キーワードの2、夏みかんが城下町を守ったことを紹介するコーナーです。
夏みかんは、萩の特産品です。 明治維新の後、明治9年(1876)、禄を失った武士の救済のために、全国に先がけて経済栽培が始まりました。 昭和27年(1952)の夏みかん畑の分布図です。 緑色で表現されている部分が夏みかん畑で、広く栽培されていたことが分かります。 昭和22、23年(1947、48)撮影の萩三角州航空写真と、江戸時代終わり頃(1850頃)の城下町絵図です。 航空写真で、周囲より黒っぽく写っているのは、夏みかん畑の葉の緑です。 これと、先の夏みかん畑分布図、そして城下町絵図とを見比べてください。 何か見えてきませんでしょうか? 城下町絵図の白く見える部分と、夏みかん畑とが重なりませんか? 実は、城下町絵図で白く表現されているのは、武家屋敷地なのです。 夏みかんは、広大な武家屋敷地を畑として栽培されていたのです。 昭和27年(1952)の夏みかん畑分布図は、経済栽培が始まって80年近くを経た栽培の状況です。 萩三角州のかなりの部分で、夏みかんが盛んに栽培され続けていることが見えてきます。 それは、なぜなのでしょうか? 経済栽培が始まって10年余、夏みかんは大阪市場などに出荷されるようになります。 初期には、米1升と夏みかん3個から5個が等価!という、大変な高値で取引されたそうです。 そして一時期は、当時の萩町の年間予算の8倍!に上る生産額を誇りました。 (現在の萩市年間予算を300億とすると、2400億!ちなみに山口県の年間予算が7千数百億) 夏みかんの樹が3本あれば、こどもを上級学校に通わせることができた、とも伝えられています。 (この辺りのことは、ブログで「萩・夏みかん物語」として紹介しています) 夏みかんの盛んな栽培は、1970年頃まで続きます。 その結果、畑となった武家屋敷地が、分割分譲されることなく永く維持されました。 夏みかんの風除けに、屋敷地周囲の土塀や建物も維持されました。 つまり、夏みかん栽培が永く続けられたことが、武家屋敷地を、ひいては城下町を、大きな改変から守ったのです。 ということで、「城下町のひみつ」は続く ・・・ (清水) 萩博物館は、年末年始も休まず開館! しております。 ふるさとに帰られる萩地域出身の皆さん、 萩市をお訪ねくださる皆さん、 そして萩市民の皆さん、 「なつかしい日本のふるさと」のひみつを確かめに、是非、お運びください。
by hagihaku
| 2009-12-28 18:27
| くらしのやかたより
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