【寺町・御弓町(おゆみちょう・おいみちょう)と砂丘】 以前、浜崎新町にお住まいだった方から、「何かあったら亨徳寺(こうとくじ)に行くように、と言われて育った」というお話をうかがったことがあります。 「何か」が何を指すのかは、うかつなことで確認していませんでした。 掲載の写真は、以前、このコーナーでご紹介したことがあるものです。 浜崎新町「中の町」の通りを、北の方の少し高い所(家の屋根上?)から見通して撮影したものです。 萩町(当時)で初めて電灯が灯った明治44年(1911)頃の撮影と考えられます。 遠くには、寺院の大屋根がいくつか確認できます。 「寺町」と呼ばれるように、寺院が集まっていることが良く分かります。 それらの中の浜崎新町寄りで、ひときわ目立っているのが亨徳寺の大屋根です。 これら寺院の屋根が遠くから望見されるのは、寺町が浜崎町・浜崎新町より高い位置にあるからです。 寺院がある辺りは、少し大げさな表現をしますが、萩三角州の中でも最も標高(海抜)が高い「高地」です。 そこは、標高5~9mの砂丘の上にあたります。 そのことを考えると、「何かがあったら」というのは、ひょっとしたら地震による津波などに備えるための言い伝えなのかもしれません。 なぜ寺院が、低湿な三角州にあって最も水害の被害を受けない高い場所に集まっているのでしょうか。 残念ながら、その理由については定かなことは伝わっていません。 全国の城下町においては、寺町が城下の周縁に設けられている例が散見されます。 城下防御のためという軍事的な説明がなされることが多く有ります。 それでは萩城下ではどうでしょうか。 興味深いのは、「おゆみちょう」とか「おいみちょう」と呼ばれている「御弓町」町域の存在です。 江戸時代に描かれた城下町絵図を見ると、浜崎新町の南側、寺町と接する一帯に、白く表現された多数の比較的小規模な武家屋敷が確認できます。 これらの武家屋敷が接する東西約300mの通りは、「御弓町筋」と呼ばれていました。 その名は、「御弓組」の者が居住していたからと伝えられています。 「御弓組」は、戦の際に弓矢を持って戦う部隊です。 他の城下町においては、「鉄砲組」などとともに、防御のために城下周縁に集住する例があります。 それからすると、寺町の高地への配置には何か軍事的な理由があったのかもしれません。 いずれにしても浜崎新町から御弓町・寺町にかけては、いたる所にけっこうな坂道が存在します。 なかなか直接には見えづらいのですが、萩城下町を形作る砂丘の頂や縁(へり)を体感することができる場所となっています。 (240529寄稿) ※ 通りには、盛装したお坊さんの行列を見て取ることができます。 この行列は、浄土真宗寺院の住職が代がわりする際に催行されるもので、 「継職法要(住職を引き継ぐ法 要)」における次第の一つです。 ※ 萩三角州内の最も高い地点は、亨徳寺の東隣の保福寺墓地の中にあります。
by hagihaku
| 2024-07-12 17:47
| くらしのやかたより
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