住吉祭りの通り町 コロナ禍の終わりが見通せない中、今年も住吉祭りの季節が到来しました。 城下の二大祭礼の一つとされる萩浜崎住吉神社の夏季祭礼ですが、祭礼が開始されたのは万治2年(1659)、今から360年以上前のことです。 一般的に住吉神は、航海守護の神とされます。 しかし、ここ萩城下においては、穢れを祓い厄災を除いてくださる神として信仰を集めてきました。 その背景には、盛夏を迎えるにあたり、衰えた生命力を更新し、その後を無病息災に過ごしたいという城下の人々の切実な願いがありました。 江戸時代の城下町萩は、西国有数の大都市(町人地の人口は全国の城下町で10番目)で、疫病の蔓延が、火災と共に何よりも恐れられました。 この住吉祭りが城下をあげての祭礼となったのには、藩の関与もあったと考えられます。 現在も祭りの呼び物の一つである御船の巡行や、人目を引く(引いたであろう)「寄進聖」という笠鉾・山車の巡行は、江戸時代には藩の施設である「御船蔵」が担っていました。 また、現在も引き継がれている「通り町」の制度も、早くに藩の認めるところとなっていました。 「通り町」は、城下の数町内が順に祭礼へ奉仕する制度で、「住吉町」とか「引受け町」とも呼ばれます。 祭りが始まって程なくの寛文6年(1666)に始まり、延宝2年(1674)からは2町内ずつが奉仕を続け、現在に至っています。 藩は祭りを盛んにすることに腐心していたようです。 「通り町」においては、かつては「踊り車」、「夜見世」、「通りもの」などで祭礼を囃していたとされます。 このうちの「夜見世」は、店先や座敷を開放し、祭りに合せて制作した作り物を飾り、道行く人たちに披露するものです。 商店であれば、商品を用いた作り物を工夫し、人目を引く作り物の題材や見せ方が注目され話題になりました。 「通りもの」については、残念ながら具体的な内容が記録に残されていません。 ただ、お隣の福岡県「博多どんたく」においては、現在も多くの「通りもん」が街を練り歩きます。 また長崎県内では、盆の仮装行列を「トシモン」とか「トオシモノ」と呼ぶところがあります。 類推するに、萩城下の「通りもの」は、人目を引く衣装をまとい、三味線・笛・太鼓などを奏でながら祭りを囃して練り歩く行列の類いだったのではないかと考えられます。 「通り町」の呼び名は、これを担う町内ということで定着したもののようです。 「通りもの」を繰り出すという目的のために町内の人たちが集うことは、日ごろ異なる生業に従う人が多い城下町においては、互いの人間関係を確認し、強めていく上で、とても大事な機会になっていたと考えられます。 (230609寄稿)
by hagihaku
| 2023-07-05 16:24
| くらしのやかたより
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