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「はまかぜだより」41 「『素倉』と『協敬組』」
「素倉」と「協敬組」

前号の「浜風だより53号」において、「汽船荷客取扱処」の伊勢島商店屋上に設けられた望楼についてご紹介しました。
その後、その望楼の細部を確認できるより鮮明な写真を見出すことができました。
あらためてご紹介します。
ガラス窓を巡らした望楼の様子がよく分かります。

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(伊勢島商店屋上に設けられた望楼)

さて今回は、その望楼の写真手前(北側)に見える大きな蔵のような建物について触れてみたいと思います。
この建物も、港町・浜崎ならではのものです。
この建物が建つ場所には、江戸時代に藩の番所がありました。
番所では、港に出入りする船の取締と、積み出し・積み入れする荷物(貨物)に対して、「口銭」と呼ばれる利用料にあたるものを徴収していました。
現在「問屋町筋」と松本川との間に河岸道路が整備されていますが、かつてこの場所は荷物の荷上場としても利用されていました。

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(望楼の手前に見える大きな蔵が「興倉(おきぐら)」、別名「素倉(すぐら)」)

明治以降、この荷上場の管理や口銭の徴収などの役目を担ったのは、17軒の廻船問屋をはじめとした浜崎の町人たちでした。
その町人たちは、「巴北発輝社」と呼ばれる団体を興しました。
それは巴城=萩の北において輝きを発するという、大変に意欲的な名の荷上場管理団体でした。
その団体が整備して管理したのが、写真に写る「興倉(おきぐら)」です。
浜崎の人たちは、この建物を「素倉(すぐら)」とも呼んだそうです。
平素は中が空で、荷物が置かれていなかったからです。

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               (松本川河口の浜崎港、鶴江の台より撮影された浜崎魚市場付近。
                河口近くに設けられていた雁島橋が上流部に移り、浜崎町に至る松本川沿いの
                道路が整備されたのが大正14年(1925)であることから、
                撮影はそれ以降、昭和初年頃か。)

巴北発輝社の荷上場に水揚げされた荷物は、一旦この素倉に納められました。
その荷物の荷揚げや仕分け、さらには荷主への配送に携わったのが「素倉仲仕(すぐらなかし)」と呼ばれた人たちです。
この素倉仲仕は、前号で触れた大阪商船扱いの荷物も含め、浜崎港の荷揚げ作業に独占的に関わったとされます。

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(図の左下部に「素倉」、右下部に「仲仕寄場」が表現された「物品回漕店 木嶋久治郎商店」の図)

素倉の北側に設けられた仲仕詰所には、常時、20~40名の仲仕が詰めていたとされます。
それほど荷扱いが多かったということで、浜崎港の繫栄を示すものです。
それは、1925年(大正14年)に萩駅・東萩駅まで鉄道が開業し、貨物の運搬が陸上輸送に変わっていくまで続きました。


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(住吉祭りにおいて浜崎町を巡行する「御船」と先導役を務める「協敬組」)

素倉仲仕については、とても強固な団結心で結びついた団体だったそうです。
素倉が役目を終えた後も、住吉神社の崇敬団体「協敬組」として、住吉祭り御船巡行の先導役を務めるなど奉仕を続けました。

(220915寄稿 清水)

〈参考文献〉
 ・ 『萩の百年』
 ・ 『萩市「浜崎地区」伝統的建造物群保存対策調査報告』
 ・ 『明治期 山口県商工図録』


by hagihaku | 2022-12-08 12:12 | くらしのやかたより
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