「城下町のあゆみ」では、三角州と城下町の発展形成についてのおさらいをしました。
それでは、いよいよ、なぜ、現在も江戸時代の城下町絵図を地図として用いることができるのか、ということについて謎解きを試みます。 明治時代以降の、萩三角州の「低湿地」開発について紹介するコーナーです。 江戸時代の城下町絵図が、そのまま地図として使えるということは、江戸時代に形作られた「まち」が大きく壊されていないということです。 今回の企画展では、それを、4つのキーワードから紹介しています。 キーワードの一つは「低湿地」です。 萩三角州の中央辺りには、標高2メートル未満の低湿地が広がっています。 かつては水田やハス田(蓮畠)として利用され、大雨で出水した際に、遊水池になっていたような所です。 実はこの一帯に、明治時代以降、役場や学校、道路といった近代化に不可欠の公共・公益の施設が作られました。 元からあった「まち」を壊さない近代化が進められました。 今回、是非ご覧いただきたい資料の一つです。 ちょっと見では、ただのゴミです。 ところがところが、これが、三角州低湿地の開発を示す大変に重要な資料なのです。 明倫小学校敷地内、つまり、藩校明倫館の敷地内、地下1.3メートル辺りから出土したシダ類です。 藩校明倫館が、1849年に移転拡充整備された際の、造成工事に用いられたものです。 新明倫館の1万5千坪を超える広大な敷地は、低湿地にシダ類を敷き詰め、その上に土砂を入れて造成するという伝統的な工法が採られました。 その大規模開発の歴史について伝える重要資料なのです。 文武を奨励する藩の方針で、藩校明倫館が拡充整備されたのは、江戸時代末のことです。 旧明倫館と比べると15倍以上の規模を誇る新明倫館でした。 敷き詰められたシダ類は、厚さ30cm余に及びます。 1万5千坪に敷き詰めるシダ類を、誰がどこから調達したのか素朴な疑問を覚えますが、大規模開発が可能だったのは、三角州中央あたりに利用可能な低湿地があったからこそです。 明倫館の拡充整備では、元からあった「まち」は壊されませんでした。 ちなみに、明治時代以降、明倫館の敷地内に、役場(後に裁判所)、小学校、商業学校などの公共・公益施設が設けられました。 ・・・ つづく (清水)
by hagihaku
| 2009-12-22 08:43
| くらしのやかたより
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