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手紙にみる伊藤博文の名の変遷―「長州ファイブ展」より②―
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皆さんのなかで、幕末維新期に関する書物を読んでいるときに「なんでこの人はこんなにコロコロと名前を変えているのだろう?」とか、「もー、この人、いったいどれが正しい名前なの?」とかで、困った方はいらっしゃいませんか。

「維新の三傑」の木戸孝允が、幕末期に「桂小五郎」と称していたことぐらいは皆さんご存知かと思いますが、実は伊藤博文は、「幕末の改名王」と言っていいほどたくさん名前を持っている人物なのです。

幸い、当館が所蔵する伊藤博文の手紙(書簡)に、その一端をうかがい知ることのできるものがありますので、今回の展示でもご紹介しています。ちなみに写真は23歳の文久3年(1863)江戸で撮影されたものです(『伊藤博文伝』より)。

手紙にみる伊藤博文の名の変遷―「長州ファイブ展」より②―_b0076096_1754993.jpgまず文久2年(1862)正月に書いた手紙には「俊輔生」と署名しています(寺島忠三郎宛か?)。このころから使い始めた通称で、「博文」という諱(いみな)、「春畝(しゅんぽ)」という雅号とともに、高杉晋作が考えたといわれるものです。→


手紙にみる伊藤博文の名の変遷―「長州ファイブ展」より②―_b0076096_17553539.jpgつぎに慶応3年(1867)2月に書いた手紙には「宇一拝白」と署名しています(杉梅太郎宛)。このころの長州藩では、幕府からの目をそらすため、藩主から改名を命じられた藩士が多く、伊藤は慶応2年(1866)正月に「林宇一」と改名するよう命じられました。父の十蔵が伊藤家の養子になる前、「林」姓だったことが関係しているものと思われます。→

あと手紙ではないですが、高杉家に伝わった「第一游撃軍姓名簿」では「花山春太郎」と変名しています。ちなみに総督の高杉は、「谷梅之助」と変名しています。この史料は、高杉が下関で挙兵したあと、慶応元年(1865)正月に記されたものです。

長くなるので手紙の内容まではご紹介しきれませんが、上記のように生の史料を通じて伊藤博文の改名や変名を知ることができるのも、今回の展示ならではと思います。

なお、もっと伊藤のほかの名前をお知りになりたい方には、「伊藤公資料館電脳頁」というホームページをオススメいたします。

(道迫)
by hagihaku | 2006-07-12 17:56 | 企画展示室より
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