2016年3月30日(水)、城下町萩では気温が20℃を超えました。
昨日より、南寄りの風が吹いていましたが・・・ツバメが帰ってきました。 昨年が3月24日でしたから、少し遅い春到来です。 城下町萩を再発見するツアー(小旅行)は、毛利隠岐家(萩博物館)から3軒西隣まで歩みを進めていました。 さらに西に進みましょう。 以前もご紹介しましたが、旧萩城三の丸(堀内地区)では、1970年頃まで、広大な武家屋敷地が夏みかん畑として利用されていました。 そして、屋敷地を区画する土塀や長屋、明治以降に敷地内部の石を寄せた石積み塀などが、夏みかんの風よけとして維持されました。 土塀や長屋、石積み塀の、江戸時代に築かれた基礎石部分の石材に注目した分布図です。 ワークショップに参加した小学生の調査成果をもとにまとめたものです。 (実は、小学生の大発見物語りがあるのですが、それはあらためてまた・・) 夏みかん畑が維持されたからこそ、萩城三の丸全域で、江戸時代に築かれた基礎石が確認できます。 ちなみに、赤色で表現されているのが花崗岩の基礎石で、濃い青色で表現されているのが安山岩(笠山石)の基礎石です。 毛利隠岐家(博物館)が接する本町の通りの南側では、明治初年に畑が通り側に拡げられたため、基礎石が確認されていません。 毛利主計・国司熊之助・毛利筑前・益田伊豆のそれぞれの屋敷地に接する四つ角です。 益田家の敷地東側の長い長い土塀です。 途中、出入り口は全く無く、敷地は後町の通りまであります。 敷地の奥行は約120m! 本町の通りに面しては白っぽい花崗岩の基礎石、屋敷側面には黒っぽい安山岩の基礎石が見えます。 益田伊豆家の前、西側に目を転じ、そして目線を下げてみました。 益田家の表側です。 基礎石にご注目下さい。 何か見えてきませんか? 萩博物館敷地南側、本町の通りに面した長屋門です。 江戸時代には、益田家にも、同様の長屋門が存在しました。 基礎石が認めらず、石材が不規則につまれている部分は、かつての長屋門の出入り口と考えられます。 現在も敷地の出入り口として門が設けられていますが、江戸時代には、もっと大きな開口部が存在したことが見えてきます。 いかがでしょうか? 目線を変えてみると、萩城三の丸における重臣の屋敷の様子が見えてきませんでしょうか? 西へ歩みを進めます。 益田伊豆家と毛利出雲家の屋敷の境あたりです。 いかがでしょうか? もう、お分かりですね。 赤土の土塀と石積み塀が接している所が敷地の境ではありません。 そうです、基礎石の高さが変わっている所が敷地の境なのです。 毛利出雲家の前です。 現在は、新たに宿泊施設や宅地へ出入りする道が設けられてはいますが、ここでも、目線を変えると広い広い江戸時代に存在した長屋門の開口部が見えてきます。 ぜひ、実際に城下町絵図を手に歩き、発見してみて下さい。 次は、四つ角から2軒目の毛利出雲家と3軒目の福原近江家との境を確認します。 夏みかん畑の分布図では畑の中に敷地境を確認できますが、2軒目の毛利伊豆家は随分と広かったようです。 ヒントは、福原家の基礎石が、濃い青色で表現された安山岩ということ。 写真では分かりづらいかもしれませんが、基礎石の石材の違いにご注目下さい。 少し高い所から見ると、敷地の奥の方へ、敷地を区画する崩れかけた土塀が続いるのを確認できます。 指定文化財になっている福原家の門です。 毛利隠岐家の6軒西隣?! です。 東方、毛利隠岐家(萩博物館)の方を振り返った写真です。 福原家・毛利家・益田家と本町の通りを隔てて対面する萩高等学校です。 宍戸孫四郎家と毛利筑前家の2軒の敷地が、現在、高等学校の敷地となっています。 毛利藩の重臣たちの屋敷が、いかに広大であったかを実感できます。 長々と失礼しました。 おつきあいありがとうございます。 ギャラリートークの後に催行している萩再発見ツアーの一部を歩きました。 夏みかん畑が維持され、結果として武家屋敷の敷地割が良く伝えられたからこその発見があります。 城下町萩のひみつ展の会期は、4月7日(木)までです。 ギャラリートーク・萩再発見ツアーは、4月2日(土)14;00からです。 よろしければお運び下さい。 ↓ ↓ https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=16p7hlqCDVY ・・・ つづく ・・・ (清水)
by hagihaku
| 2016-03-30 20:23
| くらしのやかたより
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