2016年が明けて半月余、ということは、企画展「城下町萩のひみつ」が開幕して1カ月余り。
今にも雨かミゾレが降り出しそうな中、本日も多くの方々にご来場いただき感謝申し上げます。 いけませんね、ブログの更新が疎かになっています。 2009年5月撮影の、萩三角州の航空写真です。 城下町萩は、この萩三角州とその周辺に形作られたきました。 江戸時代終り頃の城下の様子を知ることができる城下町絵図(修正加工)です。 城下町萩においては、この江戸時代の城下町絵図を、現在も地図として用いることができます。 そのことは、江戸時代に形作られた「まち」が、大きく改変されていないことを意味します、 今回の企画展は、なぜ城下町絵図を地図としてつかえる「まち」が今に伝えられのか、その秘密に迫ります。 萩三角州は、阿武川の下流に形成されました。 川の中州から発達する三角州ですから、当然のことながら、標高は高くありません。 その萩三角州の微妙な「高低差」を表現した等高線図です。 濃い緑色の線が標高1.5~2.0m、オリーブ色系が2.5~3.5mです。 標高4.0m以上が茶色系の色で表現してありますが、三角州最高地点は(指月山は除く)10m未満です。 城下町萩には、水との関連をうかがわせる地名が多数あります。 例えば、入り江や川の向こうと読める「江向」、大川の中の「川島」、川沿いの「河添」、川沿いに湖沼があったとされる「平安湖(平安古)」、沼池の芦原に面して樋門があったとされる「唐樋」、川の中に島として存在した「浮島(土原の一部)」など。 さらには、三角州周辺の川辺の景勝地であった「倉江」、「玉江」、「桜江」、「小松江」、「上津江」、「中津江」、「下津江」、「鶴江」などなど。 城下町萩は、水に恵まれた「水の都」として発展してきました。 そして、恵まれ過ぎると困る水と上手に共生するために、三角州内の微妙な「高低差」を利用してきました。 三角州内の江戸時代の土地利用を示した図です。 この図と、等高線図、江戸時代終り頃の城下町絵図とを、良く見比べて下さい。 見えてくるものがありませんか? 最も標高の高い一帯に寺院が集まっており、次いで標高が高い一帯が町人地として利用され、それに次いで堀内(堀の内側=城内、萩城三の丸)が毛利藩重臣の屋敷地として利用され、それよりも標高の低い一帯が武家屋敷地として利用されています。 標高1.5~2.0m以下の標高の低い一帯は農地として利用されています。 実は、この標高の低い一帯は、大雨が降った際に、あふれた水が一時的に蓄えられる遊水池として永く機能してきました。 水田やハス田としての利用が続きましたが、この遊水池があったからこそ、そこよりも標高の高い一帯が水の害を免れることができたのです。 なかなか良く考えられた水の都の城下町経営です。 そして、この低湿な遊水池があったからこそ、城下町絵図が地図として使える「まち」が今に伝えられたのです。 それについては、また、次回。 ・・・つづく・・・ (清水)
by hagihaku
| 2016-01-17 14:48
| くらしのやかたより
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