏の他に、浜崎の長谷川虎蔵氏出品の「鱶鰭」が「有功二等賞」を、同じく竹内七三郎氏出品「鱶鰭」が「有功三等賞」を授与されています。 浜崎の先人たちは、日本の水産業の振興に大いに貢献してきました。 (230318寄稿、清水満幸) ※1 はまかぜだより13「浜崎と内国勧業博覧会」(2013年3月発行の「浜風だより」19号) ※2 はまかぜだより07「浜崎とクジラ(後編)」(2011年5月発行の「浜風だより」12号) #
by hagihaku
| 2023-04-07 11:24
| くらしのやかたより
「素倉」と「協敬組」 前号の「浜風だより53号」において、「汽船荷客取扱処」の伊勢島商店屋上に設けられた望楼についてご紹介しました。 その後、その望楼の細部を確認できるより鮮明な写真を見出すことができました。 あらためてご紹介します。 ガラス窓を巡らした望楼の様子がよく分かります。 さて今回は、その望楼の写真手前(北側)に見える大きな蔵のような建物について触れてみたいと思います。 この建物も、港町・浜崎ならではのものです。 この建物が建つ場所には、江戸時代に藩の番所がありました。 番所では、港に出入りする船の取締と、積み出し・積み入れする荷物(貨物)に対して、「口銭」と呼ばれる利用料にあたるものを徴収していました。 現在「問屋町筋」と松本川との間に河岸道路が整備されていますが、かつてこの場所は荷物の荷上場としても利用されていました。 明治以降、この荷上場の管理や口銭の徴収などの役目を担ったのは、17軒の廻船問屋をはじめとした浜崎の町人たちでした。 その町人たちは、「巴北発輝社」と呼ばれる団体を興しました。 それは巴城=萩の北において輝きを発するという、大変に意欲的な名の荷上場管理団体でした。 その団体が整備して管理したのが、写真に写る「興倉(おきぐら)」です。 浜崎の人たちは、この建物を「素倉(すぐら)」とも呼んだそうです。 平素は中が空で、荷物が置かれていなかったからです。 巴北発輝社の荷上場に水揚げされた荷物は、一旦この素倉に納められました。 その荷物の荷揚げや仕分け、さらには荷主への配送に携わったのが「素倉仲仕(すぐらなかし)」と呼ばれた人たちです。 この素倉仲仕は、前号で触れた大阪商船扱いの荷物も含め、浜崎港の荷揚げ作業に独占的に関わったとされます。 素倉の北側に設けられた仲仕詰所には、常時、20~40名の仲仕が詰めていたとされます。 それほど荷扱いが多かったということで、浜崎港の繫栄を示すものです。 それは、1925年(大正14年)に萩駅・東萩駅まで鉄道が開業し、貨物の運搬が陸上輸送に変わっていくまで続きました。 素倉仲仕については、とても強固な団結心で結びついた団体だったそうです。 素倉が役目を終えた後も、住吉神社の崇敬団体「協敬組」として、住吉祭り御船巡行の先導役を務めるなど奉仕を続けました。 (220915寄稿 清水) 〈参考文献〉 ・ 『萩の百年』 ・ 『萩市「浜崎地区」伝統的建造物群保存対策調査報告』 ・ 『明治期 山口県商工図録』 #
by hagihaku
| 2022-12-08 12:12
| くらしのやかたより
浜崎の伊勢島利介商店と望楼 『山口県豪商便覧』という、明治19年(1886)に刊行された商工便覧が伝わっています。 県内各地の商店や会社、製造所などを、当時先進の銅版画(エッチング)で紹介したものです。 山口、防府、徳山、柳井、岩国、萩の171業者が掲載されていますが、そのうち萩については、46業者を数えることができます。 掲載業者数の四分の一強を占めるということで、明治中期の萩の活況がうかがえます。 この便覧の中に、「汽船荷客取扱処」「汽船荷揚場」として浜崎の伊勢島利介商店が紹介されています。 実は、萩以外にも13の汽船荷客取り扱い業者や回漕業者が紹介されていて、当時の物流において船が大変重要な位置を占めていたことが分かります。 ちなみに、神戸-馬関駅(下関駅)の山陽鉄道が全線開業するのは、明治34年(1901)のことです。 明治20年頃より京阪神に盛んに出荷されるようになった萩特産の夏みかんは、当初は、専ら船で運ばれていました。 そのような貨物に加えて人も運んだのが、浜崎に寄港した大阪商船会社の汽船でした。 社史などによると、明治17年(1884)に、大阪と境港・安来を結ぶ蒸気船による定期航路が開設されます。 隔日の運航で、山口県の日本海側では江崎、須佐、萩、仙崎に寄港しています。 伊勢島利介商店は、その大阪商船会社の代理店として、荷客取り扱いをしていたようです。 便覧に掲載された商店の店先には、漢字の「大」を図案化した大阪商船会社の社旗が掲げられています。 商店があった場所は、「萩印刷」があった場所です。 明治期には松本川沿いの道路はなく、商店の東側(川側)がすぐに岸壁・ガンギ(石段)となっていたことが、先に紹介した「荷揚場」の版画から見て取れます。 当時の建物と蔵が現存しますが、かつては、蔵は川側に開口していて、船(はしけ)との間での荷物の積み降ろしが行われていました。 また伝承によると、伊勢島商店は船宿を兼ねていたとされます。 そして、建物の階上には、船の出入りを確認することができる望楼があったとされています。 林家(奈古屋商店)に伝わる大正年間に撮影された写真には、その望楼が写っています。 港町浜崎らしい建物となっています。 (220612寄稿 清水) 〈メモ〉 ・ 明治20年(1887)に大阪商船株式会社の取次店 ・ 明治22年(1889)、伊勢島利介の勧奨により、萩の夏橙仲買商が集まり、萩蜜柑輸出仲買商組合を結成する(組合長山中三吉) #
by hagihaku
| 2022-12-08 11:44
| くらしのやかたより
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