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吉田栄太郎の日記
今回の「討幕エネルギーの系譜」には、松陰門下の逸材として知られる吉田栄太郎(稔麿)の日記を展示する予定だ。13歳の嘉永6年(1853)3月、みずから希望して江戸に赴いたさいの日記で、横綴じの手帳である。同年6月、ペリーの黒船騒動を江戸で間近に体験し、発奮した栄太郎は小幡源右衛門に入門し、槍術の稽古に励む。まだ刀槍で外圧が撥ねつけられると、信じられていたころである。
日記は日々の出来事がきわめて淡々と記されている。いずれ全文を翻刻したいと思うが、今回はその表紙部分に注目いただきたい。中央に大きく「吉田栄太郎」。右肩に「嘉永六年三月六日」とあるから、萩を出立するさい記したと思われる。そしてなにやら花押のようなものも二つ書かれている。まことに奇妙なのが、その「吉田栄太郎」の五文字の字体だ。なんと言えばいいのだろう。篆刻文字をさらにぐにゃぐにゃと曲げたような、他に見たことがないような奇妙な字体である。とても変である。私はこの変な五文字に、これから萩を飛び出して江戸へ向かう、つまり天下に乗り出そうとする13歳の栄太郎の意気込みのようなものを感じる。あまりセンスがいいとは思えぬが、他人とは違う自分を一生懸命模索して表現したような気がするのだ。母にあてた手紙などを読んでいると、栄太郎はなかなか癖の強い男だったように思えてくる。周囲の庄屋や村役人が自分の指示どおり動いたとか、自慢していたりする。
以前、この奇妙な五文字を見たある女性が、栄太郎は当時悪い彼女と付き合っていたのではないかとの感想をもらした。彼女の夢にまで出てくる、気持ち悪さだったという。私はどういう意味だろうかと、最初は思った。しかし栄太郎が、ここまで意気込んだのは何か理由があったはずだと考えるようになった。栄太郎には、いいところを見せたい女性がいたのではないか。女は男を発奮させる、魔物のような一面がある。そのためにどれほどの男たちが実力以上の力を発揮しすぎて、そのために滅んでしまったことか。ちなみに以後、とても頑張った栄太郎は元治元年(1864)6月5日、池田屋事変で新選組と戦い亡くなった。24歳だった。
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(一坂太郎)
by hagihaku | 2010-03-18 13:44 | 高杉晋作資料室より
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