高杉晋作の手紙―幕末維新史料「蔵出し」コーナーより②―
テレビや雑誌などで行われる幕末のヒーローランキングでは、必ず上位にランクインする高杉晋作(たかすぎ・しんさく)。前回ご紹介した久坂玄瑞とともに「双璧」と並び称される、松下村塾きっての逸材です。
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この手紙は、元治元年(1864)7月下旬ごろ、萩菊屋横丁の自宅からの出入りを禁じられていた26歳の高杉晋作が、萩松本村の杉梅太郎(吉田松陰の実兄)に送ったと推定されるものです(写真をクリックすると少し拡大できます)。

ではさっそく、晋作が手紙に何と書いたのか、生の声を聞いてみましょう。

7月13日のお手紙を読ませていただきました。
おっしゃるとおり、あっという間に世の中が変わり、聞いたところでは京都で戦争があったそうです。
(中略)
噂では久坂玄瑞君や宍戸九郎兵衛翁が忠義のために死んだということですが、いかなることでしょうか。
あれこれうその多い世の中ですので疑わしく思っています。このごろは毎夜、玄瑞君を夢に見るぐらい心配しております。
どうか実際のところをご存知であれば、少しでも早くお知らせくださいますよう、ひたすらお願い申し上げます。
たしかに京都では、同年7月19日、有名な禁門の変(蛤御門の変)が起きています。晋作は親友の玄瑞が京都で戦死したという噂を聞き、玄瑞の姿を夢に見るぐらい心配して、杉梅太郎に早く正しい情報を教えてほしいと頼んでいるのです。

ところで吉田松陰が、松下村塾にやってきた晋作に玄瑞をライバル視させることで、晋作の勉学心に火をつけたというのは有名な話です。その甲斐あって、晋作は松陰から「暢夫(ちょうふ)の識や及ぶべからず」と絶賛されるまでに力をつけました。なお「暢夫」は晋作の字(あざな)です。

その後、晋作は20歳の時に江戸へ遊学するにあたり、松陰から「高杉暢夫を送るの敍」という一文を与えられました。松陰は「暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ」といい、二人力を合わせれば不可能なことは何もないと述べています。さらに松陰は晋作に、唯一無二の玄瑞を決して失うことのないようにと忠告しているのです。

残念ながら、晋作の思いも空しく、1歳下の玄瑞は京都における長州藩尊王攘夷派の復権をかけたこの一戦に敗北し、25歳の若さで自らの命を絶ちました。現実を知った時の晋作の胸中を想像すると、「なぜあの時、玄瑞君は僕の制止を聞いてくれなかったのだろうか…」と悔し涙を流したのに違いありません。

b0076096_1814818.jpg【高杉晋作略伝】
天保10年~慶応3年(1839~1867)
松下村塾の双璧、四天王の一人。19歳の時に松下村塾に入門。文久2年(1862)上海へ渡航して欧米列強に対する強い危機感を抱き、翌年、志のある者なら誰でも入れる軍隊、奇兵隊を結成した。元治元年(1864)下関で挙兵して「俗論派」藩政府を破り、藩論を統一。四境戦争(幕長戦争)では各所に幕府軍を破ったが、明治維新を目前にして病死した。
(写真は『東行先生遺文』より)

(道迫)
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by hagihaku | 2006-09-15 18:17 | 常設展示室より
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