人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ピストル考
(1)
 高杉晋作は土佐浪士坂本龍馬に、ピストルを贈った。それは慶応元年(一八六五)の暮から翌二年の年頭にかけて、場所は長州藩の下関あたりと考えられる。
 そして慶応二年一月二十四日、伏見寺田屋で奉行所捕方に急襲された龍馬は、このピストルを撃ち、数名を死傷させて虎口を脱することになる。
 この逸話はよく知られる。龍馬は同年二月六日、木戸孝允に事件を知らせた手紙で「かの高杉より送られ候ビストールをもって打ち払い」と述べる(ただし、龍馬の妻おりょうはずっと後年、ピストルは薩摩藩の小松帯刀からの贈り物だったと回顧する)。
 だから、晋作が龍馬にピストルを贈ったことは確かなのだろう。ところがこのピストルに、おそらくは戦後のある時期から「由来」が付くようになる。ピストルは晋作の「上海土産」だったというのだ。はじめは推定だったようだが、最近は断定されている場合が多い。そうした方がドラマチックなのか、とくに郷土作家や郷土史家は「上海土産」を強引に押し通している観がある。平成元年に山口県立山口博物館が編纂した図録『高杉晋作と奇兵隊』でも、「日誌によると上海で晋作は拳銃2挺を入手した。そのうち1挺は帰国後、下関を訪れた坂本竜馬に贈っている」(執筆石原啓司)と、小説の一場面のような解説があり、さすがである。
 晋作は文久二年(一八六二)、幕府の船千歳丸に便乗して上海に渡航し、約二カ月間滞在した。その間の動向は晋作自身の日記「遊清五録」(『高杉晋作史料・二』)に詳しい。これを見ると、確かに晋作は上海で少なくとも二挺のピストルを購入している。六月八日の条に「蘭館に至り、短銃および地図を求む」、六月十六日の条に「米利堅人店に至り、七穴銃を求む」とあるのが、それだ。

(2)
 やはり、晋作は上海で購入した二挺のピストルのうちの一挺を、龍馬に贈ったのだろうか。いや、それは根拠が薄いように思われる。
 晋作が上海でピストルを購入してから、龍馬に与えるまで、およそ二年半という時間がある。この間に晋作が他からピストルを入手するチャンスが皆無だったとすれば、それも良いのだが、どうも違うようだ。
 『大村益次郎史料』には、当時下関あたりで盛んに武器の密輸が行われていたことを窺わせる史料が収められている。その中には「ピストル代引き当て」として「内 百両 广香、内 五拾両 春輔、内三拾両 木圭」云々とある。春輔は伊藤博文か奇兵隊幹部の三好重臣(軍太郎)、木圭は木戸孝允である。いずれも晋作の身近にいる者たちだ。他にも「ピストール」や「玉」の購入者として「山田」「木圭」「河野」「中島」「正木」「前原」「聞多」「井上」の名が見られるが、特に、
「  ピストール
 一 壱挺   谷梅之助
 一 〃    福原三蔵
 一 〃    財満百合熊
 一 〃 代価受取り
        幸坂多中
     庄兵衛預り
 一 〃    入江和作え 主人
         受け
 一 〃    青木運平
 一 〃    小田熊之助
  以上四拾五両 三人不足」
 の部分に、注目したい。
 「谷梅之助」とは晋作のことである。元治元年(一八六四)十一月ころから慶応元年はじめにかけて、用いた変名である。これらの史料は、龍馬が伏見で遭難する一年ほど前、かなりの量のピストルを晋作およびその周囲が、個人で購入していたことを示す。
 当時の晋作らは、長州征伐軍に恭順謝罪した藩政府を打倒し、新政権を樹立したばかりだった。だから身辺にも危険が多く、護身用にピストルが必要だったのではないか。
 晋作から龍馬に贈られたピストルというのは、このころ購入された一挺だった可能性も否定できまい。長州に居てもピストルは入手可能だったのだ。
 慶応元年十月一日付、奇兵隊軍監(副長)山県狂介・福田侠平あての晋作書簡には、
「ヒストール、時山に託す。替わり早々御返し願い奉り候」(『高杉晋作史料・一』)
 とある。時山とは奇兵隊参謀の時山直八。晋作は時山にピストルを託した。その替わりを、早く返して欲しいと言う。
 二カ月後の十二月三日、龍馬は晋作がいる下関を訪れた。そのさい、晋作からピストルを贈られたとされている。時期から見ても、この手紙にある時山絡みのピストルだったかも知れない。いずれにしても、龍馬に贈られたのが「上海土産」だったかは、確証がないのである。
 なお、晋作の遺品として高杉家に伝わったピストルは東京の靖国神社遊就館に寄託、展示されていたが、終戦のさい進駐軍に接収され、以後行方不明とのことだ。

(萩博物館高杉晋作資料室長 一坂太郎)
by hagihaku | 2010-07-22 17:35 | 高杉晋作資料室より
<< 萩博物館「2010年UMAとの... 萩博物館「2010年UMAとの... >>