城下町萩では、江戸時代の城下町絵図を現在も地図として用いることができます。
それは、江戸時代に形づくられた「まち」が大きく改変あされていないことを意味します。 大きな改変をもたらさなかった要因=ひみつの一つに、近代化の象徴である鉄道の萩三角州迂回敷設を挙げることができます。 1925年、大正14年4月3日、萩駅が開業した際に発行された観光案内!鳥瞰パノラマ図「萩を中心とせる付近名所図絵」です。 萩沖の上空から、独特の構図で、萩三角州や阿武川上流の長門峡が描かれています。 鉄路は赤い実線で表現されており、三角州の川外、西側(右側、長門市方面)から、玉江駅、萩駅、東萩駅を認めることができます。 鉄道開業当時は美祢線で、鉄路は正明市駅(現長門市駅)から延伸されました。 東萩駅の先は破線となっており、これから鉄道が整備されることが分かります。 開業間もない昭和初年頃の玉江駅舎です。 玉江駅は、1923年、大正12年に合併して萩町となった旧山田村に設けられました。 建築途中の萩駅舎です。 I 材木店によると、用材は主に旧川上村より集められたとのことです。 竣工間近の萩駅舎です。 開業当時は美祢線の終着駅で、機関車駐泊所や転車台なども設けられました。 また駅舎内には、賓客の利用を想定して、二等待合室も設けられました。 開業間もない昭和初年頃の萩駅舎です。 この駅舎は現存しており、旧明倫小学校の本館とともに、山口県で最初に国の有形登録文化財に登録(第2号)されました。 萩駅は、合併して萩町となった旧椿村に設けられました。 三角州突端の上流に架橋された阿武川鉄橋です。 開業間もない昭和初年頃の東萩駅舎です。 萩駅と東萩駅の間の開業は、1925年、大正14年11月1日のことです。 東萩駅は、合併して萩町となった旧椿東村に設けられました。 そうです、鉄道の駅は、三角州川外の、それぞれ旧山田村、旧椿村、旧椿東村に設けられたのです。 萩三角州の微妙な高低差を色分けして表現した鳥瞰図です。 赤色で表現されているのが、明治維新以降に建設整備された施設や道路です。 三角州内の低湿な場所に、それらが設けられていることが確認できます。 青色の実線で表現されているのが鉄道です。 三角州を迂回する形で敷設されていることが確認できます。 もし仮に、鉄道が三角州の中に敷設され、大きな中心駅が整備されていたらどうなったでしょうか? 江戸時代に形づくられた「まち」は分断され、駅の裏表の開発が進んで「まち」の構成も変わっていたと考えられます。 鉄道が三角州を迂回して敷設されたことによって、結果として江戸時代の城下町絵図を地図として使える「まち」が維持されたのです。 1960年、昭和35年ころの航空写真です。 萩三角州南西部上空から東方、三角州中央辺りを撮影したものです。 広い農地を確認することができます。 ここに鉄道が敷設されていたら、城下町萩はどのような「まち」になっていたでしょうか。 地方新聞の記事によると、1923年、大正12年8月9日、椿町金谷神社境内で、大津郡正明市(現長門市)と萩間の鉄道起工式が行われています。 この際、萩の駅設置場所について「萩町内に一ヶ所、もし郊外を通過する場合は、山田・萩・椿東の三村に必ず三ヶ所を設置せらたきこと」と要望したとされます。 また、萩市の実業家・政治家である厚東常吉の伝記『雷鳴』には、萩町と周辺三村の町村合併が議論される過程で、当初一つ駅の案だったものが、合併促進の方策として三駅設置案が有力となったと記されています。 村会の議事録などでの確認はできませんでしたが、町村合併を進めるために各村に駅を設けたという伝承は、かつて実際に耳にしたことがあります。 近代化の象徴である鉄道の敷設が、結果として、今に息づく城下町萩を大きな改変から守ったともいえます。 以上、城下町萩のひみつの6でした。 ・・・ つづく ・・・ (清水)
by hagihaku
| 2016-02-10 18:03
| くらしのやかたより
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